USBのキーボード

売れない作家の日本定点観測

判読困難な返信

2015-05-31 21:35:29 | 日記
http://togetter.com/li/828873

用兵に言あり、「われあえて主とならずして客となり、あえて寸を進まずして尺を退く」と。これを無行を行き、無臂を攘い、無敵を扔き、無兵を執ると謂う。禍は敵を軽んずるより大なるはなし。敵を軽んずればほとんどわが宝を喪う。故に兵を抗げて相加わうるときは、哀しむ者勝つ。

けっきょく彼女たちは誰なんだ、という謎

2015-05-26 18:35:55 | 日記
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20150526/1432612495

一日ごとに日差しが強まり、今日はすっかり夏日でした。最近になってネット通販で、アメリカ産のミネラルウオーターを安く購入することができることがわかり、酒の飲めない身にはささやかな贅沢としてのどが潤います。物質的な嗜好品として、水を好むという体質は、万物は水より生まれるというタレスの哲学に一歩一歩近づいているのか、それとも糖尿病なのか、さだかではありませんが、健康には十分注意して参りたいと存じ上げます。今回キリン先生の提示なさった案件、つまり女性解放論は女性同士の自助努力から始まったから、女性解放論者は女性貧困層を優先して救済するという論理には、少なからぬ落胆を感じました。アメリカから公民権運動が始まってもう半世紀になりますが、女性の解放が男性の解放につながると信じた利他的な男性を裏切る言葉であって、今回のキリン先生のお言葉で傷ついたものは少なからず存在することでありましょう。女性がそうであったように、男性だって、不安や困難が憎悪や怒りに転化するのは論理的帰趨なのですから、大人の女性で、社会的に尊敬されるお立場の方が、そのような軽はずみなお言葉でお茶を濁すというのは、残念なことです。日本の広い意味での社会運動や社会思想が、どのように日本人を成熟させ成長させるのか、という期待があったところ、自分に降り注いだ咎を責任転嫁するそのご都合主義の姿勢に、この国の幼稚さと、怯懦な精神が未だ広く、いやかつてよりも巨大に、この国民の脳裏に巣くっているという事実を、キリン先生の精神に見出します。この時点になって自助というのであれば、あなた方は最初から自助と言うべきだった。私が学生であった頃の皆さんは確かに、男性は女性に無条件で席を譲れ、というメッセージを発していた。女性に席を譲ることが、どれだけ倫理にかなっているという学説が蔓延していたことは、キリン先生はご存じのはずです。それは私ではない、私はそんなことを言っていない。キリン先生のブログのコメント欄で、殺人犯は必ず非難されるという旨が示されておいでですが、これでは皆さんは詐欺師ではありませんか。公民権運動とはいうものの、つまりは権力闘争であった。口では美辞麗句で女性解放論を讃えはしたが、実際には黒く邪悪な配慮があった。そして権力闘争が昂じ、人口は減少した。皆さんは、人口の減少を捉えて、女性開放論が足らないとうそぶいている。あまつさえ、事の真相を知った男性を殺人犯であると誹謗している。権力は腐敗する、絶対的な権力は絶対的に腐敗するというのは昔の言葉ですが、この世で信頼を失った配偶者は、どのような去り状を示すのか、衆目が集まる場面であります。

彼女たちの悲鳴

2015-05-24 20:15:18 | 日記
http://togetter.com/li/724829

強者女性は、弱者男性に不幸を強制し、自分たちは不幸にはならないという権力に、恍惚となっている。彼女たちは言葉の暴力を楽しんでいるのだ。女性解放論は自然権を入り口にし、自然法に結びついてバーキアンとなり、人世を渡る人民に強いものと弱いものが形作る身分をはっきりと示そうとしている。革新を出自とする思想が、封建時代を思わせる論理に結びつく瞬間である。彼女たちの論理は仲間の陣営を固める論理であって、どうしても敵をつくる論理だ。そこへこうした穢土の地に雲間が割れ運命の神があらわれいで、弱者の意見を代弁する立場に左足をかけ、弱者は強者を敬えという傲慢な態度に右足をかける咎人に、引き裂きの刑を授けているのだ。汗を流して労働にいそしむよりも、資産運営の方が利益の多い持代に生まれた、影絵のような出来事なのだろう。

ゴキブリが最終的に生き残る

2015-05-24 17:05:03 | 日記
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20150523/1432348113

私見とするべきなのか、一般的な日本人の意見として提出するべきなのか、判断が迷いますが、一筆献上いたします。私は40を超える中年の男性ですが、小泉政権時に執り行われた新自由主義に対する怒りというのは、製造や流通の現場のみ新自由主義の政策を設定し、その他には設定しなかったという差別に対しての怒りなのですから、ご身分の高いKOZITA先生とは、立場が違うのです。先生は、国民国家の構成員として、ルールの違う人生を送らなければならない社会にお怒りをお示しになるのではなく、身分の高いお方が、ご自身の身分を簒奪しようとするものにお怒りの矛先をお向けになっておいでです。新自由主義の洗礼を受けたものと、新自由主義の洗礼を受けていないものが混成する社会で、新自由主義の洗礼を受けた橋下派と新自由主義の洗礼を受けていない層がぶつかりあい、年長者が支持をした後者が選挙でわずかな差で勝利を収めはしましたが、これから敵は増えるばかりで、それならばいっそ昔の共産党がしてみせたように、自己批判をしてみせ、傷の深さを自分でコントロールしたほうが、今後の戦局を伺うには、よろしいのではないか、と思われます。持たざるものが醜悪なのは世の習いです。ですから、持たざるものの代弁者が醜悪なのも、当然です。大日本帝國への反省というのは、個が全に奉仕した結果、焦土になってしまったことであり、個人が己の利益を追求できなかった点であると思いますが、この時代に、個はたしかに己の利益を追求しているように見えるけれど、国際情勢を参照すると、この国はみんなバラバラになってしまって、判断のすばやさで後進の独裁国家に後れを取っており、日本は民情をまとめる独裁者を必要としているのではないか、と悪寒と共に認識します。ギリシャの昔から、市民は奴隷を必要としてきましたが、戦後日本もそろそろ辻褄が合わなくなってきました。こうした愚民と決着をつけるには、新自由主義を徹底してみな愚民になるのか、新自由主義の影響を受けなかった層が新自由主義の大波をかぶった愚民を救済するのかどちらかしかありません。早めにご判断をお下しにならないと、第二第三の橋下徹は再び現れいで、熾火のような痛みを抱いた民衆を扇動し、悪の悪をなすことでしょう。