USBのキーボード

売れない作家の日本定点観測

否定的感情を、バッド・センスを意図して惹起する時代

2015-10-04 03:11:42 | 日記
http://mistclast.hatenablog.com/entry/2015/10/03/163446

男性であっても、女性開放論の文脈を心の中に深く内面化し、ああでもないこうでもないとのたうち回るのは、みっともないと感じました。社会をシステムと捉えるのは、管理者側の都合ですが、それを無効化するのは生命力であって、一つの顕現としての性的魅力です。社会をシステムと捉える思考を心の中に深く内面化し、社会のシステムから横溢する存在に醜悪感を刷り込もうとする姿勢は、惨めなものですね。これは社会を運営する側が、学校教育から一歩距離を取るよう促すという配慮なのではないですか。女性開放論が弱者を社会のシステムに、人為の回路に回収させるよう促すから、訳がわからなくなるのです。この場合、弱者とは混沌の度合いが弱まった存在です。開放するというのは、責任を取らないということではないか。近代社会であっても、すべての人がシステムに収まるわけではない。システムに収まらなくても、どうにか生きようとする姿勢が人の関心をそそり、社会化を促すのではありませんか。人はもっと、混沌としている。混沌とする人を論理に当てはめるのも、大概にするべきだ。人の生命力が衰退することで、管理が容易になりました。人はあまりにも容易に慣らされています。それではいけないという心理が、バッド・センスとなって表現にみなぎっている。力任せにぶん回すのではなく、穏やかな表現の中に悪意の刺が突き刺さるのです。それをただグロテスクだと捉え、その刺を抜き去って、理想的な社会に向かおうという風情は、飼いならされてしまった証拠です。群がる霧の向こうから、牧夫に従って首輪の鈴をリンリンと響かせながら近づいてくる役獣は、貴方自身ではありませんか。ビフテキになる運命を半ば受け入れ、一時の幸福をしっかりと反芻し、管理者と共に再び霧の中に消えてゆきます。濃い霧の中でどのような営みが行われているのか、歴史には記されません。社会の役に立つ人物というのは、その運命と軌を一にします。お祭りになって、とどめを刺される段になり、なぜ教育で太らされたのかを気づくのです。せっかく角があり、反撃できるというのに、なぜ自立と称するシステムにしまい込まれるのか。せっかく角があり、反撃ができるのであれば、敵をすべて一掃させようとする姿勢は、なにが根拠にあるのか。敵対はするが共存もするその一瞬を生き続ければいいのに、と思います。不景気な顔色の悪さに、理性の行方を思います。


ステロイド剤の使いすぎに注意

2015-10-04 00:57:21 | 日記
http://togetter.com/li/880909

特に強い関連があるわけではないのですが、マルセル・カミュ監督「黒いオルフェ」を思い出しました。ヨーロッパ系人類の精神的な根源であるギリシャ神話の一幕を、経済的弱者であるスラムのアフリカンに配役するという映画です。死者の復活をテーマにした、生命力の眩しい映画でした。