karipones ローカルフォト

素朴な風景と花
マイナーな場所も紹介したいと思います!
よろしくお願いします~

高松城址の桜

2023-03-25 21:51:11 | 日記
高松城址の桜 2023.3.25撮影
今日は久しぶりの土曜休みでした😏 少し肌寒い日でしたが、こちらも久しぶりの備中高松城址を訪れ散歩撮りしてみました😇 









春の野に すみれ摘みにと 来し我そ 
野をなつかしみ 一夜寝にける (山部赤人)
春の野に、すみれを摘もうと来た私は、野に心惹かれて一夜眠ってしまった。
万葉集から有名な和歌を選ばせていただきました。 地味なんだけど、純粋で
優しい表現で愛され続ける歌ですね😏 この歌、私も好きです。


こちらも春の野草の定番、ナズナでしょう~
家族で集まって🌸いいなぁ~


ここまで高松城址を散歩散策してみました😉 
このあと少し遅くなりましたが昼食は、やま幸に行きました😁


3月限定メニュー 白身魚の甘酢あんかけ定食を食べました😋 
私のブログの昼食の定番やま幸は、いけす料理やま幸といって、もちろん
肉料理もありますが基本は魚料理ですね。

今回は🌸桜を眺めながら古戦場、高松城址を散歩撮りしてみました😉 
桜は来週の週末はもっと良いでしょうね!
昨年の暮れから忙しかったですが、ようやく楽になってきました。
以上~高松城址の桜でした!(^^)!
見て下さった方ありがとうございました!それでは~😊 
 










 

惣爪塔跡

2023-03-12 16:28:44 | 日記
惣爪塔跡 2023.3.12撮影
今回は、岡山市北区惣爪、足守川の東岸近くの田んぼの畔にある奈良時代の
史跡、惣爪塔跡と南へ約200mの場所にある明治天皇御野立所と足守川沿いの
風景を撮ってみました😇 

道の奥、左側に惣爪塔跡(そうづめとうあと)礎石が見えています。
手前左に止めているのは私の愛車~🚲です😏 

左の穴のある石が、昭和3年に国の指定史跡になっている惣爪塔礎石です。



古来「石の釜」と呼ばれている、塔の中心柱の礎石(心礎)である。
礎石には、長径2m、短径1.5mで、上部に直径70cm、深さ17cmの円柱穴を掘り、さらに、その底に径16cmの小孔を開けている。
奈良時代前期、この礎石の上に建っていた塔のほか、金堂・講堂などの建物がならび、一大伽藍が営まれていたことが想定される。
塔以外の建物の礎石や基壇の痕跡は、周囲の水田の地下げのため、現在は確認することが出来ない。この寺は「津の臣」の氏寺であったともいわれている。なお、付近一帯は弥生時代の集落跡でもあり、水田の下から貝層や土器その他の遺物が発見されている。(旧説明板より)

惣爪塔礎石の右にあるこの石碑は、首相犬養毅(木堂)先生が地元の土肥さんという人物を、称えた顕彰碑ですね。

次はここから200mほど南にある明治天皇惣爪御野立所へ~
右手の草むらを覗いてみると春が~😏 
オオイヌノフグリですか~😏 


テントウムシも活動!~😁 


ホトケノザですね~😀 

明治天皇惣爪御野立所(そうづめおのだちしょ)

全国にあった明治天皇聖蹟は戦後1948年、占領軍GHQ民間情報教育局(CIE)の指示に基づいて史跡の指定を一斉に解除されたようですね。
こちらも現在は惣爪遊園地で公園とされていますね。
この小高い丘の上で明治43年、当地で行われた陸軍大演習を明治天皇が統監された場所ですね。 




龍蹤(りゅうしょう)表彰之碑
陸軍大将・参謀総長の奥保鞏(やすたか)が明治天皇を称えて建てた石碑。
歴史を遡れば、江戸時代260年鎖国で日本は朝鮮も中国も必要なかった・・・
1853年ペリー提督率いるアメリカ黒船艦隊が浦賀に来航~
日本に開国を要求してから時代は~帝国主義も富国強兵も植民地支配も、
元々は欧米列強白人のやり方でしょう。



丘の上から北西の方向~左に足守川、右に惣爪塔跡が見えています😉 

 
丘の上から東~吉備津神社の方向ですね😉 
それでは明治天皇惣爪御野立所(惣爪遊園地)を後にします~

足守川沿いを南に少し散策します😀



ツルニチニチソウですね😉 


足守川

足守川東岸から東の風景~吉備津神社の方向
ここまで今回は奈良時代の古い史跡、惣爪塔跡を紹介しました😉 
見て下さった方ありがとうございました!それでは~😊 




仁科芳雄博士生家

2023-03-05 19:12:19 | 日記
仁科芳雄博士生家 2023.3.5撮影
久しぶりの投稿になりますが、浅口郡里庄町浜中717、日本の原子物理学の父
仁科芳雄博士の生家を、今日訪れてみました😇 

仁科芳雄博士は、里庄町が生んだ世界的な物理学者で、日本の原子物理学の父として尊敬されています。
地元の新庄尋常小学校、生石高等小学校を卒業した後、中学高校時代は親元を離れ岡山で過ごし、東京帝国大学工科大学電気工学科に進んで首席で卒業し、理化学研究所研究生となりました。
在職のままで大学院に進学して物理学を学んだ後、理化学研究所派遣留学生としてヨーロッパに派遣され7年余りの留学生活を送り、クライン-仁科の公式を導出しました。
帰国後は、理化学研究所主任研究員として、自らも研究に没頭し、宇宙線の研究、サイクロトロンの建設等をすすめ、湯川秀樹、朝永振一郎といったノーベル物理学賞受賞者をはじめとする多数の研究者を育てました。
また、戦後の混乱期には理化学研究所の所長を務めるなど、その生涯を物理学を中心とした基礎科学の振興に捧げ、戦後初の文化勲章受章者となりました。
(パンフレットより)








この生家は、幕末最後の代官として、浜中村と他3ヶ村を治めていた祖父仁科存本の居宅で、役所である代官屋敷に対して、元屋敷と呼ばれていました。
代官になるまでの仁科家は、村落内の公務をつかさどる庄屋や、数ヵ村の庄屋を束ねる大庄屋を務めていましたので、簡素な中にも風格を備えた屋敷構えになっています。
建築年代は不詳ですが、岡山県南にみられる江戸後期の庄屋建築の特徴をよく残しています。
昭和53年、仁科博士の長兄の遺族から生家の土地家屋を一括譲り受け、これを解体修復して、郷土の誇り仁科芳雄博士を偲ぶ拠点とすると共に、次代を担う青少年の励みとすべく活用をはかっています。(パンフレットより)










仁科博士のお父様の江戸後期の紋付袴でしょうね😉 



梅の家紋ですね😉 











来週の日曜日は観梅会だそうですよ!
気温が上がりそうなので次の日曜には梅の花いっぱい咲くでしょうね😇 


今回は里庄町の仁科芳雄博士の生家を初めて訪れてみました。
皮肉にも、あの太平洋戦争中は仁科博士ら原子物理学者たちは、軍部から
原子爆弾の開発を要請されていたのでしょうか。
ウランやプルトニウムの核分裂、水素の核融合、莫大な熱エネルギーが発生するので怖いですね。被爆国日本~発電など平和利用のみにしないと~

私は朝早く家を出て夜遅く帰ってくる生活がまだ続いていますが~会社では
給料をもらっている側なので自分の思うようには中々なりませんね。
もう気持ちのよい暮らしやすい気温になってきましたね😏 
以上~仁科芳雄博士生家でした!(^^)!
見て下さった方ありがとうございました!それでは~😊