古代四方山話

古代について日頃疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに綴ってみたいと思っています

倭の国の人びと ①

2021-02-05 17:01:19 | 歴史

中国での銅鏡は紀元前2000年頃の斉家文化のときには小型で薄いものが多く、姿見ではなく呪術的な用途で使われていたかもしれないそうです。

出現期の銅鏡は太陽を表すような文様が多く、太陽信仰と関係していたかもしれません。

戦国時代後期に急速に普及が進んだ銅鏡は、大型の姿見と小型の魔除け鏡の使い分けがあった様子。

そして玉璧の代用品として副葬されてきたといいます。

 

倭人は鏡をどうやって使っていたのでしょうか。

太陽信仰に関わる呪術的な使い方であれば、中国では魔除けに使われたらしい小型鏡のほうが向いているように感じます。

中国のものが朝鮮半島を通じて伝わったのなら、中国での使われ方に準じていてもよさそうなのに、倭では逆に大型の鏡を祭祀に用いていたのでしょうか。

もし単に玉璧の代用品・副葬のための品であれば破鏡の意味が解りませんし。

鏡だけでなく銅鐸もそうです。

たとえ起源が朝鮮式の鈴だったとしても、銅鐸は最初から朝鮮式の鈴とは「別物」ですよね。

武器型青銅器にしたって、鉄器普及より前に祭器化しています。

倭人は中国や朝鮮半島のものを取り入れるにしても、そのままの使い方をするつもりは更々ないように感じます。

 

串間市の王の山古墳から紀元前2世紀に漢王朝の工房で作られたと思しき玉璧が出土しています。

直径33.3センチの優品で、そっくりの璧が中国の南越王墓から40枚以上発見されているそうです。

交易でこのような王侯クラスの宝物を入手するのは不可能に近く、亡命した王などが倭に持参したと考えられています。

串間市から出土するということは、玉璧の持ち主はそこで暮らし亡くなったのでしょうか。

亡命者ゆえにひっそりと暮らしていた?

王侯クラスの人物であっても、倭において大きな権力を手にしたようにはみえないのですが。

 

倭人というのは中国や朝鮮半島とは違った価値観を持っていたように思えてなりません。

倭人の首長層が渡来系の人びとだったとは私にはどうしても思えません。


3 コメント

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玉璧と銅鏡? (刮目天 一(はじめ))
2021-02-05 22:59:10
いつもいい話題をありがとうございます。
邪馬台国時代以前の奴国は通説では伊都国などと同列の倭国の百国の一つの有力な国程度でしたが、玉璧の破片の出土によって奴国こそ春秋の呉の太伯の後を裏付ける遺物だと分かりました。これによって記紀神話や新唐書、宋史に記された王年代紀の天御中主が江南の龍蛇神を祀る民族(原倭人)の王であることも確信しました。つまり、玉璧は子爵を表す呉王族の印章だったのです(王金林「邪馬台国と古代中国」学生社1992.p.99)。新唐書、宋史にあるとおり日本は古の倭の奴国でした。

完全な形でないですが、須玖岡本遺跡の巨石下甕棺の奴国王墓でガラス璧(瑠璃璧)2個片、伊都国と夜須町峯遺跡で破片が見つかっていますから、奴国王が一族に配布し、倭国の重要な拠点を奴国王族が支配していたということです。

当初、銅鏡は楽浪郡との交易で容易に入手できるので、恐らく元締めの奴国王が諸国の首長に配下の印として完鏡を下げ渡し、首長はその部下に印として鏡を砕いて破片を渡したのではないかと考えています。比恵・那珂遺跡は列島内の交易センターで、そこに物品を集めるために各地の有力な首長を配下にして、物流のロジスティクスを確保する目的でしょう。破片に穴を開けて首から下げていたようです。後の時代は鏡作りの職人を派遣して有力者の墓に副葬していたようです。
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Unknown (咲くやこの花)
2021-02-06 08:55:18
刮目天様、いつもありがとうございます。
完璧という言葉をいまだに日常的に使っているのに、かつての倭人には玉璧にさほどの興味、賛美がないように思えて…。興味があれば、ぼう製璧なんていうトンデモを作りそうな人びとに思えて…。
すみません、くだらなくってm(__)m
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Re:Unknown (刮目天 一(はじめ))
2021-02-06 11:11:32
早速、お返事いただき有難うございます。くだらないということはないですよ。謎の古代史の解明はこういういいセンスの疑問からですから、皆さんもあなたに注目されているのでしょう。

串間町の完璧な玉璧については、【検証9】奴国時代の話(その2)https://blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/7dd3e86ba6b832b5555224b3cbaaad0f
の最後の(注3)で以下のように述べました。

倭の奴国王が「呉の太伯の後」であるとして、前漢末期の哀帝か平帝から下賜されたのかもしれない(奴国・伊都国が活躍していた紀元前の世紀末ころ「中国正史には現れない外交関係が実在した、と推定される」とある(寺沢薫「王権誕生」日本の歴史第02巻、講談社、2000、p.159) 。 もしもそうであれば倭国大乱の過程でたまたま王の山古墳の被葬者に渡ったものだったかも知れない(*^▽^*)

それから、この時代の倭人は民間では江南の呉人(原倭人:もともとシナ人から倭人と呼ばれていたのはこの人々)と列島内で縄文人とが混血して、彼らも倭人と呼ばれるようになったと考えています。列島内に呉人(安曇族の海人白水郎)が弥生前期から各地に展開して集落をつくっていたと考えています(遠賀川式土器)。彼らと交流した縄文人が混血していったと思います(遠賀川系土器)。

縄文系の海人がムナカタ族だと考えています。身分制度もできていたようで、その姫イザナミが奴国大王イザナギと結婚し、二人の子供たちが日本を建国した史実があるので、第17代王伊弉諾尊を大和朝廷は皇祖神と考え、最も高い神階「一品」を与えて丁重にお祀りしていました。しかし次のスサノヲ大王の時代に祭祀文化の融合を図ったことで日本列島に大きな混乱をもたらし、倭国大乱が起こり、縄文海人ムナカタ族の姫巫女卑弥呼の登場から三世紀末のヤマトの祭祀王(初代天皇応神)の即位までの戦乱の世紀を生み、日本が建国されたということを突き止めました。その切っ掛けを与えたのが国生み神話でした。長江文明と縄文文明の衝突によって日本が生まれました。

どうも長々と書き散らして申し訳ありませんでした。また色々な疑問をよろしくお願いしますね(*^▽^*)
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