
今朝の愛媛新聞の記事。オオソリハシシギ・・・大きく反ったクチバシをもつことから名付けられたという。ユーラシア大陸北東部からニュージーランドまで1万キロを旅する渡り鳥で、途中日本に立ち寄るものもあるから、日本では旅鳥の仲間とされている。
渡り鳥の類が季節に合わせて数千キロを移動するのは珍しいことではないが、“無着陸”で10500km飛んでいるのがいたという事実はやはり驚くに値する。無着陸ということは、おそらくその間食事はしていないであろう。ルートの全てをかなりの追い風に助けられたとして、対地速度100kmで飛んでも100時間・4日間以上(この記事では“一週間ほどかけて”)、地面や海面に触れることなく空中を移動してくるのである。
※http://www.sorainu.com/archives/50911908.htmlのいぬさんの訳によると、「平均速度時速56kmで、高度2000メートルの高さを、約1週間にわたって飛び続ける。オオソリハシシギは、たいてい4匹で編隊を組むが、それぞれの体重は約300グラム程度しかない。それは、長期間に渡る飛行によって、半分にまで体重が落ちてしまうためである。」
その生来の研ぎ澄まされた感覚で気温や湿度はもちろん、太陽高度や風の具合を敏感に感じ取りながらこの長途の旅を始めるのだろうが、彼らにとって千kmという距離の尺度はどういう意味を持っているか、昼夜を通して空中で風を切っている間、何を感じ何を想っているのか・・・ゆっくり聞いてみたい気がする。
1万キロと言えば、地球の直径が約1万2千キロ、地球一周で約4万キロだ。こないだ“地球規模で考え・・・”ということを少し書いたが、彼らは太古の昔からまさに“地球規模で動き生活”している。大空だけでなく大海で暮らす多くの回遊魚や海生哺乳類もそうだ。大気や水という常に全地球表面を伝い流れる流体を生の足場にする彼らにとっては、地球規模云々の話は、極めて日常的で当たり前のあらゆる行動の前提条件であるともいえるだろう。
いくつかの証拠から、人類も、現在のように大地の狭い地域に閉じ込められる以前の太古の時代には、これら鳥類や魚類や海生哺乳類など、地球そのものを“生きる場”とする仲間たちと同様、極めて広大な世界に生きていたのではないか・・・と私は推察しているのだが、いずれにしても、人類が地面や海面に境界線を引いて国家という地域共同体を作り、歴史が進展する過程で数え切れないくらいの戦争という愚を繰り返し、産業革命を機に近代を迎え、更に科学技術の加速度的進歩によって現代の文明史的危機を招来しているという事実は、私たち人類が彼ら自然に生きる仲間たちから“そのあり方”を学びとって、その“本来の生き方”を思い出さざるを得ないという状況を提示しているのではないだろうか。
この記事の最後でヨッシェム博士も言っている。鳥には国境はない。だから、保護のためには国際協力が必要だ・・・そして、これは、私たち人類の保護にとってもそのままあてはまる訴えである。
