しばらくして、とう小平が副首相に復帰し、華国峰にかわって、とう小平が実権を握り、最高実力者になった。
とう小平は4つの近代化―農業、工業、軍事、科学技術の近代化を掲げた。
農村では自由市場を復活させ、生産請負制を導入した。
人民公社は解体へと向かう。
西側からの資金や技術を導入し、工業を発展させる。
経済特区を創設し、外国との合弁で、輸出向け工業製品をつくる。
統制計画経済の割合を減らし、市場経済を拡大する。
まさに、大転換だった。
私の機械研究所でも、自前の大型天体望遠鏡を開発、製作するプロジェクトが急ピッチで進められる。
外国製の機械を導入する。
外国人とも接する機会が増えた。
仕事に没頭しながら、心の片隅には常に“第2次文革が起こるかもしれない”ことへの配慮があった。
京生は兄の援助もあり、遅ればせながら、専門学校に入った。
卒業後は、外国との合弁会社の耕耘機製造会社に就職することができた。
将来の計画も立てられるようになった。
人々の生活はめざましく向上した。
しかし、貧富の拡大、汚職の蔓延、人々の拝金主義、個人主義がはびこる。
京生は、経済が失速した時、自分の内にある、昔の血が騒ぐだろうことを感じた。
1981年、党中央委は「歴史的決議」を行った。
〇文革は誤りで、その主要な責任は毛沢東同志にある。
しかし、毛沢東同志の誤りは“第二”で、功績が“第一”である。
迫害され、失脚した多くの幹部の名誉回復が行われた。
元の権力を取り戻した者もいれば、りゅう少奇のように帰らぬ人もいた。
(共産党の発表でも、百万人以上が死亡したという。)
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