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ローマとカルタゴ(8)

原本はイギリス人、Shippen Edwardにより書かれた「Naval battles of the world: from Salamis to Japan Sea」(1905年刊)で、サラミスの戦いから日本海海戦までの歴史的な海戦を紹介している。 日本は周囲を海に囲まれてはいるが、とても海洋国家とはいえない。日本人がはるかなる海に眼を向けたのは、室町や明治のほんの一時期にすぎない。世界では海の支配をめぐり、いくたびかの戦いが繰り広げられた。それを垣間見ることにより、歴史の舞台では忘れられがちな部分にスポットを当ててみよう。

ROMANS AND CARTHAGINIANS (8)
     After various partial engagements with the Carthaginian fleet, productive of no definite results, Duilius assumed command of the Roman fleet, and steered for Myloe, where the Carthaginians, under Hannibal, were lying at anchor.

The latter expected a easy victory, despising the pretensions of the Romans to seamanship, and they accordingly left their anchorage in a straggling way, not even thinking it worth while to form line of battle to engage landsmen.

Their one hundred and thirty quinqueremes approached in detachments, according to their speed, and Hannibal, with about thirty of the fastest, came in contact with the Roman line, while the rest of his fleet was far astern. Attacked on all sides, he soon began to repent of his rashness, and turned to fly-but the “corvi” fell, and the Roman soldiers, advancing over the gangways, put their enemies to the sword.

ローマとカルタゴ(8)
     明確な結果のでなかった何回かのカルタゴ艦隊との小競り合いの後、ドウイリウス(ローマ執政官)はローマ艦隊の指揮の責任者になり、ハンニバル指揮下のカルタゴ艦隊が停泊している、ミュラエに向け舵をとった。

     カルタゴ人はローマ人の操船能力を見下し、楽勝を予想していた。  そのため、陸の人間(ローマ人)と戦うのに戦列を形成するには値しないと考え、彼らは停泊地を各船ばらばらで出発した。

     カルタゴの130隻の4段櫂船は、各々の速力に沿い、分散して接近した。  約30隻の最速船を引き連れたハンニバルはローマの戦列に接触し始めたが、彼の艦隊の残りは、はるか後方だった。  両側面を攻撃され、ハンニバルは自分の向こう見ずをすぐに後悔し、とんぼ返りに旋回し始めた。  しかし、(時すでに遅く)“カラス” が落下し、桟橋を越え進んできたローマ兵は、敵兵を殺戮した。
     
(ひとこと)
     本文中のハンニバルは、有名なアルプス越えのハンニバルとは同名異人。  後者のハンニバルは、これより30年以上あとの第2次ポエニ戦争(BC218~201)-ハンニバル戦争とも呼ばれた-で活躍した名将である。  ハンニバル率いるカルタゴ軍団はスペインからイタリア本土に攻め入り、5度の戦いで巧みな戦術により、ローマ軍を散々に打ち破った。  しかし、カルタゴからの援軍なく、イタリア南端におしこめられ、最後は北アフリカのカルタゴ近くのザマの戦いでローマ軍に敗れた。
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