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英語で読む海戦史(61)

原書は、著名なアメリカの海戦史家Samuel Eliot Morisonの「The Two-Ocean War」です。内容は第2次世界大戦におけるアメリカ合衆国海軍の太平洋と大西洋における戦いを描いたものです。日本との太平洋における戦いの部分に関しては、光人社から「モリソンの太平洋海戦史」(大谷内一夫 訳)として出版されています。あまり知られていない、ドイツとの大西洋における戦いの部分に関して、英語の勉強をかねて読んでみました。

(原文)
Chapter ⅩIII The Navy in the Invasion of France( 1944 )
61.
     During1944, with General Carl Spaatz commanding the U. S. Strategic Air Force in Europe, POINTBLANK was better directed. In the “Big Week” of 19-25 February 1944, 3300 heavy bombers of the England-based VIII, and over 500 of the Italy-based XV Army Air Forces, escorted by about the same number of fighter planes, pounded factories of the German aircraft industry, as far south as Ratisbon and Augsburg. Our losses were 226 bombers, 28 fighters and about 2600 men; but some 600 German planes were shot down, denying their use to the enemy when he needed them most. By 14 April, when Operation POINTBLAMK ended and air operations with immediate reference to OVERLORD began, the Allied air forces had established a thirty-to-one superiority over the Luftwaffe. On D-day “Ike” told his troops, “If you see fighting aircraft over you, they will be ours,” and they were.

Besides taking a terrific toll of the Luftwaffe, the air forces gave vital prior support to the invasion by their “transportation plan” to cripple the enemy’s communications system. This was a sustained bombing of roads, railroads and marshaling yards in France, Belgium and western Germany. Results were spectacular. Some 600 trains carrying German army supplies were back-tracked, and by the end of May all rail traffic between Paris and Channel was stalled.   
            
(訳)
第13章 フランス侵攻での海軍( 1944年 )
61.
     1944年の間、ヨーロッパにおけるアメリカ戦略空軍司令官カール・スパッツ将軍のもと、ポイントブランク作戦は良好に指揮された。  1944年2月19日から25日の“大いなる一週間”において、イギリスに基地をおく第8空軍の3300機の重爆撃機とイタリアに基地をおく第15陸軍航空隊の500機以上の重爆撃機-それらはほぼ同数の戦闘機により護衛されていた-は、ラチスボンとアウグスブルグ南方のドイツの航空機産業の工場群を叩いた。  我々の損失は226機の爆撃機と28機の戦闘機および約2600人の搭乗員だった。  しかし、ほぼ600機のドイツ機が撃墜された。  そのことは、敵がそれらの飛行機を最も必要とした時(上陸迎撃時)に使えなくしたのである。  ポイントブランク作戦が終了し、オーバーロード作戦への空からの直接支援作戦が始まった4月14日までに、連合国空軍はドイツ空軍に対して30対1の優勢を達成した。  Dデイ(上陸日)にアイクは配下の部隊に、“もし、君たちが頭上に軍用機を見たら、それらは味方のだろう”と語った。  そして、その通りだった。

     ドイツ空軍から恐るべき通行料を取り立てた以外に、我が空軍は敵の兵站システムをつぶすため、“輸送計画”作戦により侵攻に不可欠な事前援助を与えた。 これは、フランス、ベルギーとドイツ西部の道路や鉄道線路、鉄道操車場を繰り返し爆撃することだった。  結果は素晴しいものだった。  ドイツ軍の軍需品を運ぶほぼ600台の貨車は引き返させられ、5月末までにパリと英仏海峡間の全ての鉄道交通は遮断された。 

(注釈)
    ドイツ本土への戦略爆撃は激しいものだった。  戦争終結までに戦略爆撃を行った英米爆撃機の総数は53万機を超え、投下爆弾量は合計164万トンに達した。  その激しさは、日本本土に投下された爆弾量の約10倍だったことからも推測される。  連合軍機の損害も多く、1万機を越える爆撃機がドイツ本土上空で撃墜され、ほぼ同数の爆撃機が大破され廃棄処分となった。
〔参考文献:大内建健二著「ドイツ本土戦略爆撃」、光人社NF文庫〕
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