1960年代後半、日本では10年間続いた高度経済成長の後を受け、経済第一、輸出第一の政策が続いていた。そのためには、科学時術の振興が不可欠だ。
そして、大学の、特に理工学部の充実・拡大が政府主導で進められた。
しかし、入れ物は大きくなったが、質が追いつかず、大学の勉学環境は悪化した。
このことが、全国的に起こった大学紛争の背景にあった。
それは西側諸国でも起こり、学生の現体制への“異議申し立て”が頻発した。
中国では1965年から文化大革命の嵐が起こり、「造反有理」の風潮が日本の学生運動にも影響を与えた。
また、ベトナムの独立以来続いていた内戦にアメリカが本格介入し、地上軍の大部隊を直接戦闘に投入していた。
アメリカの大義名分は「東南アジアの共産化防止」だ。
しかし、東南アジアを植民地にしていたフランスの肩代わりという印象は拭えず、日本や世界で反ベトナム戦争、反米運動が左翼陣営を中心に広がりを見せていた。
日本では高度経済成長の光と影の、影の部分―公害、交通戦争、都市と地方の格差、過疎と過密などが現れてきた。
秋山の生活もぎりぎりの状態だった。
日に当たらない6畳1間での2人暮らし、昼間は授業だが、夜は遅くまでコカコーラの配送の仕事だ。生活費と学費を稼ぐため、1年の秋からは昼間の仕事も引き受けた。
楽しみは近くの図書館で、第2次世界大戦を扱った“戦記もの”や自動車や飛行機のメカニックの本を借りて読むことだった。
読んでいると現実を離れ、本の主人公に自分を投影し、アドレナリンが出てきて興奮した。
大学に自動車部に入ろうとしたこともあったが、とても部活動の時間が取れそうも無く、エンジンの分解の様子を見るだけで、諦めた。
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