kankoのひとりごと

外出できず、ネットと電話・ラジオで日々が過ぎています

街なかへ

2024年05月31日 | 日記
1か月ぶりで、バスに乗った。
駅前の噴水の解体工事をTVニュースで見たので、寄ってみた。
駅前の工事は1年以上前からやっているが、ますます大規模になっている。
噴水周辺は、桃太郎像も含めて立ち入り禁止だった。


ネギ坊主に見えるのが、噴水の残り部分。


商店街への横断歩道あたりで撮った。


今年3月30日。噴水納めの水が出ていた。

噴水の引き取りを名乗り出たのは環太平洋大学だけだったので
屑鉄としての価格、82,000円で引き渡されたとのこと。
どうしようもないけど、淋しい。


買物はイオンに行った。ユニクロでTシャツを数枚など。
その後、ビックカメラでBlue Toothのスピーカーを。
この手のものは、実際に手にしてからでないと使い方も分からないので
適当だったかどうかは不明。

外出はこれで精一杯。
私は年寄りオーラを漂わせてるんだろうね、
すれちがう人も、店の人も、気配りしてくれていた。
じゃんじゃん出かけて、そんなカケラ、粉砕しなければ😆

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子どもの擦り傷

2024年05月30日 | 日記
小学校低学年の子が気になるので、登校時の見守り活動をやっている。
先週は転んで擦り傷を作った子が2日続いた。

女の子は、歩道の縁石で転んだ。
何をやってたのかは知らないけど、けっこう派手な擦り傷。
ウエットティッシュで砂を拭いて、大きめのバンドエイドを貼ってあげた。

次の日、男の子は道路にはみ出しているクルマの段差プレートにつまづいて転んだ。
膝から血は出てないけど、バンドエイドを貼ろうとしたら、
擦り傷は何個もあって、どれが今の傷か分からん😣
反対の膝にも、いくつか。

転びやすいのは、ランドセルが重いからじゃないだろうか。
小さくて細い足に、大きくて重いランドセル。
重心が高いんだよ!

今週会った時は、きれいに治っていた。
それで子どもは元気に育つのだろう。
私も子育てをしてた頃は、擦り傷くらい気にしなかったと思う。
それが、孫より小さい子を見ている今は、重いランドセルを目の敵にしている。

親はいいと思ってるんだから、私は黙ってなくちゃ。
でなきゃ、たくましくは育たんぞ!

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水戸行き・今昔

2024年05月29日 | 日記
「カレーの市民」の銅像は、上野の国立西洋美術館の前庭で見た。
歩いていたら目に入ったので、びっくりした。
20年近く前のこと。

そのころ次男は、常磐線のどっかの駅近くに住んでいた。
常磐線の始発駅は上野だったので、東京駅からは、山手線で上野に行った。
古くて田舎っぽい駅なのに、でっかい壁画があって、びっくりした。
(猪熊弦一郎は馴染みのある画家なので…)

岡山に帰るときは、茨城を早くに出ると、上野公園を散策できた。
思い付きで、いろんな方向を歩いた。

何年か後には、常磐線が東京駅発着となった。
皇居の方へ歩いたこともあるが、駅構内のステーションギャラリーも見た。
2時間もあれば、どちらかへは行けた。

その後には、常磐線が品川駅発着になった。
新幹線を降りると、常磐線のホームは近いので、寄り道はしない。
それし、もう、水戸には行ってない。


最初に水戸に行ったのは50年ほど前。
東京で学生生活をエンジョイしていた兄(3歳上)が、
「東京に遊びに来い」と呼んでくれたとき。
従姉(母の長弟の娘、私より2歳上)も学生で東京におり、兄とは行き来していた。
叔父(母の次弟)が日立に勤めていたので、3人で日立へ出かけた。

兄の下宿からは、国鉄じゃなく私鉄で行った、取手まで。
周りの景色は、関西とは全く違っていて、西部劇の荒野のようだった。
山も家もない原っぱを、2両繋ぎの気動車が、ガタガタと走っていた。

取手からは常磐線に乗った、日立まで。
叔父夫妻は、太平洋の広~い海原を見せてくれた。
そして次の日に連れて行ってくれたのが、水戸の偕楽園。
梅を見ながら歩いていると、叔母はチョコレートを渡してくれた。
マーブルチョコしか知らなかった私には、びっくりするほど美味しかった。
3人とも、喜んで堪能したはず😆

その後で、お寿司屋さんに行った。
叔母は「若い子を、すきっ腹でお寿司屋さんに連れてきたら大変なことになるからね」
と笑ってた。(どうりで叔父たちはチョコを食べてなかったんだ…)

帰る時、「おみやげ」といって2000円くれた。
何を買えば記念になる?
迷わず新幹線の特急券を買った。
もちろん、終点の新大阪まで!
奈良にいたので、行きは、関西本線ー東海道本線の夜行急行だった。
東海道本線の特急や急行列車は、従来通り走っていた頃。
切符の変更手続きをしたら,2000円くらいで、新幹線切符になった。
(東海道本線とは線路が違うけど、乗車券は同じだった)

開業して半年も経ってない新幹線電車には、塗料のにおいが残っていた。
浜名湖の夕日がきれいだった。

その後は、数えきれないほど新幹線に乗ったけど
あの時がいちばん素敵だったと思う。

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彫刻

2024年05月28日 | 日記
先日はバラの花を見に行ったのだが、ロダンのブロンズ像の印象が強い。

一日雨で暇だった今日、高校時代の同級生に電話してみた。
彼女はたくさんの石膏像を作っており、ブロンズ像にしたいとも言ってたんだ…。

石膏像は、① 粘土などで形を作り、② その原型を元に、石膏で型どりしたもの(だと思う)
それを、③鋳造所でブロンズ像に加工する。
そしたら、戸外に置ける彫刻になる!

彼女の家にあったたくさんの石膏像、
「どこ(どの課程)までを自分で作ったの?」と聞いたら、「あそこのは全部」と答えた。
ブロンズ像にするには、かなりの費用(数十万から3桁万)が要るらしい。
原型があればいくつでも作れるといっても、そうはいかないだろうね。

バラ園の2体の彫刻、印象的ではあったが…。
表現したいことを強調したのだろうが、「苦悩の顔」は、つらい。
手も足も、筋肉も、太かった。
力強かった、と言うべきだろう。
(先日のを再掲)




バラの花を見に来た人たちは、寄り付いてなかった。

彫刻好きの友人には「庭にもいくつかあるから、見に来てちょうだい!」と言われた。
そこでいろいろ講義を受けたら、私の見方・感じ方もレベルアップするだろうね。

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バラの花

2024年05月27日 | 日記
バラ園で入園料を払ったときにもらうリーフレット(施設案内)を見たら
この園には450品種、12,000株のバラがある。
最も人気のあるのが、ピエール・ドゥ・ロンサールとあった。
ブラン・ピエール・ドゥ・ロンサールに突然変異する前の品種だ。

6~7年前に息子からもらったジェネラス・ガーデナーという名のつるバラに似ていた。同じように、ソフトな香りだと思う。

株の姿からはブッシュローズ(木立ち性のバラ)、シュラブローズ(半つる性のバラ)、つるバラに分類されている。
その分類なら、私にも分かった。


これはつるバラ
瓶に挿したら、花が多いので、つるが折れそうになっているが…。
品種名は忘れた。

バラは病気に弱いので、ウチの庭のは枯れてしまったが、バラ園のは大きな古い株から、たくさんきれいな花が咲いていた。大変な世話なんだろうなと、しみじみ思う。

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バラ園へ

2024年05月26日 | 日記
以前なら、フツーに日常茶飯事として出来ていたことが
できなくなっていることに気づいた😮
その一つが、ブログの更新😅
食事の支度や、庭の草花の世話と同じように簡単に出来てたけどなぁ…🤔

新幹線でのお出かけも、取りやめ続き。
必要に迫られてではなく、「出不精な私のリハビリ」の位置づけなので
思いつくのも中止も、簡単…。
電車どころか、バスで町中に出かけることもなくなった。
とにかく、外出しなければ!

そんな折、近所の友だちが「RSKバラ園へ行こう♪」と誘ってくれた。
ご主人のクルマで♪
バラ園らしい景色。





このバラの名はアイスバーグ(iceberg 英語で氷山)。遠目には氷山に見えた😃


バラの種類はたくさんで、匂いや散り方もさまざま。
ポケモンと同じくらい多いと思うけど、彼女は花を見たら、名前も性質も知っていた。
「好きこそ何とか…」だね。
私は花の前に書いてある名札で納得した。
(すぐ忘れたけど画像は残している)

ブラン・ピエール・ドゥ・ロンサール(つるバラ)
フランス2005年


ピエール・ドゥ・ロンサールの突然変異です
中心部のピンク色がよりソフトで、開くにつれて白一色になります
花付き・花保ちの良い品種のバラです
「ブラン」はフランス語で白という意味です



今回気づいたが、ロダンの彫刻が2体あった


<説明版>
ロダン作 「カレーの市民」
100年戦争時の1347年、
イギリス海峡におけるフランス側の重要な港カレーが
1年以上にわたってイギリス軍に包囲され、飢餓のため降伏交渉を余儀なくされ
市の主要メンバー6人が出頭すれば市の人々は救われるという状況時の
6体のうちの1体です。


「カレーの市民」の銅像は、国立西洋美術館に6人揃ったのがある。
写真で見ると、そのうちの1人だ。
倉敷の大原美術館のも、6体のうちの1体。

そばに、もう1体あった。




ではまた😊

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おそまつな歯

2024年05月20日 | 健康
子どもの頃から、歯が悪い。
中学生の時、行った歯医者は、畳の上に治療用の椅子が置いてあった。
乗る時、揺れた。
当時の治療は、今とは全く違っていた。
いちど虫歯治療をすると、その後、加速度的に悪化していったものだ。

最初の抜歯は、第一大臼歯(6歳臼歯)で、18歳の時。
あごの骨が化膿していたので、大学病院まで行って、頬から切開した。
でも、凹んだりはしなかったなぁ…。

いちばん大事な歯を失った後は、ドミノ的に悪くなっていった。
歯が痛いと、頭も痛かった。
抜いたらすっきりしたものだ。

30代後半になってからは、歯の治療にお金も時間もかけまくった。
「この治療の歯なら、一生もの!」の説明を真に受けて、せっせと通った。

20~30年経った頃、「一生もの」のはずの金歯も、セラミックブリッジも
合わなくなり、痛くで憂うつだった。
金歯やブリッジを外して捨てた時は、肩が軽くなった。

ある知人は、結婚前にかぶせた金歯が、50年経ってもビクともせん
と話していた。とても幸運な人だと思う。

歳を取れば身長が縮むように、歯ぐきも痩せて小さくなる。
そんな歯ぐきに、金歯や大きなブリッジは、苦しい。
孫悟空の頭の輪っかもこんなもんだろうと思うしかなかった。

自分の歯なら、おしくらまんじゅう風に仲良く並ぶよね。

もとから、永久歯が生えてこなかった、という人もいた。
歯医者には縁のない人らしく、周りから
「隙間を埋めておかないと、他の歯が動いて悪くなってしまう」と言われたそうだ。
それでも「放ったままで、何ともなかったよ」だって。
70歳もとっくに過ぎたオバサマで、白くてキレイな歯が並んでいた。
すごい人もいるなあ🤔

昨今は何本かの永久歯が生えてこない人が増えているらしい。
早めに治療するんだろうね…(しなくても大丈夫かも?)

TVに映る人は、みなさんキレイな歯をしている。
矯正の針金が見えることもある、大人でも。
ある年齢以上できれいな歯は、矯正した歯か、入れ歯だと思う。

歯が悪いとグチりあう友人とは、一致する結論がある。
「これなら一生もの」なんて治療法はない😠
そのうち合わなくなって、いつかは壊れるのよ。
(長生きしているからだろうけどね😥)

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いつの間にか覚えてた

2024年05月18日 | 日記
相変わらず「落ち目ゲーム」をやっている。
基本は「外を歩いて、友だちと(課金もして)やるゲーム」なのだが
私は、外には行かず、課金せず、ひとりぼっちでやっている。
6年くらいも続けたので、何百もあるモンスターの名前を覚えた。

最近、やってて「役に立ったかな?」と思ったことがある。
1つは
スーパーの駐車場で、車止めにつまづき、打ち身擦り傷を負ったとき。
「冷却と安静が第一」なので、じっとしていたけど、痛かった。
それが「バトルの時間!」になると、やる気が湧いて、起き上がれた!
そしてバトルの後は、普通に動けた。

似たようなことは、10年以上前にもあった。
ふらふらして、ちゃんと歩けなかったけど、
「ネコの怪我!」に気づいたら、ケージに入れて、獣医さんに連れていけた。
無事に帰り、ネコも私も元気になったものだ…。

もう1つは
4歳の女の子との会話。
何かを大事そうに持っているので「な~ぁに?」と聞いたら
ポケモンのシールを見せてくれた。
「ミニーブね♪」というと
シールの文字をしっかりと見て「ミニーブ」と読んだ。
私が「あら、カタカナが読めるの!」とびっくりしたら
その子の母親は「ポケモンの名前を知ってるんですか!」とびっくりしていた。


このゲームに、どれほどの時間を費やしたか、計算できない。
その時間、他のことに使ってたらなあ…と、残念にも思う。


ふとしたきっかけで、ネットで仏像の紹介を見た。
半世紀以上前に住んでいた奈良には、通り道に
教科書に出ているようなお寺がたくさんあって、自由に出入りできた。

本尊らしき仏像を拝んだりしたが、名前も姿かたちも覚えなかった。
周りで見かける草木や花、ゲームのモンスターより、はるかに少ない仏像の名前、
どうして記憶できなかったんだろう🤔

あるお寺では、
「仏様は、静かに手を合わせてから、仰ぎ見たときのお顔がいちばん美しい」と教わった。
観光客が多いお寺では、できない。

ネットでなら、何も気にせずに、ゆっくり見られる。
『やまと道の会』は、JR東海の関係会社の運営。
奈良方面は、関西より、首都圏(関東方面)の人に好まれるみたい。
薬師寺と唐招提寺の仏像紹介は、「2024年6月30日配信終了予定」とあるけど
分かりやすい解説です。

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小学生の見守り活動

2024年05月17日 | 日記
町内で、小学生の登下校見守り活動をやっている。
些細なきっかけから始めたが、やっていると気がかりなことが増えてくる。

ボランティアなので「無理のない範囲で」が原則。
そして
通学の安全は、保護者が責任を持っている。
何があって、ボランティアに責任はない。
子どもの指導はしない。
見ているだけ。

それでも、黄色のジャンパーを着て立っているだけで効果があるそうで
地域の人や保護者からは感謝されている(と思う)

話変わって、10年近く前、マゴのみとちゃんの子守で水戸にいた時
信じられないニュースを聞いた。

自転車に乗っていた小学1年生の交通死亡事故。
登下校中で、ランドセルを背負っていた。

どこの町村だったかは記憶にないが、
茨城県は土地が広く、道路も広く、首都圏との交通量が多い。
幹線道路でなくても、長距離トラックが頻繁に行き交っている。
生活道路でも広くて大きいので、大きなトラックが走っていく。

土地が広いので、小学校までが遠い地域もあり、1年生なのに自転車登校していた。
その児童の地域では、以前からスクールバスを望む声が多かったが、実現してなかった。

事故の後も、「登下校の安全は保護者が守る」が原則、との説明だった。
「義務教育の通学の安全は、最優先されるべき」と思っていた私には納得できなかったけれど、それが文部省の基本方針なのだ。


もっとも、自治体はそれぞれの実情に合わせてやっている。
今は閉鎖されたが、20年前まで、ウチの東の山向こうの小学校には、分校があった。
小学校から遠い山の一角に集落があり、4年生までが分校で学んでいた。
5年生からは本校に合流するので、保護者は学校近くに小さなアパートを借りて
父親が出勤する際に、小学生とおばあちゃんを車に乗せて行く。
おばあちゃんはアパートで縫物や編み物をして子どもの帰りを待ち、
仕事帰りの父親の車で連れて帰ってもらう、という毎日だったらしい。

その小学校は有森裕子さんの母校だったので、有森さんは分校にも行ったとか。
分校の子どもたちは、オリンピックの話が聞けると楽しみにして窓の外を見ていたら
有森さんはクルマではなく、走って来たよ(^^♪
ローカルニュースで聞いた。

今年になってからだけど、NHKの『にっぽん百低山』で、吉田類さんが有森裕子さんと蒜山に登っているのを見た。
彼女は「山はトレーニングの場所。歩くより、走る方が楽」と言ってた…。

話を戻すと、中国地方では、山間部でのスクールバスのニュースを聞くことがある。
茨城県ではどうかなあ?

逆に、ウチの近くでは、家とクルマが増えた。
古い方の住宅街の道路幅や坂道などは、どうしようもない。

ウチの子が小学校に通っていた頃は、何の心配もしなかった。
あの頃は、大勢の子どもたちが、道いっぱい広がって
遊びながら登下校してたんだけどなあ…。

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旅の日

2024年05月16日 | 古典聞きかじり
広告は、60日間投稿が無い場合に表示されます
の表示が出たので、とりあえず、投稿します(-_-;)

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5月16日は「旅の日」とラジオで聞いた。

10年近く前、ラジオの『古典講読』で『奥の細道~名句でたどるみちのくの旅』を聞いていたのでメモを少し。


松尾芭蕉が「おくのほそ道」への旅に出た日、元禄2年3月27日(太陽暦で1689年5月16日)にちなみ
「日本旅のペンクラブ」が5月16日を「旅の日」と決めたそうだ。
(同会の会長は西行、副会長は松尾芭蕉とあった!)

「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」の有名な一文で始まる『おくのほそ道』

旅は、元禄2年3月27日に江戸を出発。
芭蕉は46歳、曽良は5歳下。
隅田川から日光街道を北へ進み、奥州(日光、松島、平泉)を通って出羽・北陸を旅した。
全行程は約600里(約2400km)。

芭蕉は体が弱かったため困難も多かった。
敦賀を経て、8月下旬大垣で旅を終えた。

そして、伊勢に向けて出発する。
生地の伊賀上野を経て大坂で過ごし『猿蓑』を完成させた。

その後、江戸に戻り、奥州・出羽・北陸の旅から3年後になってから
『おくのほそ道』の執筆を開始。
元禄7年4月に完成。

その後、伊賀上野に帰郷。奈良を経て大坂の旅先で病臥し死去、51歳。
「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」は辞世の句とされている。

<ちょっと休憩>

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