住民の歴史:津高半田山緑道・町内会

町内会結成の頃(1971年~1976年)
緑道を求めた住民運動の記録(1986年~1987年)

はじめに:60年前は新興住宅地

2022-07-21 01:00:00 | 町内会

半田山ハイツは、旧都市計画法のもとで開発された団地です。

現在の都市計画法の施行は、昭和44(1969)年なので、旧法に基づく開発でした。

そのため、

公園が少ない

道路が狭い。傾斜が急な坂道の下に交差点があって、交通の危険個所だ、

など、言われています。

集会所は用地もナシでした。

住民は、町内会を作り、住みよい環境にする努力を重ねてきました。

 

先日、偶然に、ある人の追悼集を手にし、読んでいたら、

町内会初期のことが書いてありました。

書いたのは故人のため、ブログ掲載の承諾は得られませんが

興味のある方に読んでもらいたいので、掲載します。

出典は『紅白梅』庄司博一追悼集 です。

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       内容(大まかなテーマ)

 1.(7月20日) 半田山ハイツと町内会の誕生
        (下記2人の寄稿から)

 2.(7月19日)「町内会ができるまで」杉田 達次 

 3.(7月18日)「町内の親睦を広げて」臼杵 伸 

 

追記:7月22日

「追悼文」なので故人との関わりが主題ですが、その中から、

町内会に関する部分をピックアップしました。

追悼文のコピー、読みにくいのですが、ご参考までに。

このブログはPOFが使えないので、文のコピーは画像(jpeg)です。


町内会の誕生

2022-07-20 01:00:00 | 町内会

お二人の寄稿文から、時の流れを…。

津高の山地が団地になり、入居が始まったのは1971(昭和46)年。

開発は、中鉄バス傘下の「中鉄不動産」だったので

「半田山ハイツ中鉄団地」の名称だった。

その続けて、大成建設の施工で「半田山ハイツ住生団地」が造成された。

(チュウテツダンチ、スミセイダンチの名は、電柱にも記載あり)

各々に「中鉄団地自治会」と「住生団地自治会」が作られ、

最寄りの津高町内会に編入されていた。

「中鉄団地自治会」の初代会長が、杉田 達次さん、

「住生団地自治会」の初代会長が、臼杵 伸さんでした。

2年後に、中鉄団地自治会会長は、庄司博一さんに交代し、

1975(昭和50)年、「半田山ハイツ町内会」が発足。

初代会長は、庄司 博一さん(出典が、この方の追悼文集です)。


「集会所」がないので、役員会は庄司さんの家だったとか。

集会所には「中鉄バスの廃車」を譲ってもらい、

親睦のための「町内運動会」は、加計学園の運動場を借りて開催。

町内のみなさん、仲良く、盛大にやってたようです。

(若かったのでしょう)

 

なお、「半田山ハイツ集会所」が出来たのは、

コモンライフの開発に伴ってのことで、1979(昭和54)年でした。


町内会ができるまで

2022-07-19 01:00:00 | 町内会

追悼集の寄稿文から、町内会に関する部分の抜き書き

 

元半田山ハイツ初代中鉄団地自治会長 杉田 達次

 

半田山ハイツ中鉄団地は、昭和46年から入居が始まった。

団地自治会の初代会長を私が勤めた。

昭和49年頃、半田山ハイツは中鉄団地自治会と住生団地自治会に分かれ

共に最寄りの津高町内会に編入し、予算を持たない自治会活動だった。

町内会を作るため、次のことを検討した。

▽自治会規約の制定

▽入居者名簿の作成

▽団地内の区分け

▽連合婦人会との関わり

▽中鉄バスの団地内への定期運行の促進交渉

▽自治会活動の場として廃車バスの提供交渉

▽中鉄団地・住生団地統合へ向けた話し合い

▽津高町内会からの円満独立に向けた検討

 

自治会長は、昭和49年4月に、庄司博一さんに交代した。

努力が実を結び、

昭和50年半田山ハイツ町内会として独立した

 

 


町内親睦の輪を広げて

2022-07-18 01:00:00 | 町内会

         町内運動会でマラソン (^-^) @加計学園運動場 1976年5月

 

元半田山ハイツ住生団地自治会長 臼杵 伸

 

住生団地自治会長を受けた時、中鉄団地自治会長は庄司 博一さんだった。

津高町内会では、夫々の自治会長が理事になり、理事会に出席した。

津高公会堂は板張り床だったので、座布団を抱えての参会だった。

 

半田山ハイツ町内会が発足してからは、町内親睦の行事をやった。

加計学園に行って運動場を借りる交渉をし、

運動会の他、子供会・野球部・テニス部も使わせてもらった。

集会所が出来てからは、囲碁クラブ同好会もできた。

いろんな方面で、交流の幅が広がっていった。

 


ようこそ!

2022-04-22 01:00:00 | 住民運動

半田山ハイツ第3公園、2022年5月。

半田山ハイツ第3公園のヒューム管。

緑道の下に埋められて、半田山ハイツを通過する雨水を流しているのと同じもので、

津高台団地造成の際、工事で使えなかった(余ったか、何かの不都合で)ものでしょう。

「子どもはトンネルに入るのが好きだから」と考えた当時の町内会長が、

団地内3か所の公園へ置いてもらったと、記憶しています。

半田山ハイツ第1公園、2017年1月。

(第一公園のヒューム管は撤去しており、現在はありません)

緑道が出来てから30年以上経ちました。

当時を振り返って「津高半田山緑道が出来るまで」の記録を書きとめます。

運動にかかわった地域住民が、保存していた公文書・町内配布チラシなどです。

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緑道は津高台団地の開発に伴ってできたものです。

当初の「開発計画案」は

「法面は、開発地域として業者に売却し、宅地にする」でした。

 

周辺住民は、「市の土地が宅地に変わるのは認められない」

と住民運動を起こし、市有地は売却されずに残りました。

 

次の段階、「法面を埋めた土地の姿」については

「底地の形を変えずに、公園か緑地に」を要望して市と交渉し

ようやく「津高半田山緑道」が出来ることになりました。

その、住民運動の記録です。

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  もくじ