顕正会事件簿&破折資料室

※個人のブログです。日蓮正宗または日蓮正宗寺院・法華講の公式サイトではありません。

<破折5-4案>僧侶不要論・会長個人崇拝の在家教団は広宣流布の妨げ

2008-07-01 06:58:21 | 顕正会破折50の論点
広宣流布は、数集めを至上としてはなりません。信心の質を先とすべきです。

大聖人様は広宣流布について、たとえ現在の数は少なくとも、「異体同心」であるならば、広布は確実であると仰せです。

『異体同心事』に曰く、「日蓮が一類は異体同心なれば、人人すくなく候へども大事を成じて、一定(いちじょう)法華経ひろまりなんと覚え候。悪は多けれども一善にかつ事なし」と。

では、その「異体同心」とはら一体何なのでしょうか。

顕正会のように、浅井先生のような在家の指導者を、絶対に間違いを犯すことのない「無ニの師匠」として崇拝し、「先生の弟子」である会員たちが「先生におこたえする」べく、とにかく折伏誓願達成という結果を出すためガムシャラに突き進んでいくこと…それが、仏法上の「異体同心」でしょうか。

そのような「異体同心」は、言わば世法レベルの「異体同心」でしかありません。例えばワンマン社長とモーレツ営業マンのような類の、世間一般の上下関係の域を全く出ておりません。広宣流布の基礎となるべき仏法上の「異体同心」の相とは、全く似て非なるものです。

『生死一大事血脈抄』で大聖人様は、
「総じて日蓮が弟子檀那等、自他彼此(じたひし)の心なく水魚の思ひを成して、異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり。然(しか)も今日蓮が弘通する処の所詮是なり。若(も)し然らば、広宣流布の大願も叶ふべき者か」と仰せられ、大聖人様から時の御法主上人への法統に連なる「弟子」(御僧侶)と、法華講衆の「檀那」(在家)とによる、「僧俗和合の異体同心」でなければ広宣流布の基礎とはならない、と御指南あそばされておられます。

よって、「もう職業坊主は要らない」などと僧侶不要の魔説を述べ立て、宗門誹謗キャンペーンに頼って会の延命をはかる顕正会の職業幹部こそ、正しい広宣流布の最大の妨げなのです。