顕正会事件簿&破折資料室

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<破折5-3案>日達上人の御指南は、「三分の一以上」の、「純真な、しかも確実な信心」である

2008-06-24 12:03:09 | 顕正会破折50の論点
日達上人が昭和49年11月17日の御説法において、

「日本国全人口の三分の一以上の人が、本門事の戒壇の御本尊に、純真な、しかも確実な信心をもって、本門の題目・南無妙法蓮華経を異口同音に唱え奉ることができた時、その時こそ、日本国一国は広宣流布したと申し上げるべきことである」

との御指南あそばされたのは、「舎衛の三億」だから三分の一入信でオッケー、などという軽々しい意味ではありません(それは学会の説です)。

日達上人は学会の説に対して、釈尊御在世の舎衛国を順縁広布のモデルケースと見立てて三分の一という数字を目標にするとしても、それは少なくとも「三分の一以上」が、いかなる難に遭うとも決して退転することのない護法の決意、すなわち「純真な、しかも確実な信心」に立っていなくてはならない、と御指導あそばされたのです。

三分の一という数字にこだわることが、必ずしも本義ではありません。

ここで「三分の一以上」というのは、一国の大勢を左右するに足るだけの一定の成果を表す、象徴的な数としてお示し下されているものと拝するべきであります。たとえ十分の九が信心していようとも、一国の大勢が未だ不安定な状勢ならば、それは未だ立正安国の実現ではありませんから広布達成とも言えません。

まだ、背いたり熱心に信じてみたりを繰り返す不確実な信心の人や、あるいは未入信の人も残っていたりはするわけですが、数の上では全員入信・全員成仏という最終の果には至らずとも、一国の大勢が決するだけの「純真・確実」な信心に立つ人々が自行化他の題目を行ずるに至ったならば、それは既に、因果倶時の広宣流布の相が満ちた時と見るべきです。その時点を以って一国広布のひとつの節目と定めても、実際上何ら問題はないではありませんか。

全員入信という形が整うまで建物は一切御供養しない、内拝も許さないで大御本尊様は御宝蔵にほったらかしておくなどという妙な完璧主義に囚われていては、一閻浮提の広布などいつまでたっても進みません。

この世界には日々、新しい命が生まれておりますが、その子供たちとて、みな未入信の状態で生まれてくるのです。

未だ「純真・確実」の信心に至らざる残りの人々に対する折伏教化の修行は、まさしく御書の文字通りに全人類が「純真・確実」な信心に至る日の来ることを大目標としながら、末法万年にわたって、続いていくものなのです。