<顕正会の邪説>
宗門は
「広布前であっても本門戒壇の大御本尊の住処を『事の戒壇』と認めないと、六大秘法が現在は五大秘法しかないことになってしまう」
と言うが、そんなことはない。本門戒壇の大御本尊が存在する時には六大秘法すべてが必ず、いついかなる時にも存在しているという訳ではない。六大秘法は、本門戒壇の大御本尊の中に「冥伏」しているのである。現時においては「事の戒壇」は存在しない。「冥伏」している。広布の時至って、はじめてこれが顕現するのである。
同様に、畏れ多くも人の本尊であられる日蓮大聖人は既に御入滅されてしまっている。やはり、現時においてはどこにも存在してはいない。ただ「冥伏」しているのみである。
<破折>
まさしく、創価学会まがいの大悪義であると言える。本門戒壇の大御本尊様に、人本尊の意義が全く具わっていないとでも言うのだろうか?
顕正会も、「本門戒壇の大御本尊 即 日蓮大聖人」と、口先だけは、法華講員と同じことを言う。なのにどうして、こうも本尊観が違うのだろうか。顕正会員はホンネではやっぱり、かの池田大作氏と同様に、本門戒壇の大御本尊様は「ただの物」だと、心のどこかで思っているのではないだろうか?功徳をもたらしてくれる「幸福製造機」みたいなもの、とのみ考えているのではないだろうか?
当に知るべし。現時においては、弘安二年10月12日の「本門戒壇の大御本尊」=総本山大石寺奉安堂御安置の楠板の大曼荼羅に、本尊の人・法の両義が同時に具わっているのである。
人に約せば・・・宗祖日蓮大聖人の御魂魄
法に約せば・・・一切衆生即身成仏の大法(事の一念三千の南無妙法蓮華経)
それが、「本門戒壇の大御本尊」である。
「御本尊様を生身の日蓮大聖人の如く拝するべし」と言うはまさにこの意味である。
やはり顕正会員は、この「本門戒壇の大御本尊 即 日蓮大聖人」という考え方において、真の信心決定ができていないのであろう。何しろ、本門戒壇の大御本尊様に実際に一度もお目にかかったことのない人間が大半を占める団体なのだから、それも無理もない話ではある。だから、彼らの信仰姿勢には、常にどこかしら無理がある、そういう印象を周囲に与えるものとなってしまうのである。
「大曼荼羅御本尊はあくまでも法本尊であって、人本尊の意義全くなし」・・・それではまるっきり、身延の亜流ではないか。富士大石寺の本尊観においては、「人法一箇」である。法本尊とは「人即法」の本尊・人本尊とは「法即人」の本尊と拝さなくてはならないのである。
宗門は
「広布前であっても本門戒壇の大御本尊の住処を『事の戒壇』と認めないと、六大秘法が現在は五大秘法しかないことになってしまう」
と言うが、そんなことはない。本門戒壇の大御本尊が存在する時には六大秘法すべてが必ず、いついかなる時にも存在しているという訳ではない。六大秘法は、本門戒壇の大御本尊の中に「冥伏」しているのである。現時においては「事の戒壇」は存在しない。「冥伏」している。広布の時至って、はじめてこれが顕現するのである。
同様に、畏れ多くも人の本尊であられる日蓮大聖人は既に御入滅されてしまっている。やはり、現時においてはどこにも存在してはいない。ただ「冥伏」しているのみである。
<破折>
まさしく、創価学会まがいの大悪義であると言える。本門戒壇の大御本尊様に、人本尊の意義が全く具わっていないとでも言うのだろうか?
顕正会も、「本門戒壇の大御本尊 即 日蓮大聖人」と、口先だけは、法華講員と同じことを言う。なのにどうして、こうも本尊観が違うのだろうか。顕正会員はホンネではやっぱり、かの池田大作氏と同様に、本門戒壇の大御本尊様は「ただの物」だと、心のどこかで思っているのではないだろうか?功徳をもたらしてくれる「幸福製造機」みたいなもの、とのみ考えているのではないだろうか?
当に知るべし。現時においては、弘安二年10月12日の「本門戒壇の大御本尊」=総本山大石寺奉安堂御安置の楠板の大曼荼羅に、本尊の人・法の両義が同時に具わっているのである。
人に約せば・・・宗祖日蓮大聖人の御魂魄
法に約せば・・・一切衆生即身成仏の大法(事の一念三千の南無妙法蓮華経)
それが、「本門戒壇の大御本尊」である。
「御本尊様を生身の日蓮大聖人の如く拝するべし」と言うはまさにこの意味である。
やはり顕正会員は、この「本門戒壇の大御本尊 即 日蓮大聖人」という考え方において、真の信心決定ができていないのであろう。何しろ、本門戒壇の大御本尊様に実際に一度もお目にかかったことのない人間が大半を占める団体なのだから、それも無理もない話ではある。だから、彼らの信仰姿勢には、常にどこかしら無理がある、そういう印象を周囲に与えるものとなってしまうのである。
「大曼荼羅御本尊はあくまでも法本尊であって、人本尊の意義全くなし」・・・それではまるっきり、身延の亜流ではないか。富士大石寺の本尊観においては、「人法一箇」である。法本尊とは「人即法」の本尊・人本尊とは「法即人」の本尊と拝さなくてはならないのである。
これも違うんです。
「戒壇の大御本尊様 イコール 生きた大聖人様」ではありません。非常の草木と有情の生身は違うのです。
にもかかわらず、「戒壇の大御本尊様 即 生きた大聖人様」なんです。
イコールと「即」の違いが、あなたにはわかっていますか?イコールかイコールでないか、という世間の論理学で甚深微妙の仏法を解釈しようとするから、顕正会は間違いだらけになるのです。