顕正会事件簿&破折資料室

※個人のブログです。日蓮正宗または日蓮正宗寺院・法華講の公式サイトではありません。

浅井理論の生命線は「南条殿御返事(弘安四年九月十一日)」の解釈にあり

2005-01-13 01:55:47 | 顕正会研究資料
顕正会・浅井会長の「現時における本門戒壇之大御本尊の御安置の処は、六大秘法中の『事の戒壇』にあらず」という理論は、26世日寛上人『六巻抄』中の「南条殿御返事(弘安四年九月十一日)」の解釈文をその最重要の根拠としている

そのことを改めて公開の場で確認しておくため、以下、浅井昭衛著『正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む』188-190ページより引用。

------------------------------------
では、御要望にしたがって明文を挙げよう。願くば守文(しゅもん)の闇者(あんじゃ)たらずして理を貴(たっと)ぶ明者たらんことを――。
 まず法華取要抄文段に云く
 「義理の戒壇とは、本門の本尊所住の処は即ち是れ義理・事の戒壇に当るなり。経に云く『当に知るべし、是の処は即ち是れ道場』とは是れなり。天台云く『仏其の中に住す、即ち是れ塔の義』等云々。故に当山は本門戒壇の霊地なり」と。
 「当山」とは、本門戒壇の大御本尊まします大石寺のことである。この大石寺を指して「義理の戒壇」と明らかに仰せられているではないか。
 また寿量品談義に云く
 「未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇之れ無しと雖も、すでに本門戒壇の御本尊在す上は、其の住処は即ち戒壇なり」と。
 「事の戒壇は未だ無し」とした上で「其の住処は即ち戒壇」と仰せられるのは〝義理 (道理)において事の戒壇〟という意である。なにゆえ義理・事の戒壇に当るのかといえば「本門戒壇の御本尊在す上は」とある。文意全く取要抄文段と同じである。
 また依義判文(えぎはんもん)抄に云く
 「南条抄に云く『教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘し隠し持てり、……斯かる不思議なる法華経の行者の住処なれば、争か霊山浄土に劣るべき……』云々。応に知るべし、『教主釈尊の一大事の秘法』とは、即ち是れ本門の本尊なり。『日蓮が肉団の胸中』とは、即ち本尊所住の処これ義の戒壇なり。……『斯かる不思議なる法華経の行者の住処』等とは、所修は即ち本門の題目なり、住処と云うとは題目修行の処、即ち義の戒壇なり」と。
 「教主釈尊の一大事の秘法」とは、本門戒壇の大御本尊の御事である。ゆえに文底秘沈抄には
 「『教主釈尊の一大事の秘法』とは、結要付嘱の正体・蓮祖出世の本懐・三大秘法の随一・本門の本尊の御事なり。是れ則ち釈尊塵点劫(じんでんごう)来心中深秘の大法の故に『一大事』と云うなり。然るに三大秘法随一の本門戒壇の本尊は今富士山の下に在り」と。されば「日蓮が肉団の胸中」とは本門戒壇の大御本尊所住の処である。日寛上人はこの処を「これ義の戒壇なり」と明確に仰せられているではないか。
 また「斯(か)かる不思議なる法華経の行者の住処」をまた「義の戒壇」とされている。「法華経の行者」とは即日蓮大聖人、そして日蓮大聖人の御当体は即本門戒壇の大御本尊、その「住処」をまた「義の戒壇」と仰せられているではないか。
 以上、明文・白義あたかも天日のごとし。阿部教学部長、もっていかんとなす。
------------------------------------

引用終わり。

上の引用に挙げられた三つの「文証」のうち、

(1)『法華取要抄文段』では、まず一般的に「本尊所住の処」すべてについて「義理・事の戒壇」という定義を与え、さらにそれを、根源と枝流とに立て分けて論じているのである。「現時における本門戒壇之大御本尊の御安置の処=六大秘法中の『義の戒壇』」などという単純な断定は一切なされていない。

・根源=本門戒壇の本尊所住の処=本門戒壇の霊地
枝流=嫡々書写の本尊所住の処=義理の戒壇(「義の戒壇」)

またちなみにこの書では、「事の戒壇」の定義については『三大秘法抄』『一期弘法付嘱書』をそのまま引用しているだけであって、

・「事の戒壇」建立の地=「本門戒壇の本尊所住の処」=「富士山」

という点を論証している以外には、何ら具体的な解説もない。

(2)『寿量品談義』からの文は明らかに、六大秘法中の「事の戒壇」=「本門戒壇大御本尊御安置の処」を、さらに広布達成の前後によって「事相」と「義理」の二相に立て分けた文である。「広布後の国立戒壇=事の戒壇 / それ以外の御本尊所住の処すべて=義の戒壇」という浅井会長の説を何ら証明するものではない。

なぜなら、「すでに本門戒壇の御本尊在す上は、その住処は」云々とある。ということはつまり、この箇所では寛師は、最初からあくまでも「本門戒壇之大御本尊御安置の処」のことのみに話題を限定されて、またその中にもさらに事と義の区別がある、と論じられている訳である!つまりこの文中では、「その他の御本尊の住処」については全く論議の対象にされていないのである。

(3)最後の、『六巻抄・依義判文抄第三』における弘安四年九月十一日『南条殿御返事』の解釈文。これだけが、唯一検討に値する引用であると思われる。

確かに、「依義判文抄」のこの文だけ見れば、「法華経の行者の住処」=六大秘法中の「義の戒壇」(本尊所住・題目修行の処はみな「義の戒壇」)とされている訳だから、これを敢えて、現時における本門戒壇之大御本尊の住処に当てはめるなら、やはり六大秘法中の「義の戒壇」としての意味を否定することはできないだろう(しかし寛師ご自身は、「本門戒壇大御本尊の住処も義の戒壇」等とハッキリ書くことは、達師も猊下も仰せの通り、敢えてお避けになられている。そこに寛師の甚深のお考えがあられたもの、と拝すべきではないのだろうか)・・・。

とにかく、『六巻抄』の中からこの(3)の文を見つけてきた、という事が、幾星霜もの浅井会長の教学研鑽人生における「最高到達点」だったのだろう。

しかし惜しいかな、浅井会長のその説は、『六巻抄』中のとある一箇所を見落としている。その上で組み立てられた謬説にしか過ぎないのである。

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ダイ)
2007-01-13 12:47:40
法華取要抄文段の[当山]とは富士山のことだよ。
返信する
Unknown (ダイ)
2007-01-13 12:57:10
それに阿部はなんで逃げたの?
返信する