梅日和 umebiyori

心が動くとき、言葉にします。テーマは、多岐にわたります。

大切だった息子。

2021-12-25 05:50:33 | エッセイ おや、おや。ー北九州物語ー

マコちゃんとスーちゃんには、もうひとり子どもがいた。

正確に言うと、マコちゃんの息子である。マコちゃんは、バツイチで、スーちゃんはそれをすべて受け入れた。スーちゃん、マコちゃんが大好きだったから、さもありなんである。そもそも無類のポジティブウーマン、過去にはこだわらない。

幼くして離れざるをえなかった息子だが、ふたりともできることなら、終生大事にしたいと願っていた。靴下やランドセル、ふたりでせっせと贈り物をしていた記録が残っている。その彼にも新しい父親ができるというので、一切のコンタクトを絶ってほしいとの話が届いた。そうなると、彼にとっては、新しい父親のもとで過ごす方が良いのだろうと、ふたりはきっぱりと諦めた。のちに、ふたりのもとに生まれ、稀有な環境と愛情を与えてもらった娘も、早くにこの話を知り、幼いころから会いたいと願い続けてきた。福岡で、大阪で、東京で、NYで。ビジネスの場で年齢が近そうな方と名刺交換をするたびに、その人の名を探したこともあった。ひょっとしたら会えるのかもしれない、と。知っていたのは、名前と年齢だけだった。

2007年、やっと、会えた。

しかし、残念ながら、マコちゃんが逝ってしまったからだった。1980年あたりに端を欲するプライバシー情報のガイドライン、さらには、後の個人情報保護法が壁となり何度か諦めたが、思わぬ突破口が見つかって連絡先が分かった。住所に目が釘付けになった。

それは、娘が学生生活を送った場所だった。

実は、娘は関東の大学入試をすっぽかした。受験で訪れた町に惹かれ、あとの予定をすべてキャンセルした経緯があった。北部九州で生まれたと聞いたマコちゃんの息子と娘は、くしくも九州から遠く離れた同じ町にしばらく居たこととなる。さらに娘は、後に、再び、その町に戻っている。

不思議なえにしを感じるできごとだった。

出会えたそのひとは、マコちゃんによく似ていた。面長の顔、まなざしや一呼吸置いて言葉を選ぶ話し方。よく似ている。

マコちゃんとスーちゃんの願いや期待とは裏腹に、そのひとは大変な苦労をしたように思う。娘から見ると、いばらの道、しかし、その道をくさることなく前へ前へと進む人生を歩んでいた。逞しい。父と母に捨てられたと思いながら、幸福な家庭を作り、娘ふたりを育て、多くのひとに喜んでもらえた人生を歩んだマコちゃんととてもよく似た軌跡をたどっておられるように思えた。

 

 

 

このエッセイは、

離れざるを得なかったマコちゃんの息子、そして

その方の大切なパートナーに贈ります。

 

マコちゃんは、残念ながら

貴兄と一緒には暮らせなかったけれど、

貴兄の夢や希望を聴くこと、サポートすることはできなかったけれど、

そうしたかったろうな、と思います。

 

貴兄の父、マコちゃんは、

心底、ユニークで、頼もしく、誇りをもって

我が父と言えるひとでした。


勉強してくれて、ありがとう。

2021-12-24 05:44:40 | エッセイ おや、おや。ー北九州物語ー

「勉強してくれて、ありがとう」

マコちゃんが逝く少し前に、娘に言った。

意外な言葉であった。なにしろ、物心ついてから「勉強しなさい」などと言われたことは一度もない。ただ、或る人の葬儀の席上でたまたま隣同士に座ったことがあった。

大学院に在籍していた当時、京都から出向いた娘を見て、「君は、勉強が好きだねぇ。そうやって、自分が関心を持てること、勉強し続けるといいよ。そうしたら、なにかしら、ずっとひとの役に立てるよ」

そう言われたことはあった。

マコちゃん自身が、勉強熱心なひとではあった。患者さんの症状を理解するのに

納得のいく答えが見つからない場合は、夜が更けてなお、いつまでも治療室で書籍をめくっていた。点字を追っていたこともあった。本人を襲った病についても、「説明がつかない」「わからない点がある」と言いながら、その原因や対処法をずっと考えていた。

振り返ると、マコちゃんもスーちゃんも地頭の良いひとだった。しかし、ふたりとも早くに両親を失い、自立する必要があった。十分な教育を受ける機会には恵まれなかった。学校教育、とりわけ高等教育機関への進学は難しく、望みつつ、あきらめたことがあったのだろう。そのためだろうか。娘二人には、存分にチャンスを与えた。

しかし、決して、なにかを押し付けることやどこかへ誘導するようなことはなかった。娘たちが自発的に関心を持ったこと、学びたいと言い出したことにだけ、賛同し、笑顔で機会を与えてきた。

お習字や英語教室、絵画教室、そろばん塾といった習い事、進学先の選定や決定、殊、学びという行為に関しては、娘には、なにかを諦めたという記憶はない。さしずめ娘にとっては、マコちゃんとスーちゃんが、精神的、経済的なサポーターであり、スポンサーだったように思える。ただし、見返りをなにひとつ要求しない稀有なスポンサーであった。

なにかを学びたい。なにかをしたい。そういった子どもたちのWantの部分をふたりは上手に掬い取り、実現していくようにバックアップをしてくれた。子どもにしてみるとノビノビとやりたいことをやっているだけとなる。見えないところで、バックアップをしてもらっているため、当の娘たちは意識すらせずに、やりたいことができて、愉しいばかりであった。

そんな子どもたちの姿を静かに喜んでいてくれたこと、80歳を優に過ぎたマコちゃんに教えられた。

「マコちゃん、こちらこそ、ありがとう」。


弔いは、温泉旅。

2021-12-23 05:26:32 | エッセイ おや、おや。ー北九州物語ー

 

「葬儀は、不要。そのお金で、おとうさんが好きだった熊本小国の温泉宿へ行ってくれ。みんなで行って、思い出話でもしてくれたら、いい」

マコちゃんは、そう言い残して、逝った。

穏やかで、美しい亡骸だった。

さて、マコちゃんの言うこともわからないではない。しかし、スーちゃんは、気が収まらない。それなりに葬儀を執り行いたいと言い出し、娘たちも親族も付き合った。これはこれで良かったのだろう。生前通ってくれていた患者さんたちが訃報を知って、駆け付けてくれた。

しかし、マコちゃんのメッセージは、娘が敢行した。姉妹、その家族、孫、孫たちの子どもたち、12,3名だったろうか。皆で、熊本へと車を走らせた。

晩年のマコちゃん、スーちゃんは、娘夫婦とともに、20年間ほど、毎年お正月を国内の温泉や心地よい宿で過ごすようにしていた。京都の老舗旅館Hや雲仙のH、武雄のT、名だたる旅館に滞在してきたが、マコちゃんが皆で行けと言ったのは、ただただ自然が美しく、シンプルで離れの家が点在する旅館だった。

満点の星空が見え、コミュニティスペースには、だれでも弾けるピアノが置いてあり、デッキには心地よいロッキングチェアがあった。飾り気のない空間とこころのこもった料理をいただけるこの宿が心地よかったのだろう。いつだったか食事制限に対応いただけるか確認したこともあった。その宿は、こころよく対応したいと申し出てくれたこともあった。宿では、孫やその子どもたちも楽しそうに過ごしていた。

ふたりが、何度も滞在した同じ宿の同じ離れの部屋。そこに、マコちゃんはもういない。夕食の献立を楽しそうに読むひとはいない。

いや、居た。スーちゃんのこころのなかに、娘たちのこころのなかに。マコちゃんが逝ってしまい、娘は類まれな治療技術がなくなってしまったのは残念でしかたなかったけれど、不思議と寂しいとは思わなかった。十分、こころのなかでマコちゃんは生きていた。十分、マコちゃんからいただいてきたという確信と誇らしささえ感じている。

或る人が母親を亡くした時、とても寂しい想いをしたという。天涯孤独の想いを味わったという。「耐え難いほどの悲しみだから、気をつけて」とその人は言った。しかし、娘は違った。寂しくないのである。すでに、いつもふたりはこころのなかに居て、笑っている。そして、十分すぎるほどの教育と幸福そして大切な自立するちからを娘たちに与えているのだから。


いちばん日が当たる席に。

2021-12-22 06:27:10 | エッセイ おや、おや。ー北九州物語ー

 

「おかあさんのことを頼む。おかあさんを君の家のいちばん日が当たる良い席に座らせてあげてくれ。そして、おいしいものを食べさせてあげてくれ」

自ら死期を悟ったマコちゃんは、上の娘に言い残した。娘は、二つ返事で、マコちゃんの願いを受け入れ、約束をした。「必ず、守る」と。

晩年のマコちゃん、スーちゃんは、経済的にも精神的にもとても恵まれていた。

ふたりは、80歳を過ぎてなお来てくれる患者さんの治療を続けながら、時間を作り、日本中あちらこちらに旅をして、仲睦まじく過ごしていた。マコちゃんが先に逝ってしまったが、ひとり残すスーちゃんには十分なものを残していった。後に残る者も、かつてマコちゃんがあっさりと家督を捨てたように、スーちゃんが困らないようにと、全員、相続を放棄した。とてもすがすがしく、気持ちの良い始末だった。

マコちゃんは、スーちゃんをとても大切にしていた。スーちゃんの笑顔がいつまでも続くように、日々の笑いだけでなく、贈り物も欠かさなかった。娘ふたりはさほど宝飾品に関心はないが、スーちゃんは、お好きであった。スーちゃんが彼の地へ逝った折、ずいぶんと立派なものがあれこれと出てきたほどである。もっともスーちゃんもまた、マコちゃんのことが大好きであった。マコちゃんは長く闘病生活をしたが、一日も欠かさずに入院しているマコちゃんのもとに通っていた。時に3時間ほどしか眠らずに、ずっと、傍らに居た。

スーちゃんを支える思い出の中に、マコちゃんと過ごした寒い冬の夜がある。

その日、炬燵の中でマコちゃんはスーちゃんと手をつなぎ、握りしめて、こう言った。「今まで、長いこと。ありがとう」。この冬の日のマコちゃんの手のぬくもりと言葉が、何カラットだかのダイヤモンドよりも、長く、力強く、スーちゃんを支えた。

そういえば、マコちゃんの病状から、専門医がいない北九州ではなく、福岡の病院へ来ないかと誘ったことがあった。マコちゃん、スーちゃん、ふたりで我が家に滞在し、そこから病院へ通えばよいと話した。もちろん何か月、何年だろうが居てもらって、構わないとも伝えた。

「君たちに迷惑はかけたくない。しかし、お父さんのいのちは、お母さんのものだから、お母さんの意向も聞いてみて」

そうマコちゃんは、言った。

娘にとっては、ユニークでありがたい親であったが、その前に、相性抜群の良い夫婦であった。そして、自立し、自律した大人の夫婦であった。

 


逝く日を決めたひと。

2021-12-21 06:08:09 | エッセイ おや、おや。ー北九州物語ー

「日本の医療費の無駄遣いだ!もう治療は要らない」

病室があるフロア全体に響くように、そう大きな声で叫んだ。

マコちゃんには、医療の知識があった。自分が逝く日を自分で決めた。

一切の治療を拒否し、一切の食事を拒絶した。それから2週間後、マコちゃんは静かに息を引き取った。

彼には、大好きな孫がいた。幼いころは、見えない目の代わりになって、手をつなぎ、釣り道具屋さんへでかけたり、釣りへも一緒にでかけてくれた孫だった。青年となり、逞しく成長した彼が、海外赴任から戻る日を心待ちにしていた。彼に会ってから、マコちゃんは逝こうと決めていた節がある。最後に、大好きな孫とスーちゃん、3人で写った笑顔の写真を残して、逝ってくれた。ずいぶんと小さくなったからだで、嬉しそうに笑っている。

その2か月ほど前だったろうか。危篤状態に陥ったこともあった。その日、娘は、大阪に居て、会議中であった。スーちゃんから電話が入る。もうひとりの娘もいた。

「今晩、もたないかもしれない。来なくてよい。仕事を全うしろ。ただし、お父さんに会えない可能性があることを覚悟しろ」。

ふたりは、そう言った。

マコちゃんもマコちゃんなら、スーちゃんもスーちゃんである。娘もだ。

おぼろげに覚えていた谷川俊太郎さんの詩を思い出した。

「あなたが死にかけているときに

 あなたについて考えないでいいですか

 あなたから遠く遠くはなれて

 生きている恋人のことを考えても

 それがあなたを考えることにつながる

 とそう信じてもいいですか 

 それほど強くなっていいですか

 あなたのおかげで」

今、その時、目の前にいるひとの役に立つことで、自身の親のこころを穏やかにし、満たすことができる。自分の親はふたりともそういう人間だったのだ。

北九州から遠く離れた大阪の地でひとひとりの覚悟と逝き方を教えてもらえた瞬間でもあった。

子が親を選べないのと同様に、親もまた子を選べない。

しかし、ふたりのもとにいのちをいただいて、幸せであったと思える。子どもから見ると、いのちある最後の最後まで、甘えることなく、筋が通ったぶれないふたりであった。

逝く日の数日前、せん妄が起きていたのだろう。マコちゃんが娘の目を見てこう言った。

「もうじき水が来るから、君から先に逃げろ」。

どうやら、船にいるらしい。娘は、答えた。

「わかった。逃げるから、すぐにお父さんも逃げて。後ろに居てよ」。

マコちゃんは、首を縦に振りながら、微笑んだ。