梅日和 umebiyori

心が動くとき、言葉にします。テーマは、多岐にわたります。

子どもたちにとっての平等。

2021-12-04 05:21:13 | エッセイ おや、おや。ー北九州物語ー

ふたりの娘が、それぞれ中学生、小学生の高学年に差し掛かる頃だったろうか。我が家に、3歳くらいの男子と5歳くらいの女子がやってきた。

親戚の子どもで、彼らの母上が長い闘病生活に入るために、預かることにしたとマコちゃん、スーちゃんから説明された。

小さな我が家での生活が始まった。物理的に窮屈な生活のなかで、子どもたち4人は時にじゃれあい、時にいがみ合い、にぎやかに暮らしていった。

或る日、娘は気が付いた。男子が3歳、彼のお姉ちゃんが5歳。娘ふたりが、10歳、14歳くらいだったろうか。みな、ご飯の量が同じなのである。おかずに、お米、お汁もの。すべてが同じ量だった。

「からだの大きさが違うし、食べられる量も違うのに、どうして?」

ニッコリ笑い、スーちゃんは言った。

「食べるものって大事でね。親元を離れて、他人と暮らすだけでも当人たちにとっては大変なことよ。子どもなりに気を遣う。そんな毎日で、もし、自分たちだけ食事の量が少なかったら、どう思う?この家の子だけひいきしてると勘違いするかもしれんよね、歓迎されていないって思うかもしれんね。そして、そんな思いを抱いたら、この家に居たことは、一生、子どもたちの中につらい思いとして残るよ。だからね、食べきれなくてもあなたたちと同じ食事を出してるんよ。肩身の狭い思いもせずに、平等に扱ってもらっていたと思えれば、親元を離れた思い出も寂しいものにはならんやろうって思ってね」。

なるほど。スーちゃんは、自身が幼いころに両親を亡くしている。自分自身の経験から導いたのだろう。

<平等>という概念はとても難しい。古くは、プラントンの時代にまでさかのぼる。本来は、個々の人間の価値に違いはないという思想を意味していた。現在の日本の辞書を開くと「かたよりや差別がなく、みな等しいこと。また、そのさま」と出てくる。

スーちゃんが選んだのは、量の平等である。偏りや差別があることをまず理解して容認している。そのうえで、それらの違いを勘案せずに、みな同じ量を配り、個々の側に立って思いやるということを自然にしている。

ジェンダーや国籍、貧困など<平等>が議論される分野は、多い。できることなら、スーちゃんのように、まず、違いを容認することから始める。次に、相手に立場に立ってみる。できる範囲で想像し、思いやる。そういうこころの動きを含めて、行為としての平等を実現していきたいと思うのであった。