梅日和 umebiyori

心が動くとき、言葉にします。テーマは、多岐にわたります。

100円に、ありがとう。

2021-11-30 06:56:13 | エッセイ おや、おや。ー北九州物語ー

家柄、学歴、職業。マコちゃんは、すべてのラベルを外して、まず、人物を観た。多くの患者さんとじかに接し、ひとの弱さ愚かさ、強さ賢さを熟知していたからだろうか。あるいは、自分自身がそれらを捨てたり、諦めたりしてきたからだろうか。

ひとの心根の良し悪しを観ていたように思う。我が家には、いわゆる世間体という言葉はほぼ存在しなかったように思う。ひとさまがどう思うかよりも、本人がどう思い、どう考え、本人に恥じないかどうかが大切であった。

孫のひとりが或る日、物静かで素直そうな男性を連れてきた。聞けば、高校を卒業して、製パン会社に勤務しているという。孫は、その地域で名高いミッションの短期大学を卒業していた。

「あら、旦那さんの方が学歴が低いんやね」そう言った人もいた。

マコちゃんは、穏やかそうな青年を歓迎した。そして、ふたりを心から祝福した。

のちに、孫が子育てに奔走する時には、自分たちの家を提供し、マコちゃんとスーちゃんは小さな治療院で暮らした。保育園で働いていた孫娘も自身の子育てに時間を使いたいと仕事を一旦離れた。そうなると、学歴社会でもあるこの国では、高卒の青年ひとりでは、決して十分といえない収入だろうと思いはかってのことである。スーちゃんがゆっくり住むために建てた念願の家だったにもかかわらず、孫家族を住まわせた。また、なにやかやとこの新しい家族を経済的にも精神的にもサポートしていた。

或る日、マコちゃんは、娘にこう言った。

「いい青年だよ。いろんな事情があって、大学へは進めなかったんだろう。でもね、毎日毎日店頭に立って、100円のパンを買ってもらい、『ありがとうございました』と心から頭を下げるということはすごいことだよ、たいしたことだよ」。

曇りなくひとを観るということ。心根を探し、その1点に焦点を当てるということ。どこまで、できているのだろうか。隙あれば、驕りのこころが入り込んでくる。こころが曇れば、見える世界も曇ってしまう。本来ありもしない壁を自らの心の中に作ってしまう。

できることは、逆に100円のパンを求めた時に、包んでくれるそのひとに、お金を受け取ってくれるそのひとに、心から「ありがとうございます」と声に出す。マコちゃんの言葉を思い出すことだ。


反目は、ひとのためにならず。

2021-11-29 05:36:56 | エッセイ おや、おや。ー北九州物語ー

鍼灸院には、山口や広島、長崎、鹿児島と新幹線や特急を利用して通院する方もいた。そのなかに、何十年にもわたりお礼の品が届き続けた患者さんのご家族がいる。或る日、息子さんがエレベータの中で意識を失い、歩行さえも難しい状態になったそうで、病院をいくつも訪ね、いくつもの検査をおこなった。しかし、医師たちも原因がわからず、対処法さえも適したものがみつからないまま時が過ぎていった。口コミで治療院のことを知り、藁をもつかむ思いで鍼灸院の門をくぐったという。マコちゃんは、彼の状況を診て、針治療を行い、完治させた。

西洋医学においても十分な検査機器がまだない時分の話ではある。詳細も今は本人がいないために知る由もない。しかし、マコちゃんには確かに卓越した能力、技術があった。若いころには、盲学校の教師のつてで、鍼灸の技術を学びながら、K医大の解剖学教室の手伝いに行っていたらしい。こうしたことも探求心を基礎に自分で考え、工夫し、実行するというちからの助けになっていたのだろうと思える。

西洋医学ではさほど効果が見込めなかったときに、娘もマコちゃんを頼りにしたことが複数回ある。なぜ、或る症状が起きるのか。症状を引き起こすと考えられる原因は何か。東洋医学では、どのような対処方法、療法があるのか。尋ねると丁寧に説明してくれた。

医院に通ったところで服薬しか方法がなく、その効果も芳しくないなら、マコちゃんの針を受けてみよう。1回目は、婦人科、2回目は交通事故よる打撲だったが、いずれも2,3回の針治療で痛みは消え、治った記憶がある。

今でこそ大学病院に漢方外来があり、鍼灸も治療法として取り入れているところがあるが、高度成長期の日本では、西洋医学一辺倒で東洋医学は怪しげなものとの認識も大きかった。その中にあって、マコちゃんの手は西洋医学で見えないものを見ることができた。思わぬ病の可能性を発見することもあったようで、「鍼灸院のことは言わずに、病院へ行きなさい」と伝えていたこともあった。

東洋医学を頭ごなしに否定する医師も少なからず居たためである。しかし、マコちゃん、プライベートでは医師の釣り友達が何人か居た。立場は違えど、拒絶するよりも交流する方が、患者さんにとって断然お得だと思うため、融合する大学病院の出現は望ましいと思っている。


愉しい我が家の演出家。

2021-11-28 05:44:54 | エッセイ おや、おや。ー北九州物語ー

スーちゃんとマコちゃんは、だれの援助も受けずに鍼灸院を開業したという。

嘘か本当かは定かでないが、「ミカン箱ひとつで始めたのよ」と言っていた。確かに、娘が幼いころ生活には余裕がなかったろうと思われる。お手伝いさんにお弟子さん。ふたりの娘が、マコちゃんとスーちゃんの肩にのしかかっていたのだから。

しかし、余裕のなさを決して見せない朗らかさがふたりにはあった。月に1回必ずデパートで食事をする。この時は、家族だけで過ごす。そして、毎年のようになにかしら新しいモノたちが、家の中にやってきた。電話、テレビ、カーペット、冷蔵庫。例えば、カーペットが来るとなるとその日は家族総出で、掃除をする。そんな調子だった。高度成長期の日本では、あちこちで見られた光景かもしれない。

年上の娘は、デパートへ行っても遠慮してカレーライスしか頼めなかった。なんとなく家に余裕がないのを察知していたからだ。「それでよいのか?」とマコちゃんに聞かれると、首を縦にふっていた。ほんとうは、もっと頼みたいものがあった。娘は、今も、デパートの一角、クロスがかかったテーブルに添えられた一輪挿しの姿を強烈に覚えていて、我慢をしていた自分が必ずそこに居ると言う。年下の娘は、おかまいなしである。食べたいものを注文し、翌月は何を食べようと思いを馳せる。

月に一度の外食や年に一度の家財の購入。小さなささやかな機会をとても上手に生活に取り入れてメリハリのある暮らしを演出していたように思える。また、お月見だったり節分だったり、季節に沿った家族イベントはたくさんあり、どれも笑いに包まれたエキサイティングな時間だった。節分の豆の中には、こっそりとコインが入っていたりもした。子どもたちが驚いたり、はしゃいだりする小さな仕掛けをふたりは、していた。

いつだったか。小学生だった頃、幼馴染みが個人の勉強部屋をもっていることを心底うらやましいのだと、マコちゃんに話したことがある。「そうかぁ。幸せにはいろんな幸せがあるよ。この家は、毎日笑ってみんなで晩御飯を食べているだろう?おとうさんは、それが幸せだと思うけどねぇ」。マコちゃんは、言った。確かに、箱ものよりも、おいしいごはんは魅力があると素直にうなずいた記憶がある。

マコちゃんは、上手に家族を引っ張っていた。


うつくしきタイガー、スーちゃん。

2021-11-27 06:17:42 | エッセイ おや、おや。ー北九州物語ー

スーちゃんは、寅年生まれ。お釈迦さまの誕生日に同じく生を受けた。本人は、無類の朗らかさでひとを魅了する。なにぶん、ポジティブなひとであった。また、おいしいものに目がなく、お得意の料理でひとに喜ばれることを生きがいとしていた。

若いころは、公共施設の建設に携わる企業の社長秘書をしていた。才気煥発で美しく、秘書業務のついでに政治の応援演説を頼まれることもあったという。毎日、眠るときは、いつ呼び出されてもよいように荷物を枕元に置いていた。さぞや華やかな日々だったろうと推測するが、不慮の事故でそれも終わりを遂げる。実兄による暴力により、彼女もまた片目の視力を失う事態となった。しかし、スーちゃんにめげる日々は似合わない。鍼灸の資格をとって、自立し続ける。

マコちゃんとの出会いによって、その朗らかさにさらに拍車がかかる。鍼灸の技術の確かさと24時間夫婦漫才を展開しているような二人組は、多くの患者さんから頼られて、愛された。

山口や広島、長崎、鹿児島から通ってくる患者さんもいた。

「女は、仕事を持ちなさい。重い荷物も自分で持ちなさい」

スーちゃんの言葉である。1925年生まれの女性には、珍しい。しかし、彼女は、マコちゃんとともに、自立して重い荷物をいつでも持てるちからを持って生きてきた。

幼いころ肥満気味で容姿にコンプレックスを抱いていた娘は、スーちゃんに訴えた。「しろ豚って学校で言われる!ほんと、いやだ!」

さて、スーちゃんは、なんと応じたか。

「そのうち痩せるよ。色が白いは、七難隠す。よかったねぇ」

あらゆるネガティブな事態は、スーちゃんを透過すると、捨てたものではないポジティブな事態へと変化していくように思えた。

彼女が90歳の時にくれた手紙には、「生涯、朗らかに生きたい」と書いてあった。そのとおりに彼女は、生きた。彼女のいるところは空気がきれいで、明るかった。透明感のある笑い声がどこまでも響いた。入院すると、彼女はいつも若い看護師さんに囲まれ、なぜか誰かとナースステーションの中に居た。心配され、愛されていた。いくつになっても、愛嬌がある。終生、自立して、マコちゃんとともに生きた女性は、ひととしてきれいで、パワフルで、そして、笑顔が可愛いかった。

スーちゃん、二十歳の頃

 


お手本のない「親」-爺さまの光と影-

2021-11-26 05:26:08 | エッセイ おや、おや。ー北九州物語ー

娘には、不思議な思い出がある。

美しい箱に入ったオーダーのワンピース。同じ生地で誂えてあるが、姉妹でデザインが違う。ワンピースに合わせた帽子と靴もあった。

台風が来るたびに「この家、大丈夫かなぁ」と本気で心配していた木造家屋に住んでいたにもかかわらず、同じ運転手さんが何日も運転する車に乗って家族で旅をしている。白いクラウンだった。えびの高原ホテルでの夕食風景。洋食をとオーダーした娘のテーブルには、フルセットのカトラリーが並んでいる。ポツリ、ポツリと、思い出の中に非日常的な風景が残っているのである。

お得意の妄想(想像)だと思っていた。

ところが、違った。マコちゃんの実父だった。若いころは法曹界で仕事をしていたと聞くが、家督を継いでからはさまざまな事業を行っていたのだろう。運輸事業も行っていたと聞いた。記憶の中に、車のドアを開けてくれたひとの立ち姿がある。ひょっとすると祖父を担当してくれていた運転手さんだったのだろうか。スラリとして、美しいシルエットだった。

祖父は、マコちゃんが成人したときに、柳川藩主立花邸の御花で、息子と再会した。そして、或る年齢を超えた頃から孫にあたるふたりの娘や息子であるマコちゃんと頻繁に接触するようになったと聴く。長男を戦争で亡くしたことと関係があったのかどうか。今となっては、知る由もない。

マコちゃんにしてみると、さぞや心中は複雑だったろうと思う。父親に捨てられたと思って生きてきた。養子に出されたことで、母にも捨てられたと思ってきた。家族はつくったもののマコちゃんは父親のお手本を持たずまま生きてきた。実は、スーちゃんも幼いころに両親を亡くしていた。ふたりがとてもユニークな親だったのは、親というお手本を持っていなかったためではなかったか。

親とはかくあるべし。そんな像を持っていないために、できる限り懸命に子どもに責任を持ち、大切に接する。ただ、それだけだったからこそ、下手な所有欲や過度な干渉をすることも思いつかなかったのかもしれない。ましてや、ふたりとも忙しい毎日である。患者さんがさまざまな問題を抱えて、頼りにして、やってくる。娘に、干渉している暇はないのであった。そして、爺さまの善意あるこころを袖にする理由も暇も持っていなかったのかもしれない。