感覚の間隔

家族、仕事、友人、知人から街中での知っている人、知らない人・・・そこでの自分の、自分との「カンカク」はどうなんだろう

一方通行の行き先

2023-08-12 00:05:34 | 日記
「話す」ことは、多くの人がしている。
「話し合う」ことは、「話す」割合からは減るだろう。
「語り合う」ことは、「話し合う」割合からは減るだろう。

自分の思いを分かって欲しいと思う人は多い。
それを、一方通行で「話す」ことで伝えている、分かってもらっていると感じている人(誤解も含めて)は、それなりに多いと思う。

そして、一方通行は後戻りすることはないので、つまり逆走はあり得ないロジックなので、「理解/分かっていない」と思われた人は、その枠から外されることが多いだろう、大抵は無意識に。

枠から外された人は、外されることが辛いから、納得する、しないに関わらず枠に収まる選択をする人は、これも相当数いると思う。
仲間はずれで自分が傷つくなら、多数派または強い意見に収まっている方が、自分の責任もある程度放棄できて、楽だからね。

そんな楽な枠に収まっている間に、「話し合う」術は焼失してしまうだろう。そこには、「聞き合う」ことも同時に焼失しているはず。


「話し合う」スタンスを持てていると、そこには一方通行は存在しない。少なくとも、中央線が引かれた「対面通行」になっている。中央線越しに、「見合って」「会話する」ことができる枠。
「対面通行」は、相手や周りを見ることができ、どういう状況かを確認、判断はできる。だが、そこで「交流」は生まれにくいだろう。
中央線を跨ぐことで、「対立」という事故の確率が増加するから。
危険覚悟で対向車線に入ることで、相手を止めることも可能だけど、相手の感情を越える提示がなければ、対立に発展する。「交流」はお互いが冷静に立ち止まれば実現できる。どこかで、お互いの領域に過度に侵入しない範囲での「交流」。
そんなこと思っているのね、と自分の知らない世界を知ったり、自分の世界と近いことも周りにあると知ることができる、興味の拡大と安心感の確率がなされる「話し合う」場。


「語り合う」は、中央線がない、またはあっても、追い越し、車線をはみ出すことは許される。その分事故は多いかもと思うが、逆に無謀なことはしない、いい意味での適度な抑制=冷静さが働く場。「双方向通行」って言えるか。
「話し合い」ではできなかった、並走すること、方向を簡単に変えることも許される。スピードが遅い人がいれば、譲ったり、追い越しも許される。一方通行や対面通行のように、「追従するストレス」「無謀な追い越し」と判断されることがない、いい意味で調和を重んじる場。
「判断をした自由」。
勝手気ままにする、無法や無謀、とは違う。
責任をとれないとできないということでもない。
語り合うなかで、それぞれの、または共同の責任が作られていく。
「語り合う」ことで、「聞き入れ合う」こともできる。単に聞くだけではなく、聞いて理解できること/できないこと、説明をし合うことと言った、「双方向な」「対話」という場、世界。

大多数の、「一方通行」と「対面通行」。
整備された「通行」に慣れると、「双方向通行」が怖くて通れないだろう。

「双方向通行」には、それぞれの人がガイド役も担っているから、思ったよりも安全なのにね。

一方通行という危険な道が増えて、渋滞も著しく、ストレスも増えて、一方的な人が増えているだろうな。
「対面通行」も、中央線をなくしたり、追い越し車線くらいにすれば良いのに、事故の回避の枠でそのままな状況。
「双方向通行」も「対面通行」化されてしまっていることが多いだろう。

一方向にすすむことに慣れすぎて、というかそれが身を守るのに安全という場が増えて、自分で判断して曲がれない人と社会の仕組み。

幻想かも。

そんなふうに大きく感じる。