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『戦争の時代ですよ!』

『戦争の時代ですよ!』若者たちと見る国策紙芝居の世界
鈴木常勝/著 (大修館書店)

偉ぶってるつもりはないんですが、脚本を変えることについて、つねづねいろんな本を元に考えています。絵本の読み聞かせやストーリーテリングが硬直していった原因は、ここにあるんじゃないかと思うことが多いから。
 それから、新潟にいると国策紙芝居をまじまじ見ることがないし、他の人の意見を引き出すことも検討することもないので、手のひらに乗せて読むことが出来てよかったです。
 
若い人たちはちゃんと自分の意見を言うんだな、とちょっと安心しました。『戦争協力紙芝居』と聞いただけで 汚らわしいとかこわいとか、そう言うおばさまが多いのは知っています。わかってほしいのは、紙芝居だけじゃなくて他のメディアもみんなそうだったんだということ、それから、そこから逃げているとリアリズムから離れ、同じ間違いを繰り返しやすいんじゃないかと思うこと。

 特に、文章を変えずに地域の名士がそのまま読んだと言われる印刷紙芝居のことを、今の自分が抱える問題と重ねることが多かったです。

 ・当時は国策で、上からの指導を伝えるのが目的だから、勝手に変えちゃいけなかった。自分に置き換えると、きちんと暗記して語れとストーリーテリングを習ったときに指導されたのは、じゃあ「何」を伝えるのが目的だったのかという疑問が湧くのです。
 この場合「上からの指導」にあたるのは「この本の中の話を声に立ち上げたから、この本を借りてね」という強烈なメッセージですね。たまに、子供がその本を手にとって借りていくこともありました。図書館の人は満足、ボランティアも本を手渡したと満足。でも、逆から見れば、ボランティアの狭い選択に子どもがひっぱられていて、子供の主体的な選択がないよね、とも思っていました。
 今も、読み聞かせは作者の思いや作品そのものを伝えるのが目的だから、勝手に変えちゃいけない、というふうに思う人も多い。人が本に奉仕する立場が好きなんだよね。

・偉い先生の文章(脚本)は検討を重ねて自分たちよりすぐれているのだから、そのまま読むべきだ、という意見も多いです。読み聞かせを朗読と捉えるのね。

・当会で2005年だったか、『おこりじぞう』の絵本をそっくりに「妹が紙芝居に作り変えた」とクロスパルで演じた会員さんがいました。今は別団体でやっておられます。実演時に「原爆で韓国人も朝鮮人も大勢死んだ」と語られたので、仰天しました。新潟の問題で、そういうこともある。その方は絵本の作者と「知り合い」と言いながら氏名のヨミを間違えていたので、すぐに癖を知ることができ、その後も対応できました。この場合は絵本の改変がいけないのですが、その方にすれば、『二度と』(童心社)などを演じながらそのように付け加えて変えることもできるはずです。もちろん絵本の読み聞かせでもね。(追記)あっ、それから昔語りでも朗読でもね。
今、しているかも知れませんね。はい、『二度と』にはそのように脚本には書いてありませんので、皆様ご注意。でも、共生・共生っ。せっかく作り手さんが周囲におられるのだから、物語にして作られればいいのに。
(追記)「いつも読ませてもらいますよ」とおっしゃっていたので、届くようにここに書いておきますね。読んでくださいましたか?

 私は別にいいかもと思うけど、内容は別にして、演じ手の政治的思いで勝手に変えられて知らないうちに聞かされたらいやだと思う人も多いでしょうから。

・文をそのまま読めばいいというのは、いつでもどこでも誰にでも、という紙芝居の簡単さの特徴にかなうものです。このお陰で、安心して始めることができます。

・別に深い意味もなく、読み間違えることも多いです。変えるつもりもないんだけど、変わっていく。人間は生ものなので、そういうことは認めていかないと気楽にできませんね。

・『語りの世界48』(語り手たちの会)のP6から、再話についての考察がされていました。再話と語り変えとは少し違うかもしれないけど、創作性の強さによりレベル分けがされている。穴のあくほど繰り返して読んでいます。どれがいいと書かれている訳でなく、分類や歴史、特徴の提示なので、そこから自分が判断しなくちゃいけない。
 このお陰で、翻訳の時点で語り変えは自然に行われてもいるんだなと、今更ながら思い出しました。指導者層が作者の思いからなるべく離れるなと仰るのなら、外国ものは外国語で読まなくちゃね。


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別のことですが、
やさしいお父さんが、戦地にいくと残酷な日本兵になるという不条理を語る学生も多かったし、在日の方もそのように発言しているところが驚きでもあり安心でもありました。群集心理とか、安定多数に依りたいとか、複雑なメカニズムですよね。
 読み聞かせボランティアも、みんなで一緒に講義を受けるとその講師の選書方法にすり寄っていくんだよね。佐渡の講座の感想をたまたまネットから読んでそう思いました。小千谷でもそうだったのでしょうね。ところで「わかりやすい選書方法」ってことに何の引っ掛かりもないのでしょうか。「わかりやすい」ことに安心するとどうなるか。新潟市の講座も「わかりやすく説明してくれる素敵な先生」はこれからも図書館講座でご活躍・・かもね。

 講師がその物差しが好きなだけだと思うんだけどね。受ける子ども一人ひとり違う物差しを持っているはずだよね。その講師に指導されてきた新潟市の図書館読み聞かせは、中央図書館は別にして、聞き手がとても少ないんだよ。おーい、海の向こうさーん、山の向こうさーん・・・届いたかな~。

 週末に、「今日は子どもが来てくれるかな」と心配しながら図書館に出かけるボランティアも多い。自分たちが講師の言いつけどおりキチンと真面目にやらないからだ、と自分を責める前に、常識を疑い刷り込みを取り除かなくてはならない。そうしないと、どんどんドツボにはまっていく。
 ボランティアは子どもの感性を育てるために、まず今の子どものありようを受け入れてそこから工夫していいんだと思います。図書館はこうしなくちゃいけないというルールはないんだよ。家元制もないし(使えるね、この言葉)。

 やさしいお母さんが、読み聞かせの現場に向かうと、残酷に違うものを排除していくというメカニズムを感じる人も多いと思います。「地域を良くするんだ」というのは「日本国を発展させるんだ!」というのと同じ。ここで、転換できないかなあ。

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