数日前に書いたページ「おわび」と「昔話絵本の絵と、冒険について」を削除しました。
私は、「相手が間違っているから攻撃する」というふうにならないように、工夫をしているつもりです。自分が間違っている場合もあるでしょうし。間違っているかどうかというより、現状を書いて読み手の判断に任せる、「民度を上げる」ボランティアのつもりです。民度を上げる、って、「民衆が成熟していく」っていうことね。私は民衆だから、その中にいて、こうやって書きながら、幅を広げて成長しているつもり。新潟市の家庭文庫の皆様や図書館の指導者の皆様は、「自分達は指導者として道を敷いて、この道を行くように指導して民衆のレベルを上げて差し上げますわ」と思っているんじゃないかと推測しています。
とてもいいキーワードが出てきました。NHK会長さんのご発言です。私的な発言だから、なおさら注目したいですね。国際放送では、という前置きで、「時の政権が右というものを左と言うわけに行かない」という、政権のPR役だもんねという考えですね。放送法でいう「自律」と違うんではないか、と批判されています。
これを新潟市の場合に当てはめてみましょう。小澤俊夫理論をもっと勉強したいという研究会には、司書の人もいる。そういう人は「小澤先生が右というものを左というわけに行かない」となります。こういう司書にレファレンスを頼むと「小澤理論」に沿ったことしか教えてもらえないということですよね。とても不安。
小澤先生・〇〇先生・××さん・・・・にお世話になった、相談に乗ってもらった・・・と、へりくだりつつ本を書く司書。その努力が大きければ大きいほど「〇〇先生が右というものを左と言うわけにいかない」となります。とても不安。
〇〇先生は、ほんとうに司書を成長させたいのならば適当な所で突き放せばいいのに、いつまでも「相談に乗る」「指導する」「便宜をはかる」「名前を挙げてほめたたえる」。
司書は特定の先生に指導を受けるんじゃなくて、みずから広く情報を探して(本や各種情報媒体から)自分で判断するじゃないかなあ。自らそうして自らの姿をみせればいいと思うけど。
〇〇先生に言いたいのですが、これでは相手はどんどん依存していくでしょう。右と言えば右、左と言えば左、の依存が進んでいきます。成熟とは程遠い。これが現状ですね。新潟市はそういう司書に、税金からお給料を支払っているし、そういう人が「先輩」として「後輩」を指導するようなことになっている。とても不安。