昔話理論の先へ(4) 多様な語りがいいと思う 

★「昔話は骨太だ」というところにも。

 話がずんずん進むというのも、たまたまその語り手がそのように語っただけのこと。
記憶をもとに語りますから、「大まかなストーリー語り」が優先されたのでしょうなね。紙芝居でも、一枚の絵に脚本があんまり長くないほうがいいんですよ、画面展開が遅いと飽きちゃいますからね。

でも、語り手によっては自分の好きな部分を詳しくふくらませて語るだろうし、そういう語りの自由さが聞き手に楽しんでもらう大事なポイントだったんじゃないか、と思います。
三回の繰り返しがあるというのも、話を盛り上げるために、骨太な本題からそれて そこを重点的にデフォルメしたのが現れているんじゃないでしょうか。人が人を楽しませたいというエンターテナーの本能がやったことですね。
 良い再話ということで、無駄を省いた文章にわざわざ書き換えるのが正しいのだというようなことが信じられていますが、逆に、あいまいさや言葉の揺らぎ、正確でない言い方、大げさな言い方や情緒的な表現が、言葉として口から発せられて、その場が盛り上がって楽しい思いをすることの方が多いんじゃないかと感じています。下手な語り手さんが人気がある、という理由です。聞き手が「おや?なんか変だぞ」と感じて自ら脳を主体的に働かせる、その刺激が楽しいという感じにつながるんではないかと思います。
 ただ、30分のコマに3人の語り手が行って、ひとりが25分やっちゃったら、仲間が不愉快だろうしお客さんも困るかも知れないから、よく事前に調整すればいい。自由はモラルに制限されると思ってもいます。


 時々不思議に思うことがあります。この「語法」というのは「ほこ」と「たて」ではないか。
繰り返しが効果的に用いられるのが良い再話だというのなら、ストーリーがずんずん進むという語法に反するのではないでしょうか。ストーリー重視でずんずん進むのなら、繰り返しが三度五度ないほうがいい。俯瞰して考えると、昔ばなしの語法の中に相反する項目があちこちあり、自分の矛で自分の盾を突いているような気がするのです。どうも こういうことに深く関わりたくないという気持ちが強いですね。
 

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