共にあるという思想

「共にある」ということは、ボランティアとして利用者に寄り添う時の大きなポイントです。相手のニーズに合わせることでもあると思っています。

 それに反して、「ステップアップする」という思想もあります。役所は縦型社会であれば、階段を登るように他の人より上に行くというシステムが重要になってくるでしょう。しかし、市民社会の構築というようなボランティアの活動であれば、それとはまた違う視点で理解する必要があると思います。
 フロッピー書き換えや、NHK記者の漏洩問題では、「手柄をたてたい」という意識が表に出たものだというのがなんとなく分かります。大きな組織ではどうしてもそれから逃れることができないのでしょう。
 お願いしたいのは、その問題点をよく理解して、ボランティアに同じ道を歩けと押し付けないで欲しいということです。

 大勢のボランティアは分かってきている。自分たちはスキルを上げたい、つまりどんなニーズにも応えられるように、スキルを増やしたい・幅を広げたい、のであって、偉くなりたくてやっているのではない。
 そのことを、図書館側がステップアップと表現したいのかどうなのかよく分かりませんが、指導者だけで集まって「私たちってステップアップした指導者層なの」とやるケースが後を絶ちません。そこにお声かけしてもらったということで天にも上るような気持ちで参加される方もあるのでしょう。風通しの悪い閉鎖空間で、自分たちだけ気持ちのいい世界が作られていきます。

 その感覚こそが、「自分さえよければ」ということにつながります。また、「子どもに伝えたい昔話」という視点では、「(自分が)伝えたい昔話」であって、これもまた「自分さえ良ければ」という感覚でもあるわけです。
「上手く読めば相手も楽しいから相手もいいことになるでしょう」という反論もあるでしょう。ですので、それを尊重し、なおかつ「相手さえ良ければ」という別の道を作ることを大切にしたいと思っているのです。具体的には「下手でいいこと」「子どもが聞きたい・語りたい昔話を研究すること」つまり、「相手さえよければ」です。
 そして、行き詰った道を開いていけるのは「相手さえ良ければ」という人がどれだけの割合でその組織に存在しているかどうか、ということ(テレビで某学者が言っているのを聞いた)でもあるのです。

 新潟市の図書館の絵本の読み聞かせは、ずっと聞き手が少ない状態が20年も続いてきました。20年もやっていれば読み手は読みがお上手です。つまり、上手だから、市民に相手にされないのです。行政は、そのことに注目したのでしょうか。
 私は、県立図書館が子ども向けサービスとして絵本の読み聞かせをはじめようとした時、担当者に会いました。「聞き手が少ないのです」「大きな問題を抱えているのです」・・・。訴えても聞き入れられることがありませんでした。今までどおり、上手に読む訓練をすることしか眼中になかった。厚生省の問題では、村木さんの机の位置さえ検証されることなく起訴されました。図書館読み聞かせ会の現状を、役所は、検証したのだろうか。
 そして、別れ際に、役所の担当者は、一人の図書館協議会委員の名前を挙げて「知っていますか?」と私に尋ねましたね。「知りません」とお答えした時の、担当者の表情を、私は忘れることができません。

 それらの講習を受けた方々が、「読みのここが悪い、ここが変だ」と新人を「教える」スタイルが幅を利かせています。なぜ、あの時、転換できなかったのか。

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