ラブレターへのアドバイス

おせっかいおばさんの独り言です。
エッセイは、小学生へのラブレターというようなタイトルで、夏休みにおすすめの児童書をたくさんピックアップしてありました。全部、岩波書店か福音館書店の本でした。文庫、と指定されたものもたくさんありました。世界各地の人と交流する時に、それを読んである事で共通の話題があったり、気持ちの深いところでつながることが出来るというような内容でした。

私は以前、先生に「気をつけよう暗い夜道とボランティア」と講演で指摘されたような、読み聞かせボランティアの1人です。
 先生は70歳位と存じ上げていますが、先生の世代ではそうなのですね。今ならばハリー・ポッターなどがそれにあたるのでしょうか。当たり前ですが時代は進んでいます。今10歳の人が60年後に70歳になって、その時に今70歳の人が生きていて話が合ったらSFですね。

 それからラブレターですが、今は男女平等の時代で、対等な感覚で話がかわされます。「僕はこう思いますが、あなたはどうですか?」という姿勢がないと、相手にされません。このエッセイも、最後は「私はこれこれが好きだけど、今、あなたの好きなものは何ですか?」としめくくると好感度アップです。
 それ以前に、相手を愛していれば、まず相手のありようを知り、それを受け入れるのはあたりまえですね、だからラブレターを書く。今の子どもの様子が大好きでいらっしゃるのですね。
そうでないのに書くのなら、それはラブレターではなく、支配者が相手を自分の思うとおりにしようと、言葉巧みに擦り寄っていることです。おばさんとしては「気をつけなさいねっ」と言っちゃいます。

 それらの本が本当に今の時代の子どもにも愛されていれば、常に貸し出されていて、みごとな選書として図書館の棚にずらりと存在していることは まずありえないでしょう。古典がすばらしいから君たちもわかるだろう、今それを読めというのは、その古典作品が発表されたあとの「数十年間は存在しなかった」ということなのでしょうか。(この辺の発想は斎藤美奈子の本から)。なぜ、その間に子どもの本離れが起こったのでしょうか。
 それから小学生の様子をもう少しよく観察して提案されたほうがいいと思います。「文庫」サイズは基本的に大人が読むための文字の大きさで、あのタイプは大多数の小学生にとって、ほとんど「点」にしか見えないのでは?

 福音館書店の『日本の昔話』が刊行されたときには、当時の市立図書館長をはじめ、家庭文庫関係者が大々的に運動なさいました。小澤俊夫の昔ばなし大学も何度かありました。その広報は、広くPRされることなく、いわゆる読み聞かせボランティア関係者に口コミでお誘いがあったことを思い出します。しかも、案内チラシは一枚づつ配られるのでなく、見せられるだけでした。今はもうHPから消えてしまいましたが、東京で受講するのとケタ違いな金額でした。チラシがなく証拠がない私には、これ以上つっこめないし、受講した方に不愉快な思いをさせるのは、私もつらいのです。
 で、『昔話の語法』でしたか、それらの本を読んでの講座でした。つまり、数万円の講座を受けないと、数千円の本では理解が不足するから、昔ばなし大学が催されたということですね。
 私はへそ曲がりなのかも知れませんが、本だけでよくわかるように説明するのが一流の学者なのではないかと思うのです。それほど高額の昔ばなし大学で説明せねばならないのなら、その本の価値はいったいどこにあるのでしょうか。その本を買った人に失礼ですよね。

 古典本もそれと同じだと思います。ボランティアを使って読むように勧めたり、必死にPRしなくても、面白ければ子どもは喜んで読みますよね。PRしたり詳細に解説しなくては読んでもらえない本って、資料としての価値こそあれ、楽しむものとしての価値はどの程度の大きさなのでしょうか。

『日本の昔話』も、私は「目黒のさんま」みたいだと思ったのです。もちろん骨はのこっていますから、話の筋はわかりやすい。でも、土地の香りや、雑だったり生々しいような感じ、ドキドキ感はないのです。人によっては、てにおはをいい間違えたと言ってなおしたり、語尾がちょっと違うといっては二つの文献を比べたりもしました。おはなしは伝播され、その土地の言葉になったり地名がくっついたりして生き生きとしてくるというのに、そうなっていないものを読んで楽しめというのは、あまりにひどいのではないでしょうか。
 真面目な親がそれらを買って与え、そんな親に無理に合わせようとする子、反発する子、楽しめない自分に自信を失う子。
これを読んでくれた親が口伝で「心配することないよ。その子が好きな本を認めてやって。そこから始まるんだから」と広めてくださるといいなあと思っています。
  
 もう一つ、新津で元館長の絵本講座があります。私たちもそれを受けて真面目にやって、失敗しました。特定の本を市立図書館が40冊も購入(寄贈?)したのもその館長の時代でした。今は沼垂図書館閉館中のため検索で出てこないと思いますが。また、「子どもの本のために」といって寄付を集められたこともあります。
「子どもの本」って、子ども自身が楽しむ本であり、大人が与えたいタイプの本ばかりを子どもに押し付けても、異文化を攻撃しているようなもので、大変子どもに失礼です。前に書いたように子どもの人権を侵していることになりはしないでしょうか。できたら、児童文化と子ども文化を分けて、二つを平等に見ていただきたいです。
 それがよくわからないまま進んできて、仲間に上下関係ができて、私たちは散々な目にあいました。
 元館長が思いなおしてくれていればいいのですが、そうでないと金銭的なものを含めて、実害を被るのは受講したボランティアです。どうか、自分はどう思うのか、今の子どもに合うものなのかなど、客観的に判断する気持ちを持って受講されることを願っています。それが、元図書館長としての講師の、一番喜ばれることでしょう。

 おばさんたちは、世の中にいろんな人がいることを知っています。斎藤先生の考えももちろん、「そういう人もいるのね」と受け入れています。自分の考えが正しくて他は間違っていると言いつのる人も知っていますし、そういう人なのねと、受け入れることをくり返してきました。

 話はもどります。(すいません、変換ミスなど直して翌日追記)

小さいころに読んだ本が世界中の人とつながる、あるいは世代を超えて共通話題になる、というのは素敵なことです。そういうこともあるでしょう。でもそれは希望観測的な物語でしかない。しかも、読んでない人が仲間に入れないという困った物語にもなる。そういう物語を成立させるために、生身の人間である小学生が努力する。これってどこかで見た図式ではないですか。

 大日本帝国(?)だったか、素晴らしい日本を広めようとか、そういう物語を成立させるために、多くの人が無理にそっちに考えをもっていったことがありましたね。命まで落としたことがありましたね。そういうものと同じような気がするのです。
 
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