かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

鯨肉の思い出・・・高知市内の魚の棚の思い出とともに

2018-12-30 09:44:03 | ブログ記事
と書いても、私が鯨肉を食べた思い出ではない。

好き嫌いの激しかった子供の頃の私は、肉類はいっさい口にすることができなかった。

皆がおいしいおいしいと食べるすき焼きでさえ、肉の横で煮られた野菜を食べるだけであった。

まして鯨肉など食べるはずもなかった。

が、思い出はある。

父方祖父の田舎は海沿いの丘の集落であった。

余談になるが、
場所的に、たぶん大昔の南海地震のあと津波が襲ってきて、住民が大勢亡くなってから、
平地を避けて丘に集落を作ったのではなかったと思っている。

そんな集落が祖父の故郷であったのであるが、

私が幼かったころは、まあ食べ物も十分あったわけではなかったので、
その田舎に行くとき、義理祖母は祖父の親戚に鯨肉を買ってお土産にしていた。

それを田舎の親戚の人たちが、たいそう喜んでいたことを覚えている。

あれは鯨肉の皮に近い部位だったのではなかろうか。

黒い皮に黄色っぽい脂肪のようなものがついている代物であった。

肉の嫌いな私は見るだけでも気持ちが悪かった。

それを親戚のお婆さんは喜ぶのである。

その鯨肉を買うのは実家の近くの「魚の棚商店街」であった。

当時の魚の棚商店街というのは高知市内で一番高級な食材のそろうことで有名な商店街で、
そこに鯨肉専門店もあったのだ。

これを書きながら、あの当時の魚の棚商店街の賑わいを思い出している。

小さな商店街なのだが、活気があって、常に大勢の人が歩いていた。

が、現在はさびれて、生鮮食品を商う店もほとんどなくなった。

歩いている人がいないわけではないが、買い物客ではなく、ただの通行人である。

県外に住んでいる私には、魚の棚の風景は思い出の原風景であるとともに、
鯨肉を買う義理祖母の姿も私の幼いころの原風景なのである。

義理祖母と書いているのは、この祖母は祖父の後妻だった人だったからだ。

当時は義理とは知らず、祖母だと思い込んでいた。

そのくらい私のことを可愛がってくれて、どこかに行くときはよく連れて行ってくれた。

祖父の田舎の親戚に泊まるときも、この祖母と一緒のことが多かった。

祖父の親戚というのは祖父の弟の家で、そこには私と同い年の”また従妹がいた。

それで義理祖母も私を連れて行っていたのかもしれないと今頃おもったりもする。

そういうふうによく泊りがけで行ったりしたから、その”また従妹”は従妹くらい親しかった。

ブロ友さんの捕鯨の話から昔の鯨肉を思い出して、
自分の幼かったころのことまで思い出してしまった。

こうして昔のことを思い出すのは私が年寄りになったせいだろう。

*

★義理祖母が土産に買ひゐし鯨肉の黒き鯨皮と黄色き鯨油と

★親戚の人ら歓びゐし鯨おさなきわれは食べたことなし

★土電とふ電車で赤野といふ村に泊まりし記憶きのふのやうに

★義理祖母と知らずにあちこち行きしかな田舎の親戚町の親戚

★魚の棚商店街も思ひ出の街でありしが今はさびれて


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2 コメント

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Re:商店街 (kaminaribiko)
2018-12-31 12:33:33
あれ背油って言うんですか!知らなかった。
ブログに書いたり読ませてもらうと、この年になっても新たな知識が得られます。

やっぽさんは、今の間にお姉様から昔のことをお聞きして、ブログ記事にして教えてください。

それにしても年の離れたご姉弟だったんですね。
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商店街 (やっほ)
2018-12-30 12:16:52
商店街は誰しも子供のころの思い出に残っている風景ですが、
しかし「スーパーマーケット」など大型店舗が急増したことから商店街が廃れたのですよね。
アメリカからの外圧だったと記憶しております。

鯨の背油の部分は薄くスライスして鯨 ベーコンとしてスーパーの魚売り場で売られていることがあります。
以前は ごく々 たまに 酢醤油タレで食べていました。懐かしい味です。
しかし家族誰も口にはしません。私だけのオリジナル食品でした。

この年になると幼き頃の思い出が懐かしく蘇ってくるものですね。
私も近く所用があって久しく故郷へ行くことになっております。
三歳上の兄と86歳になる姉がいます。
特に姉には健在なうちに先祖に纏わる四方山話を聞いて置きたいと思っています。
今頃になって色々興味が湧いていきました。
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