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釜合労-稲垣浩の「名誉棄損裁判」の判決について②

2012年09月25日 | 釜日労活動報告
何故に「告訴・告発路線」に転落したのか?
 
  彼らは「意見陳述書」のなかで次のように述べています。
「労働者が私を皮肉な目でみて『稲垣さん金持ちなんやてなァ』等と言われたことが何度もあります」と。わたしたちは、それまでの「勝手にやらせておけ」という態度を改め、彼らに対する批判を開始したのは事実です。下世話な言い方をすれば「売られたケンカを買った」のです。
  組合内部では「彼らの批判の仕方は明らかで 人権侵害で訴えるべきだ」という意見もありましたが、運動の原則にのっとり、釜ヶ崎の労働者の前で事実を明らかにし、判断を仲間にゆだねるという姿勢を堅持してきたのです。
  労働者が「皮肉な目で見る」のは私たちのデマ(彼らに言わせれば)キャンペーンが原因ではありません。
  釜ヶ崎の労働者は愚かではありません。一時はデマにまどわされることはあっても、ていねいに説明すれば「裁判所のお墨付き」などなくとも事実を判断できます。
 彼らが行った日雇健保の「適用除外申請」運動もNPO釜ヶ崎の説明によって裁判の「判決」を待たずしてとっくに破産しているではありませんか。
  彼らが「対職安闘争」を始めるまで、20年以上に渡って、夏・冬の一時金カンパの時と選挙の時以外、センターに顔も出さなかったことを、労働者はよく知っています。カンパの額を労働者に絶対公表しないことも知っています。だから労働者の支持と共感を得られず「皮肉な目で見られる」のです。
  稲垣氏は判決の日に舞い上がってしまい、判決後、公園で「やっと山田実に一矢報いることができました」と、つい本音を漏らしてしまいました。
  釜ヶ崎に来てまだ間もない仲間は知らないかもしれませんが、山田実とは
前釜日労委員長であり、現在はNPO理事長です。
  稲垣浩氏は、全港湾西成分会に対する『100円起訴』を契機として釜日労の委員長を解任され、(他にも解放会館や組織運営上の様々な問題もあったのですが)それ以降何をやっても運動上大きく水をあけられ、出番がなくなってきたことに、まさに「一矢報いたかった」のです。
  釜日労の委員長だった頃、そして解任されてしばらくの間は、他の運動団体やマスコミ、そして行政も「釜ヶ崎といえば、その歴史的経緯から全港湾西成分会と稲垣浩」でした。
  しかし、何が理由なのか解りませんが20年以上、夏・冬の一時金カンパと選挙の時しかセンターに出てこなくなり、悪徳業者に対する労働争議もしなくなり、闘いらしい闘いをしてこない間に、釜ヶ崎の労働者の支持・共感を全く失い、マスコミや行政にも相手にされなくなったのです。
  80年代、毎年春3月に「釜ヶ崎春闘」としてセンターの最低賃金を500円ずつあげさせる闘いをセンターに集まる労働者全員で行い、最賃の底上げを続けてきましたが、彼らはそんな労働者の闘いに見向きもしませんでした。
  全国の寄せ場の労働組合が寄せ場日雇いの力を結集して、対悪徳業者、資本との闘いに団結して立ち向かおうと日雇全協をつくった時も、山谷に右翼の旗を掲げ寄せ場支配をもくろんで国粋会金町一家が登場し、全国の寄せ場から労働者が駆け付けた時も知らん顔でした。
  とりわけ90年代、バブル経済の崩壊以降、困窮する労働者を前に何も運動を提起することもしないで炊き出しとそのカンパ集めだけに終始していました。
  一方、釜ヶ崎反失業連絡会(反失連)の下で釜ヶ崎労働者は、あいりんセンター夜間解放闘争、大阪府庁舎・市庁舎前野営闘争と実力闘争(場外乱闘)で反失業闘争を大きく前進させ、「特掃」「シェルター」を闘い取りました。
  またリーマンショック以降 全国的に反貧困闘争が盛り上がり、それによって釜ヶ崎も世間の注目を集め、釜ヶ崎を取り上げた本も多数出版されましたが、その中には稲垣浩のいの字も出てきません。大金を使って何度も市議選に出ましたが、全く票が入らない。日本共産党が「反共宣伝によって敗北した」と他人のせいにしたのと同じように「釜日労のデマによって選挙に当選できない」とでも思っているのでしょうか。
  なんとか「一矢報いたい」と「告訴・告発路線」に走ったのでしょうが、自らの運動をキチンととらえ返し、誤りを正さなければ、いつまでたっても労働者から「皮肉な目で見られる」だけでしょう。
  また、「告訴・告発路線」の下地は、全港湾西成分会に対する『100円訴訟』から続いているものです。

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