日南娘(ひなむすめ)

宮崎をアピールできたらいいな

自然体で生活していきたいなーー。
      

「明日に架ける橋」

「500マイルも離れて」

また落ち込んでまーーーす

2011-11-17 11:14:01 | 日記

昨夜、茨城にいる主人のお友達(女性)から電話があったんですが、丁度主人はお風呂に入ってて


私がお相手をしたんですよ。


色々話してるうちに彼女の息子さんの話になり、最後は涙、涙になってしまいました。


彼女の息子さんは自衛隊です。


もちろん、自衛隊は今回の震災では大活躍でしたよねーーー


息子さんは、まず原子炉が爆発した時にすぐ1回目、2週間ほどいったそうです。


2回目は遺体収集だったそうです。


これが大変。


若いので、何体収集しても慣れなくて、いまだもって精神的に立ち直れてないそうです。


いや、もちろん自衛隊の仕事はちゃんとこなしてるそうなんですが、食欲の面とか、夜眠れないとかです。


時間が解決するよなんて電話切ったんですが、長い時間がかかりそう・・・・・


今でも、新聞に震災で亡くなった人の名前が載りますよねーーー


まだ、まだ被災地で頑張ってるんですねーーー


これから冬本番を迎えるのに、亡くなったかたも、捜査作業する人達も大変ですねーー


 


南に住んでる私は、被災地の物を買ったりすることしかできませんが、


早く、暖かい部屋で年が越せればいいですね。


 


 


 


「生き証人」が語る真実の記録と教訓(12)

2011-11-17 09:51:27 | Weblog

 

 

「生き証人」が語る真実の記録と教訓~大震災で「生と死」を見つめて    吉田典史

                                                                            (ダイヤモンド・オンライン)

 

 

“正気”を失う孤立マンションで祈り続けた家族の無事
父はあのとき、死ななければいけなかったのか――。
――石巻葬儀社・太田かおり氏のケース

 

震災で家族を失った遺族を、新聞やテレビではあまり見かけなくなった。遺族はその死にいかに向かい合い、

何を感じているのか。私たちが被災者を語るとき、本来、ここが原点になるべきなのではないのだろうか――。

 今回は、葬儀社を経営する父を失い、その後を継いだ女性を取材することで、「大震災の生と死」について考える。


「父は生きている」とひたすら願った
半年経っても現実を受け入れられない

 「まだ、父の死を受け入れることはできていない。毎日、無意識のうちに悲しい。漠然とした悲しい思いが半年以上、

続いている」

 太田かおりさんは、目にうっすらと涙を浮かべ、思いを語った。父の太田尚行さん(69)は、創業80年を越える

株式会社石巻葬儀社(本社・宮城県石巻市)の社長を、長年にわたり務めていた。

かおりさんは父を専務取締役として支え、16人の社員を束ねてきた。

 「父がいなくなった感覚がない。3月11日の朝も、地震が起きた瞬間も、この事務所で仕事をしていたから……」

 会社の事務所から1キロほど離れた家には、母(尚行さんの妻)と姉が生活しているが、3人が集まると父の話になるという。

 「父が座っていた椅子の背もたれには、父の服がかけられている。父があの日、かけたままの状態で……」

 3月11日午後2時46分、激しい揺れが起きた。1時間を経た後、津波は会社がある市中心部の中里町2丁目にも

押し寄せた。そのとき、かおりさんは父と連絡がとれなくなった。

 自宅にいた尚行さんは、会社にいるかおりさんや社員が心配になり、事務所に車で向かった。

その後、行方がわからなくなった。

 地震発生後、かおりさんは社員らと会社近くにある十数メートルの高さの建物に避難し、難を逃れた。

そこに3日間滞在した後、13日早朝に離れ、胸まである高さの水をかき分け、土手にたどり着いた。

 歩いて土手を越え、その晩は知り合いの家に泊まる。翌14日、津波で流された車の合間をくぐり抜け、自宅に戻ること

ができた。母、姉と3日ぶりに再会したが、そのとき父の行方がわからなくなっていることを知る。

 母と姉は、尚行さんとかおりさんが一緒にいると思い込んでいた。

かおりさんは「お父さんは家にいると思っていたのに……」と小さな声で話す。それ以降、3人は「父は生きている」と

ひたすら願った。姉は食料の買い出しに出かけ、妹のかおりさんが父を探した。

 震災直後から、市内は大規模な停電が続き、室内の暖房器具は動かない。寒さをこらえ、自転車に乗り、患者らが

続々と詰めかける石巻赤十字病院に行った。他にもいくつかの病院、避難所、市役所などを探した。

 車は津波で水没し、故障し、動かない。車を購入しようにも、自動車販売店は営業していなかった。

かおりさんは当時を思い起こし、話した。

 「町全体が停電だったから、日が暮れるのが早い気がした……」

 父を見つけることができない日が続いた。それでも、「きっと何とか、どこかで生きている」と信じた。

自宅に帰った後は、母や姉と「あの知人の家に電話をしてみよう」とか、「明日はここの避難所に行ってみる」などと

話し合った。 「あらゆるところを探して、探して……父が最後に乗っていた車も探した。だけど、見つからなかった」

 1週間ほどすると、かおりさんは感じるようになった。「もしかすると、もうダメかもしれない」。

その頃から、ためらいながらも遺体安置所に通うようになった。

 「他人の遺体を数多く見ることは、自分にはできないと思った。ただ、母もそれはできないだろうし……。

何とか、探さないといけない。見つけ出さないといけない」

 石巻市では、3月下旬の時点で死者は2000人を超えていた。遺体安置所となった市総合体育舘では、床に並ぶ

遺体を1つずつ見て回った。旧青果市場では、遺体の写真を見て確認した。かおりさんは、小さな声で話を続ける。

 「今日行っても、明日にはまた遺体が運ばれてくる。だから、繰り返し行った。だけど、生きていて欲しいという願いが

強く、足が進まない。病院や避難所に行くことのほうが多かった」

“最期の顔”は、お酒を飲んで上機嫌になったときの表情に似ていた

 震災当日から2週間ほど後に、父の知人から電話が入った。「尚行さんに似ている遺体が安置所にあった」。

かおりさんは、その話を聞くと父であることを確信した。そして母、姉と一緒に向かった。父は、冷たくなり横たわっていた。

遺体は、震災当日から1週間後くらいに発見されていたようだった。

 「お酒を飲んだときの顔みたいで、頬が赤くなっていた。笑っているように見えた……。家でお酒を飲んで、

上機嫌になったときの顔に似ていて……」

 かおりさんは、声を詰まらせる。目にうっすらと涙が浮かぶ。尚行さんの胸の上には、検死医が書いたと思われる

カードがあった。そこには、死因が書かれている。「津波の水圧により、循環器に障害が起きて即死」といった内容だった。

 かおりさんは、「父は心臓が弱く、手術をしたこともあった」と話した。私は、尋ねた。

 「強い水圧の波が体にぶつかり、それで循環器に障害が出て即死し、そのときの姿のまま体が硬くなる。いわゆる

即時死後硬直だったのではないか」

 かおりさんは間を置き、「たぶん、そうだと思う」と答えた。

 「携帯電話をするときに耳に電話をあてるけれど、左手は電話を握ったままの恰好になっていた。手を左の耳に

つけていた。電話は流されて、見つからない……」

 かおりさんは、「あのとき、電話がつながらなければよかった」とかすかに聞こえるような声で言う。

「大丈夫か、すぐに行くからな!」
電話が切れた後に消息を絶った父

午後2時46分の地震発生時、尚行さんは会社にいた。入口付近に陳列するろうそくなどのショーウィンドウが割れ、

仏壇も倒れた。激しい揺れが続き、停電になった。かおりさんらと共にお客さんを店の外に案内した。

 その後は、社員に自宅に帰ることを指示した後、自らも車で家に帰った。妻や長女のことが気になったようだ。

かおりさんは会社に残り、戸締まりをした。20分ほど後、車に乗り、自宅に向かおうとしたが、すぐ近くを走る道まで

水が来た。すでに十数センチになっていた。

 「波が押し寄せるというよりも、水かさがじわりじわりと上がってくる感じだった。始めは、すぐに引くだろうと思った」

 しかし、水は速いスピードで増えてきた。周辺一帯が、床上浸水の状態になった。かおりさんや社員は、200メートルほど

裏にある自社の駐車場に向かった。始めは、そこに止めていた自分の車の中にいた。いざとなれば運転し、避難する

つもりだった。  ところが、水は一段と増えてくる。駐車場の近くの高いビルに避難していた住民も、「建物の中にいると

危ない」と言っていた。その頃、若い警察官2人が来て、住民らに「駐車場のバスの中に避難するように」と指示を

した。バスは、かおりさんの会社のものだった。

かおりさんは振り返る。「私たちも水かさが増えてくることを警戒し、住民と一緒にバスに移った。あのとき、“安全な

高台に行こう”とは、誰も言わなかったと記憶している。バスへ避難したことが、本当によかったのかな……」

 2台のバスがあり、それぞれに20人近くが乗った。そこには、子どもや誰かのペットの犬もいた。警官も乗っていた。

 それでも、水は増えてくる。1メートルを越えるくらいになり、バスのドアが開かなくなりつつあった。

警官は、駐車場の斜め前にある高さ十数メートルのマンションに避難するように指示をした。

 この頃、かおりさんは家にいる家族と携帯電話で連絡を取ることができた。それ以前はつながらなかった。

始めは姉、次に母、最後は尚行さんが電話に出てきた。会社付近の事情を話すと、父は動揺した。

 「私は、『お父さん、こちらは大丈夫。そちらの身を守ることを優先して』と言った。父は心配に思ったのか、

『大丈夫か、すぐに行くからな』と会社に来ようとする気配だった。このとき、電話が途切れた。急いでかけ直した。

だけど、つながらない。これが最後となった……」

 この後、尚行さんは妻の制止を振り切り、会社に車で向かった。そして、消息を絶った。

バスから脱出してマンションへ避難
暗く寒い室内に取り残された住民の恐怖

かおりさんは、バスの中の住民らと一緒にマンションに移った。始めは屋上にいたが、雪が降ってきた。警官は、

カギが開いていた住人の部屋を探した。そして住民らに、「室内で待機をするように」と言う。部屋の住民は、地震

直後に高台などへ避難したようだった。

 停電のため、夜は真っ暗闇になった。皆が水で濡れたままだった。暖房は効かない。1部屋に20人近くが入り、

一晩を過ごした。子どもが泣き叫んでいた。

 「寒い、なんてものではなかった……」

 翌朝早く、警官はその場を離れ、違う場所に向かった。かおりさんは言う。

 「警官は、私たちに、『今後は自力でなんとかして』といった意味合いのことを話した。いきなり、自力と

言われても……。どうしていいかわからなかった」

2日目の12日、残された40~50人の住人らは救援を待った。携帯電話が時折つながり、ニュースを見ることが

できた。しかし、「〇〇市で数百人死亡」とか、「数千人が行方不明」という情報しか入らない。

 「皆は、(警察や自衛隊などから)見捨てられたと思ったのか、イライラしていた」

 部屋にじっとしていると、恐怖や寒さ、空腹で気がおかしくなりそうだった。冷静さを保つために、ときどき屋上に

上がり、気分転換をしていた」

 かおりさんが意識していたことは、「いかに正気を保つか」ということだったという。

 トイレに行こうと思っても、水は流れない。住民らは、屋上の排水溝付近で用を足した。私が「男性と女性が一緒に

居て、プライバシーはあったのか」と尋ねると、「それどころではなかった。仕方ない……と思うようにした」と一段と

小さな声で答える。

叫びも虚しく上空を飛び去る救助ヘリ
「もう救援は来ない、自力で生き延びる」

 あるとき、自衛隊のヘリコプターが上空を飛んだ。住民らは屋上に上がり、助けを求めた。

だが、ヘリの中から自衛官が見ていたものの、そのまま飛び去った。

「私たちは、『ケガをしたりして命が危ないわけではない』と判断されたのだと思う。警察から事前に、自衛隊に連絡が

行って感じた。自力で何とかするしかないという思いを強くした」

 徒歩15分ほどにある石巻市役所の方から、アナウンスが聞こえた。

「〇〇町の赤ちゃんに、ミルクをどなたか届けてください」「皆さんで助け合ってください」というものがあった。

このとき、かおりさんは決めた。

 「もう、救援は来ない。自力で抜け出すしかない」

 その後、住民の中の数人が部屋を出て、どこからか情報を仕入れてきた。それによると、「石巻市内全てが水没

しているわけでなく、蛇田(へびた)地区は多少安全」という。そこで3日目の早朝、かおりさんや社員はマンション

を抜け出した。「もう、あの時点で精神的に限界だった」

 200メートルほど離れた会社に社員が水に胸までつかり、辿り着いた。そして、室内にある畳を持ち出し、マンション

に戻ってきた。かおりさんは、それにつかまり、社員らが引っ張る。小さな船に乗るような状態だったという。

 氷のように冷たい水をかき分け、小高い土手に着いたのは、昼近くだった。その後は、皆で安全な場所を探した。

自衛隊がボートに乗り、マンション周辺へ救出に来たのは、かおりさんたちが脱出し、2日後のことだったという。

 遺体安置所で見つかった尚行さんの遺体を、すぐに火葬することはできなかった。

市内の埋葬施設は津波で破壊され、残っているところも燃料不足のため、稼働しなかった。市外の火葬場が

見つかるまでの3週間近く、会社の横のホールの中の棺桶に入れておいた。始めはドライアイスもなかった。

4月9日、火葬をすることができた。葬式はまだ行われていない。

 かおりさんは、声を振り絞るように答えた。

 「父を見つけることができてよかった。あの頃、少しずつ変わっていく遺体の姿を見るのはつらいものがあった。

お盆の頃には区切りを迎えることができると思ったけれど、そのような精神状態になれなかった。震災前とは

わり果てた生活になり、街の中の様子も1ヵ月後にはどうなるのかわからない状況が続く。時が経つほど混乱が

加速し、悲しみは大きくなる。私はまだ、父の死を受け入れることはできない……」


“生き証人”の証言から学ぶ防災の心得

 太田さんの証言から私が感じ取った、今後の防災を問い直す上で検証すべき点は、主に以下の3つである。

 

1.地域の自然災害に関する状況を再認識する

 かおりさんの父は、娘や社員のことが心配になり、会社に向けて急いで車を走らせたが、それが災いした。

かおりさんとの“最後の電話”は、地震の直後であり、冷静に考える余裕がない中でのものだったのだろう。

 会社の周辺を歩くと、そこは市の中心部であり、「ここまで巨大な津波が押し寄せる可能性は低いのではないか」

と思えなくもない。水が押し寄せたとしても、いわゆる「浸水」という状況に近いように見えなくもなかった。

私が周辺の店や当時の実情を知るタクシーの運転手、市役所の職員らに尋ねると、その多くが震災直後における

この会社の近辺について、こう語る。

 「津波そのものが押し寄せたのではなく、1メートルくらいの高さの浸水が3~4日続く状態だった。一番高いときで

1.5メートルほど」。

かおりさんの父がこのことを知っていたならば、難しい判断を求められたことには変わりがないが、もしかすると違った

結果になったかもしれない。改めて正確な情報が必要であることを痛感する。

 今後の防災を考える際には、日頃から地域の実態、たとえば土地の低さや過去に大雨や洪水があったときの浸水の

状況、そのときの被害状況などを知っておくことが、必要なのだろう。

 このような情報に必要以上に縛られることも問題だが、ある程度は理解しておきたい。

 

2.自分の身を自分で守る

 かおりさんが震災から3日目の朝に、避難していたマンションを抜け出そうとした決断は、「自分の身を自ら守る」

意思の現れと言える。それより前の数日間、「マンションの室内でいかに正気を保つかに気を使っていた」という。

さぞかし、精神的に苦しい時間だったのだと思う。「苦しい」を通り越していたに違いない。

 決断をした背景には、警察や自衛隊、市役所など、公的な機関の対応があったものと思われる。

極限状態の中、そのいずれにも「もう、救出を期待できない」と感じ取らざるを得なかったのだろう。

私は、かおりさんらの “脱出”についてコメントできる立場にはない。だが、「最後は自力で身を守らざるを得ない」と

いう現実は、彼女の証言からひしひしと伝わってきた。

なお、私は警官の「避難誘導」は検証されていいと思う。被災地では震災当日、避難誘導に当たっていた警官が殉職

をしているが、そこで「かわいそう」と思考を停止すべきではない。「その誘導で良かったか」を、警察以外の専門家など

が検証し、広く公開するべきではないだろうか。

 

3.震災直後の情報を早く、確実に伝える

かおりさんら住民は、情報不足のため、避難の過程で不安を募らせていく。こうした状態がエスカレートすると、何かの

トラブルになることも考えられる。

 今後、自衛隊、警察、消防、地元の自治体などは、震災直後から少なくとも2週間ほどは、避難をする住民に向けて、

被害状況、救出の実態、今後の救出のめどなどを、繰り返し伝えていくことが必要ではないか。

 震災直後は、自衛隊、警察、消防、地元の自治体らも緊急に取り組まなければいけない仕事があり、そこまで対応できない

のかもしれない。だが、避難者からすると、情報は極めて重要である。

実際、震災直後、都内から被災地に出向いた医師らからも、「震災直後の石巻市内の人々が漂わせる雰囲気は怖かった」と

聞く。その理由を尋ねると、「当時の石巻市は、救出や支援に関する情報が他の地域よりも不足し、『自分が見捨てられた』と

受け止めた人が少なくないのではないか」と答える。

 正確な情報を避難者らにきちんと早く届ける体制を、自治体や地域で早急につくることが必要だと思える。

さらに、その試みを日頃から周知していくことも大切だ。

 最後に、娘を救おうとして命を失くした太田尚行さんのご冥福を祈りたい。

 

 

 

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