2013.4.11 at 東京芸術劇場 シアターイースト
「ゴドーを待ちながら」
作 いとうせいこう
演出 ケラリーノ・サンドロヴィッチ
出演 大倉孝二
(声の出演 野田秀樹)
http://www.geigeki.jp/performance/theater019/
↓ で、作家・演出家・役者の力の抜けたインタビューを読むと、ヘンにおもしろさが伝わる。
同時に、10年間もケラさんのオファーを拒否(無視?)し続けた大倉さんの戸惑いと不安とプレッシャーがハンパない感じで伝わってきて、いま、ああ観る前にココを見なくてよかったかな、と思いました(笑)。
http://cubeinc.co.jp/stage/info/nylon_side12.html
ベケットの不条理劇「ゴドーを待ちながら」で、ただただ意味もなく待たれていたゴドー側のお話。
これだけで、「おもしろそう」っていうより、たぶん訳わからん感じなんだろうなと思ってしまった私で。
何度か「ゴドーを待ちながら」を観てはいるけれど、ああ、演出と役者によって、芝居ってホントに変わるんだな、とか、「不条理劇って?」などと、そこからなかなか抜け出せないのですから。
上のインタビューで、いとうせいこうは「これは、ナンセンスコメディーですから」って言ってるな。
大倉さんは、「役者は内容がわからなくて演じていいんでしょうか」と言ってるし(いまだに6、7割しか理解してないみたい)。
ゴドー自身も自分がいったい何者なのか、誰がどこで待っているか、わからないわけだし、「わからない役者」が演じていいんだ・・・みたいなことを語っている。
・・・と、最初から脱線ですが。
「フフ」という腹の底からではない不安定な笑いを何度も覚えつつ、どこにも行きようがない、結局「誰がどこでいつ自分を待っているのか」、それがわからないまま、同じことを繰り返して毎日を過ごして、たまたまそのなかのいっときを浮かび上がらせた舞台なのだ。
だけど、「誰だかわからないけれど、待っている誰かがいることの救い」を彼は何度か口にする。
だから、どうにか外に出ようとする。でも、ドアに手をかけた瞬間に、「じゃ、どこへ行けばいいんだ? それはいつなんだ?」と同じ自問自答が始まる。靴も片方しかはけないという・・・。
とりあえず出かけてみればいいじゃない? でも彼は出られない。
二幕目も、変わらず、出られない彼のいらだちとおかしさが繰り返される。ずっと・・・。
ドア越しに使いの者とのかみ合わない会話が交わされ、その会話の意味を追うと、よけいに彼のおかれている場が不安定になる。
永遠にこのままゴドーはここにいるんだったら、「ゴドーを待ちながら」の彼らもまた、あのままあそこで着地点のない会話やパフォーマンスを続けていくのかなと思ったりする。
最後、薄暗い中で浮かび上がったゴドーは言うんだよね、それまでとはちょっと異なる声で、言い方で「行こう・・・」って。
彼はどこに行くんだろう、行こうとするんだろう・・・。
大倉さんは大好きな役者です。
色のあるようなないような雰囲気も、手足の長い風貌も、観ていて気持ちいい。
できれば、今後何回も、「ゴドーは待たれながら」を小さなところで再演を繰り返してほしい。
かつての、イヨネスコ原作の『授業』(中村伸郎)みたいに。
繰り返される「誰が、どこで、いつ待っているんだ」という問いかけが、きっと何通りもの演技に広がって、初演より深い「ゴドー」になるだろう。
それを見てみたいから。
今朝起きて、最初に知ったのが「淡路島で地震があった」ということ。
こんな離れたところに暮らしていても、一瞬、阪神大震災が頭をよぎったのだから、関西に人の衝撃ははかりしれない。
私の知り合いたちは、「びっくりして飛び起きた」程度のことですんだようだけれど・・・。
みなさんのところはいかがですか?