隠れ家-かけらの世界-

今日感じたこと、出会った人のこと、好きなこと、忘れたくないこと…。気ままに残していけたらいい。

命の意味~子どもたちの事件に感じること~

2006年04月24日 19時48分55秒 | プチエッセイ
■「当たり前の子ども」を育てる大切さ

 時代が変わっても、それぞれにいろんな大人がいて、いろんな子どもが生きていると思っている。よく「今の時代は…」というくくりで語られたりするけれど、たまに違和感を感じていた。
 私の時代は「若者が何に対しても白けている」と言われたけれど、その中で熱く政治活動をする人もいたし、もちろん周囲のことに興味をもたず自分のことだけ、という人もいた。そんなもんだと思っていたし、今もそう思っている。
 けれど、ここ何年かで頻発している少年犯罪の深刻さには時々、何か違ってきているものを感じざるをえない。
 たんなる暴力事件なら程度の差こそあれ、いつの時代にもメディアを騒がせた。だけど、命までも簡単に(ではないんだろうけど)奪ってしまう事件が増えているのはなぜなんだろう。 もう、ケンカ、とか、うっぷんを晴らす、とか、そういうレベルではないように思える。 殴ったり蹴ったり…は飛び越えて、すぐにナイフを持ち出したり首を絞めたり。
 人間は一度死んだら、絶対にもとには戻らないし、たぶん世の中に「絶対」というものがあるとしたら、それは「人の死」だと思うのだが、そういう本当に基本的なこと、当たり前のことを、なぜすぐに飛び越えてしまうのだろう。越えたら戻れない境界線が見えなくなっているのだろうか。
 それは大人が教えなくてはいけないことなんだろうけれど、かつては教育や大人の言葉で示さなくても、日常の中で自然に培われたものだったのだろうか。それとも、私たちは気づかぬうちにそういう教えを受けてきたのだろうか。
 それとも、「死」の認識以前に、子どもたちが簡単に「キレ」てしまって、命を分ける境界線をいともたやすく越えてしまうのか。キレたときにどうやってそのどうしようもない怒りや荒々しさを静めたらいいのかがわからないのか。
 たしかに大人だって、自分を律することが難しい時代だし、感情を自分の中で処理する毅然とした生き方を私たちができているかというと、自信はない。結局、子どもの暴走は大人からの影響であり、子どもは大人の鏡だ、ということなのかもしれない。
 経験は何にもまして、人を賢くさせる。キツイことの連続でも、また「生きることはすばらしい」などと美辞麗句で片づけられないとしても、それでも生きることは続けなくてはいけないと、どこかで感じたら、私たちの生き方も少しは違ってくるかもしれない。
 少数の選ばれた「頭のいい子」を育てるより、もっと普通に生きながら感じながら大人への道を歩ける大勢の「当たり前の子」を育てることに、私たちは興味をもたなくてはならない。そんなことがわからなくなるくらい、この国はどこか壊れているし、後ろ向きの恥ずかしい国になってしまったのだろう。
 全国一斉学力テストとか、卒業式での強制的な国歌斉唱とか、子どもがきちんと成長できる土壌を権力が奪っているとも言えないだろうか。
 ねえ、人は死んだら生き返りません。あなたももちろんそうだし、あなたの親もきょうだいも友だちもそうです。それだけは、どんなに科学が発達しても、どんなにお金儲けのじょうずな生き方を身につけても、変わることはない。
 こんなちっぽけなブログの中でも、そういうことを話していきたいと、今日は強く深く感じています。

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