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投錨備忘録 - 暇つぶしに借りた本のメモを残すブログ

故郷、遥かなり・・・かな。

ちょっと前の記事ですが・・・。

最古の石組み池跡が出土 馬子邸の池の源流か 奈良 (朝日新聞) - goo ニュース


最古の石組み池跡が出土 馬子邸の池の源流か 奈良
2005年 9月14日 (水) 23:31


 古代の渡来系豪族・東漢氏(やまとのあやうじ)の拠点集落だったとされる奈良県高取町の観覚寺(かんがくじ)遺跡で、国内最古の石組みの人工池跡(6世紀)が出土した。同町教委が14日、発表した。東西約5メートル、南北約4メートル、深さ約40センチの方形で、町教委は、蘇我馬子邸があったとされる同県明日香村の島庄(しまのしょう)遺跡(7世紀)で見つかった石組み方形池跡(約42メートル四方)の原形とみている。

 住宅建設に伴い約350平方メートルを発掘した。池の岸や縁は人頭大の石で組まれ、底にも石が敷かれていた。近くからは朝鮮半島にみられる暖房施設「オンドル」を備えた建物跡なども出土し、煮炊きなど生活に使う水をためる池だったとみられている。

 池の南西方向には幅約1メートルの石組みの溝があり、ここからわき水を引き込んでいたらしい。町教委の担当者は「優れた土木技術を持つ渡来系豪族の拠点だったことを裏付ける」と話した。

 一方、生活用水をためるだけなら石組みの必要はないことから、これまで最古とされてきた島庄遺跡の石組み方形池跡と同じく、庭園につくられた観賞用のものとみる専門家もいる。








6世紀の方形池や舗装道路 奈良、渡来氏族の集落か (共同通信) - goo ニュース



6世紀の方形池や舗装道路 奈良、渡来氏族の集落か
2005年 9月14日 (水) 18:09


 古代の渡来系氏族・東漢氏(やまとのあやうじ)の本拠地とみられる奈良県高取町の観覚寺遺跡で、6世紀の長方形の石組み池跡や精巧な舗装道路、朝鮮半島にルーツがある大壁建物跡などが見つかり、同町教育委員会が14日、発表した。

日本書紀によると、7世紀に難波宮や百済大寺を造営した際、東漢氏は高度な土木技術で中心的役割を果たしたとされる。方形池跡は高句麗の山城遺跡などに例があり、同町教委は「当時の先端技術を駆使して造られた町並み。東漢氏の故郷、朝鮮半島の風景を見るようだ」と話している。

池跡は縦4メートル、横5メートル、深さ0・4メートル。石組みの方形池としては国内最古で、池底や側壁に直径5-30センチの石を張り付けてあった。現在も近くで水がわき出しており、水を引き込むための溝跡(幅1メートル、長さ3メートル以上)も発掘された。







渡来系氏族が“異人街”?…奈良に半島特有の方形池 (読売新聞) - goo ニュース



渡来系氏族が“異人街”?…奈良に半島特有の方形池
2005年 9月15日 (木) 00:52


 奈良県高取町の観覚寺(かんがくじ)遺跡(5世紀後半~6世紀)で、朝鮮半島特有の形状の方形池跡(東西約5メートル、南北約4メートル)が見つかり、町教委が14日、発表した。
 同遺跡ではこれまでも同半島から伝わった床暖房のオンドルや大壁建物が出土。

 一帯に住んだ渡来系氏族・東漢氏(やまとのあやうじ)の本拠地の可能性が高く、当時の先進的な土木技術を凝縮した“異人街”を形成していたとみられる。国内で出土した方形池としては最古。

 方形池は深さ約40センチ。外縁と池底に10~30センチ大の石を敷き詰め、南西側の谷筋から水を引き込み、北東側であふれた水を排出する構造。

 四隅が丸みを帯びた特徴や石敷きなどの技法が高句麗の山城跡(5世紀)などの方形池と似ているという。

 用途は生活用水をくみ上げた可能性は高いが、池のほとりにあった高床式建物に付属した観賞用の苑池(えんち)とする見方もある。








7世紀末-8世紀初めの天皇家やそのまわりの豪族の古墳は朝顔型になり石室はなくなる。ついでに火葬が始まるのもこの頃。高松塚古墳は以前から円墳であろうと言われており、また壁画を持つ石室があることから渡来人の古墳であることが疑われていた。これはキトラ古墳も同じ。

高松塚は直径23mの円墳 13世紀ごろ墳丘削り畑作 (共同通信) - goo ニュース←リンク切れ

高松塚古墳は直径23mの円墳、カビの原因特定できず - 読売新聞 ニュース←リンク切れ


◆◆ 写真はキトラ古墳



その壁画も画題は大陸風であることは良く知られているが、絵の筆致は大和絵なのだ。画題が同じシナ東北部や高句麗などの壁画と比べればはっきりする。

つまり壁画を描いた絵師は日本人で、一生懸命に注文にあうよう頑張って描いたが和風のは残ってしまった。そして流行りもしない古風な(笑)石室である。

埋葬されたのは誰か?

そりゃよっぽど大陸趣味のお金持ちか、じゃあなきゃやはり渡来人でしょう。

高松塚の推定築造年代と時代背景からみて、百済の王族の末裔あたりが妥当かな・・・と、ずっと思っていたのだが、高句麗からの移民ってのもありだな、と今回の発掘記事を読んで思った。

墓は故郷の様式に・・・が遺言だったんだろうw







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