今夜も一杯! 昭和浪漫

日常生活の中で温故知新に焦点をあてて書いてます。

昔、笑いの宝庫の単行本を出版した頃の記憶

2023年05月24日 19時30分11秒 | タウンマネジメント
昔出版した ストレス解消!笑いの宝庫の12ページ目のギャグ。今日から毎日1ページペースで掲載しても秋までは大丈夫。極端に言えば今年一杯連載しても大丈夫な位のギャグを作成した。 この本の出版記念パーティは渋谷の南平台にあった三木元総理の家をお借りして行った。まだ奥さんの睦子さんもご健在で、色々お世話になった。2階には三木元総理の遺品を陳列していたのが懐かしい。パーティはケータリングで帝国ホテルからシェフが来てくれて料理を出してもらった。来賓の中には映画監督や大学教授も来てくれた。すぐ近くには麻生太郎氏の自宅もあった。

定期検査終了

2023年05月22日 13時02分24秒 | タウンマネジメント
先週末は定期的な検査でした。
2カ月に一度の血液検査では検査項目が40項目近くあるので採血管で5~6本分を採血する。

しかし昨日の採血担当者の胸には見習いの名札を付けた、まだ二十歳過ぎの若い女性看護師さん。最初に彼女の口から出た言葉は、“すみません、私は採血の見習い生ですが、もし見習い生の採血が嫌でしたら、言ってください”と小さな声で話してくれた。もしイヤなら私の横にいるベテランが行いますので”という神妙な言葉。

彼女の横には、先輩の看護師が2名ついていたが、自分からどんな返事がでるのか神妙な顔つきで返事を待っている。自分が言った言葉は、

”見習いのあなたで大丈夫ですよ。プロ野球の凄いバッターでも4割打者はいないので、2回失敗しても3回目成功すれば3割3分の確率だし、4回目で成功しても2割5分で、全然問題ないから安心して採血にトライしてください”間違って刺し間違えても痛みは全然気にしないタイプですから。成功するまで何度でもやって下さい”

この言葉を聞いて、若い看護師さんより横にいる二人の先輩看護師のホッとした顔で”ありがとう、ございます”という発言が印象的だった。いつものベテラン看護師さんより採血が上手かったと思う。

紀彦兄貴と

2023年05月22日 12時55分35秒 | タウンマネジメント
(続き希望の方の要望に応えて続報です)
フィリピンから帰国した紀彦兄貴と会った。しばらくぶりだったので、兄が経営するフィリピンの会社の会社(Maeno Giken inc)の位置をGoogle earthで確認。カビテ工業団地の一角だが、スケールで図ると敷地面積が幅50m、奥行きが230m。個人の会社にしては、やっぱり大きい。

1985年頃の米国で会った有名人

2023年05月05日 08時42分54秒 | タウンマネジメント
久しぶりに思い出した米国のロックミュージシャンのエドワード・ヴァン・ヘイレン。最初の出会いが米国西海岸の田舎町の飲み屋さん。場所はカリフォルニア州のパーム・スプリングスで、ロスから車で3時間程度なので米国の俳優や有名人の多くは、自宅はビバリーヒルズに所有して、避寒地として同じカリフォルニア州のパームスプリングに別荘を持つのが一般的。当時の自分は再生可能エネルギーの風力発電の開発をこの地で担当していた。

また、避寒地(砂漠)なので冬場でも暖かい。日本のプロゴルファー(レストランで岡本綾子さんにも何度も遭遇した)も米国ツアーが始まるまでこの町でトレーニングしていた。

ミュージシャンの彼との最初の出会いでは相手が何者か全く知らないし、マネージャーと3人の美人モデルを連れて、飲みに来ていた。こちらも同じ会社のメンバー3名で飲んでいたが、いつのまにか一緒のテーブルで盛り上がり、彼がすぐ近くの自宅(車で数分程度)に一緒に行こうと誘ってくれたので、車2台で彼の別荘を訪問した。
彼のマネージャーもよほどいい気分だったのに、こちらの3名が全く相手の事を知らないのが気に入らないのか、記念に彼が大事にしているギターを上げると言い出した。ギターにサインまでして何度も勧めてくれたが写真のようなサイケデリックなデザインのギターは好きではなかったので丁寧にお断りした。

後で知ったが、かれは7つ年下で、当時は29歳だったという事になる。全世界で8,000万枚以上のアルバムセールスを記録した。あの時のギターを素直に貰っておけばよかった。同じデザインのものが先日の米国の入札で落札されたが金額が5億円...。

日本最初のパソコンを設計製作した時

2023年05月05日 08時35分47秒 | タウンマネジメント
ゴールデンウィーク中だが、昨夜は本棚や机のまわりの古い雑誌やメモを断捨離しはじめた。なんと自分が26歳、つまり49年前(1974年)のノートメモが出てきた。
メモ内容を要約すると
1974年に米国のインテル社が4004というCPUのテストサンプルを日本に出荷した。当時は、トランジスタからICに変わりつつある時代で、周辺回路を設計するには英語が読めないと、CPU周辺に使用するICを販売していたテキサスインストルメント社やフェアチャイルド社の設計資料が役に立たない。

開発チ-ムの上司二人M氏、W氏と自分の3人の中で、自分は英語が得意だったので翻訳しCPU4004のタイミングチャ-トだけから手分けをして回路設計をした。
最初のサンプルが到着して、手作りのプリント基盤の上にマウントして、動いた時は、3人で大騒ぎ。あの時は日本良い頭の良い集団だったと今でも思う。

日本で初めて1ボ-トCPUが出来た時で、CPU回路周辺の記憶装置もまだスタチックの256ビット、今では考えられない極小のメモリーを莫大な数を並べるしかなかった。

プログラムと言ってもONOFFスイッチを並べ、条件を作り1個ずつ命令語を記憶させるに、3人で徹夜の連続。しかし記憶装置の技術進歩は凄い勢いで短期間に1024ビットサイズ(1メガ)にグレードアップが始まり、毎月のように記憶容量が拡大して行った。その後は喫茶店向けの卓上ゲーム機にも手を出して爆売れだったが、本業とは違うという会社方針に従い3年で辞めてしまった。その2年後の78年には「スペースインベーダー」ゲームが、全国的に大ヒット。その後もゲームソフトだけは興味があり、ファミコンが出てきても、趣味で日本や米国のソフト解読をしていた時代もある。

横浜

2023年05月04日 12時53分31秒 | タウンマネジメント
昨日は横浜の山下公園で開催されている横浜開港記念みなと祭の見学をしてきた。天気は良いし、あまりの人出の多さにビックリ。やはり横浜は東京より都会だと思う。今週の日曜日5月7日は、3年前のコロナ患者発生の最初で有名になったダイヤモンドプリンセス号が、この写真の後ろに見える位置に接岸する。