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A Running Stone Gather no moss

タイトル変えました。iSaonのブログです。

炭鉱で172人が生き埋め

2007-08-22 15:42:10 | ごあいさつ
おかげさまで、最近、アクセス数がうなぎのぼりです。ですので、調子こいて、今週3回目の投稿とあいなりました。

今、中国の炭鉱で大規模な水害事故が発生して、172人が生き埋め状態になっています。

中国炭鉱浸水事故、情報を求める親族が警備関係者と衝突(AFP)

しかも、炭鉱会社側は、事故から4日たっても、記者会見も開かず、救助隊も、本腰を入れて救助活動を行っていないため、被害者家族が暴徒と化しているようなのです。

知ってました?

朝日新聞では、18日付けの記事で報道はしているのですが、これがまた実にあっさりとした記事で、事の重大さがまったく伝わらない。しかも続報なし。

大雨で炭鉱に浸水、171人が行方不明 中国・山東省(asahi.com)

しかもこの記事では、中国政府の発表資料をそのまま写しているとしか思えない記述が目立つ:

『事故当時、756人が坑内にいたが、585人が救出された』
救助された人の数より、閉じ込められている人の数のほうが大事だろう。

『対策本部は、別の事故の発生を防ぐため、周辺の炭鉱の経営者に対し、作業を停止させて作業員を避難させるように指示した。』
当たり前だろう、んなことは。他に書くことあるだろうよ。

この記事からは、炭鉱会社側の落ち度や、なぜ救助活動が難航しているのか、といったことは読み取れない。まったくのお手盛り記事。

北海道のしょぼい会社がコロッケの肉をごまかしただけであんなに大騒ぎしたのに、どういうセンスだ。

ちなみにCNNでは結構、大きく報道している。

いまどき炭鉱事故?って思うかもしれないけど、中国はいまだに一次エネルギーの70%を石炭に依存していて、石炭は中国のエネルギーの生命線だったりします。

しかし、炭鉱の安全対策は著しく立ち遅れていて、約三割の炭鉱が基本的な安全対策さえ施されていない状態。
この炭鉱も、近くの堤防が決壊して、その水が炭鉱に流入したために生き埋めになっちゃったんだけど、こういう事故の可能性は以前から指摘されていたし、実際に似たような事件が起きているんだけど、炭鉱会社側は、なーんにもしてこなっかた。

なーんもしなくても、地方政府とがっちり癒着しているから、オッケーらしい。

以前の事故でも、被害者が暴徒化し、炭鉱の前でピケをはったんだけど、炭鉱会社側は、武装グループを雇って、被害者を襲撃(!)、強行に操業を再開したという。

さすが中国、スケールが違うよ、なんにしても。

ちょくちょく起きているからいいのか?中国って日本にとって最大の貿易国でしょ。もうちょっと心配してあげようよ。

那覇空港の中華航空炎上もびっくりしたけど、怪我人いなかったじゃん、ちょっとプライオリティ譲ってあげてもいいでしょうに。

そういえば、先月、フランスのサルコジ大統領がリビアで不当に死刑判決を受け、拘留されていたブルガリア人たちを連れ戻した、というニュースがあったけど、これも国内ではあまりぱっとしなかった。

ボランティアとしてリビアで医療活動にあたっていた医師団を「意図的にHIVに感染させた」というかどで逮捕して、死刑判決だして、5年にもわたって拘留していたという、誰がどう考えてもひどい事件だけど、日本人で知っている人は少なかったはず。僕も知らなんだ。

しかも、解放時には、何かと噂の、あの奥さんが、単身リビアに乗り込んで、被害者を連れ戻してきたんでしょ。ワイドショー的にも絵になるじゃん。

こういうことを一切無視して、北朝鮮の拉致問題ばかり騒いでも、あまり親身になってもらえないと思うんだけど。

全国紙をはじめ、日本の大手マスコミは、役所や企業からながされるネタをそのまま流しているだけだから、図体のわりに取材能力は貧弱。だから、発表資料の乏しい事件はあまり深追いしないんだろうね。

まずいよ。それって。


ユーミン世代

2007-08-16 16:34:43 | ごあいさつ
最近、キリンラガービールのCMがユーミンになりました。『卒業写真』。本人もさることながら、僕としては、ギターの鈴木茂がかっこよくてたまりません。

ユーミン世代というと、どのくらいのレンジを指すのでしょうね。シングル『あの日に帰りたい』が発売されたのが1975年。1994年の『Hello Good-bye』くらいまでを全盛期とすると、だいたい、現在25歳から60歳くらいまでの人たちが広い意味のユーミン世代と言えるかもしれない。広いね。日本の就労世代とほぼ一緒じゃん。

ただ、僕のイメージでは、もう少し絞って、現在30代半ばから、50代前半までかな。ユーミンが太陽なら、この世代は、かなり強めに直射日光を浴びて『ユーミン焼け』がきつかった世代。上の年齢層は、シミになってたりする。

僕らがハイティーンを過ごした80年代は、まさにユーミンの絶頂期で、この頃のユーミンは、単なる音楽ではなく、思想であり、文学であり、宗教であったと思う。

『戦争も学生運動も知らない子供達』だった僕らは、バブルがはじける何年か前に、社会に出ていたから、大半は、生命の危険も、経済的な苦境もあまり経験せずに、恋愛と友情を最上の価値観として、人生の中でも最も『やわい』時期をのほほんとすごしたわけです。

そんな僕たちに『中産階級の手に届く夢』(出典:Wikipedia)を歌った、ユーミンは、まさに教祖であり、たくさんの、そこそこ悩める少年少女達を、救済し、開放し、そして堕落させていきました。

どんなに話が弾まない相手でも、ユーミンの唄で何が好き?という話題だけで、一時間くらいは間を持たせることができたもんだ。

『よそゆき顔で』や『Destiny』が好きだと聞けば、好感を持ち、『春よ来い』や『真夏の夜の夢』で引いた。

こうなると、音楽を超えて、共通の言語だね。

彼女は、荒井由実としてデビューし、後に、松任谷由実に改名する。これを単なる、婚姻による、苗字の変更とみるのは、赤坂見附、溜池山王な見方であろう(あさはかな見方であろう)。

結婚前、つまり、荒井由実の時代は、主に細野晴臣がアレンジを手がけ、事実上、プロデューサの役割を果たしてきた。

しかし、結婚の少し前、『14番目の月』から、正式に松任谷正隆がプロデューサーになり、以降、ほとんどの作品で彼がアレンジを担当してる。

つまり『松任谷由実』とは、個人名ではなく、『松任谷正隆&由実』というユニット名の略称であり、『Emerson, Lake & Palmer』を『EL&P』と呼ぶのに近く、平たく言えば、『宮川大助・花子』なわけです。

いや、何が言いたいかって、それだけプロデューサというのは大事だってことよ。

僕は、唄というのは、心象風景の切り取りであってほしいと思う。よく唄で、社会に訴えるとか、メッセージを伝えるとか言うけど、本当に伝えたいことがあるのなら、小説とか映画とか、他のフォーマットを選択すべきだろう。

心象風景の切り取り、という点では、松任谷由実の右に出るものはいない(ちなみに、紙を切り取るなら、林家正楽の右にでる芸人はいない。ま、かっこ書きにしてまで書くことではないが)。

『セミ』を弾劾する

2007-08-07 13:12:23 | ごあいさつ
『こんにちわ』の代わりに『暑いですね』が挨拶になっているこの数日間。僕は、いわゆる天気の話題で場をつなぐ、というのがとても苦手な人間なんですが、こう暑いと、すっと出てきますね。ちょっと大人になった気分です(十分、大人だって)。

夏と言えば、セミ。毎日うるさく鳴いてるでしょ。で、ふと思ったんだけど、みんなセミに寛大すぎないか?

まず、あいつらはうるさい!セミ一匹の鳴き声は、80ホーンを超え、環七あたりの騒音に匹敵すると言います。たまに、家の壁や網戸に取り付いて鳴いていたりすると、本当にうるさい。

しかも、よくよく考えてみれば、あの鳴き声は、オスがメスに交尾を呼びかけている声なので、人間で言えば、

「やらせろー、おーい、やらせろー」
とか
「あー、辛抱たまらん、ホテルいこ、ホテル」

とか叫んでいるんだよね。そう考えると、ハラがたつ。ひと様の家にしがみついて「やらせろ」はないだろう、『夏の風物詩』なんて、悠長なことは言ってる場合じゃないんです。

しかも、あいつら、裸だ。いや、セミヌードか、どっちでもいい。

それに、やつら、飛び立つときにはションベンひっかけたりして、まー、なんたる狼藉。

よくマンションの廊下とかに、セミが倒れていて、死んでるのかなと思っいながら横を歩くと、突然、暴れだし、大声出して飛んでいくでしょ。あれ、びっくりするよね。夏だからよいものの、冬だったら、きっと心臓発作を起こすぞ。

つまり、やつらは、うるさく、スケベで、ションベンたれで、臆病者なわけで、こんなやつをのさばらせておいていいのか。

でも、こういうことを言うと、

「セミは2週間しか生きられないんだから、かわいそう」

なんてことを言う人がでてくる。いいかい、ようく、お聞き。

セミって、成虫になるまで7年とかかかるわけでしょ。それって虫としてはかなり長寿の部類だ。ショウジョウバエなんか、二カ月だぞ。

しかも、この2週間は、純粋に交尾のための2週間なわけで、脳天気極まりない。ナンパのために2週間の休暇をくれる会社は、そうはないでしょ。

まあ、それでもいいさ、所詮、セミの人生なんだから。でもさ、人の生活に迷惑をかけるのはやめていただきたい。

メスもメスだ。他に選び方がないのか。あんた達が変に煽るから、オスが必死こいて、大声あげるんだ。もっと他の評価基準があるでしょ。経済力とか、包容力とかさ。もっと頭を使いなさい。

頭を使うと言えば、セミには『素数』がわかるらしい。

どういうことかと言うと、北米大陸には、13年周期と17年周期で大発生するセミがいます。なぜ、このような周期になったかというと、このセミの大敵である寄生虫がやはり、何年かおきに大発生するらしく、大発生の周期が重ならないように、自身以外に公約数のない『素数』の周期になっているそうです。

そういえば、日本のセミも、地中で過ごす期間が7年で、やはり素数。ね、頭いいでしょ。やれば出来る子なんですよ、彼らは。
そんな彼らが、大声で卑猥な叫び声あげたり、人様にションベンひっかけているから怒るんです、僕は。

表現者の覚悟

2007-07-24 15:39:35 | ごあいさつ
これから、自分が書こうとしていることが、果たしてどれだけ伝わるのか、若干不安ではあるんですが、とりあえず、書き始めてみます。

結論から言うと、

「すべての表現は、不可避的に誰かを傷つけてしまう」

ということ。だから、表現者には、それなりの覚悟が必要だと言うことです。

僕は、ずっと前、建設業界の業界紙で記者をやっていたことがあります。そのときは、自分の書いた記事のおかげで、取材先から出入り禁止になったり、や○ざの方々が会社に怒鳴り込んできたりして、とても怖い思いをしたことがあります。

もちろん、どちらの場合も悪気があったわけではなく、ただ、自分が見聞きした事実や、自分の考えを文章にしただけです。でも、人は、ウソをつかれたときにだけ怒るのではなく、時として、真実を伝えたときのほうがより激しく憤ることもあります。
そして、えてして、真実を伝えて怒られたときのほうが、事後の対応が、やっかいだったりします。

もちろん、ここでいう真実とは、僕の主観からみた真実であって、『本当の真実』(CopyRight by 佐野ライオン元春)ではないかもしれません。

つまり、真実かどうか、傷つける意図があるかどうかに関わらず、人は、誰かの表現
によって、傷ついてしまうものなのです。
時間は流れて、一瞬たりとも、止まることがありません。かつて、あの矢沢永吉氏も『時間よ止まれ』と訴えたことがありましたが、叶いませんでした。やっぱ、相当難しいんです。

映像であれ、文章であれ、音楽であれ、すべての表現行為は、ある一定の時間を切り取る行為に他なりません。そのときに起きた事柄や、感情をいろいろなフォーマットで再現することが『表現』なのです。

時の流れが、神のなせるワザであれば、その一瞬を切り取ることは、神への挑戦であると言えるでしょう。いや、単なる挑戦ももっと大胆不敵な行為だから、『北挑戦』といってもよいかもしれません(ほら、こういうこと書くから、長くなる)。

人は、文字を発明したあともしばらく、偉い人の名前を文字として残すのを禁忌としていました。これまで、仁徳天皇のお墓とされていた大山古墳が、実は、違う人の墓らしい、と言われるようになったのは、人の名前が残されていなかったからです。古代の人は、言葉や文字によって、何事かを『表現』することに対して畏れを感じていたのかも知れません。写真を撮られると魂が抜かれる、という迷信も同じ流れでしょう。

最近、掲示板や『プロフ』でのトラブルが多く、それによって、いじめが起きたり、自殺につながったりしているようです。実際のところ、うちの子供も、トラブルに巻き込まれそうになりました。

トラブルの背景には、いろいろなものがあるので、一概には言えません。犯罪行為は別として、誰がどういう書き込みをしたとか、誰かの悪口を言ったとかいう、やり取り上のトラブルは、僕は基本的に、書き込む人や、それを読んだ人に『覚悟』が足りなかった部分があるのではないかと思う。

表現は、人を傷つけるし、表現によって傷つくことを、表現者がとめることはできません。

もちろん、誰かの気に障るような表現や話題を極力さけて、トラブルを未然に防ぐことは可能かもしれません。しかし、誰も傷つけない表現は、表現としての力をなくしてしまうことも事実です。

僕は、表現行為というものは、人間にとって、とても崇高で大切な行為だと思います。だから、唄も歌いますし、こうしてブログも書きます。

ブログを書いているときは、「こんなこと書いて、ドン引きされないだろうか」とか、「こんな書き方したら、誤解されないだろうか」と常にビクビクしています。書き上げてはみたものの、公開する勇気がなくて、そのままお蔵入りになった記事も、一本や二本じゃありません(三本です。正確には)。

言葉がない時代から、文字、印刷、ラジオ、テレビとさまざまな表現手法が生み出されるにつれ、表現のフォーマットが増え、それよって、引き起こされるトラブルの種類と数も飛躍的に増えてきました。

偉い人の名前を残さぬようにした人も、子供にネットを見せるな、と騒ぐ人も、意識するとしないとに関わらず、表現することの本質に潜む怖さを感じているからだと思います。

僕は、子供達には、いたずらに怖がるのでなく、リスクを正しく把握したうえで、表現する力と技術を身につけて欲しいと思っています。それって結構、重要な能力だと思うから。

『Impossible is nothing』

2007-07-06 15:04:02 | ごあいさつ
以前勤めていた会社で、教えてもらったことなのですが、ふと思い出したので、自分へのメモのつもりで書き残しておきます。

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人から、物を頼まれたとき、もしくは相談されたときには、基本的に『Yes』で応えるべきだ。

世の中には、無条件の『No』なんて、ほとんど存在しない。同様に、無条件の『Yes』も存在しない。ほとんどの場合、『Yes』にも『No』にも、何かしらの条件がつく。

条件の多い『Yes』は、限りなく『No』に近く。条件の多い『NO』は、ほとんど『Yes』だ思ってよい。つまり、どっちで応えても、実態としては大差がない。

実態としては大差がないけど、印象は大きく違う。頼んだ仕事を断られて、いい気持ちのする人間はいない。その人との関係を悪くしたくないのであれば、条件つきで『No』というより、条件付きで『Yes』というべきだ。

こんなことは、わざわざ言われるまでもないことかも知れない。意識しているかどうかに関わらず、みんな、好きな人には、条件付きの『Yes』で応えている。

では、『Yes/No』を『可能/不可能』に置き換えて考えてみよう。そう、すべてのことは『条件付きで可能』であり、不可能なことなんてなくなる。(素晴らしい!)

つまり、『Yes』と応えることは、不可能を可能にする条件を探すことであり、逆に『No』と応えるのは、可能性をしらみつぶしに潰していく作業に他ならない。

ポジティブシンキングとは、ネガティブな事柄に目をつむることではない。物事すべて『Yes』で考えていくクセをつけていくことだ。

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忘れないようにしようっと。