フルマラソンは本当に苦しい。今日はうまく走れたな、と思えるレースでも、35km過ぎでは七転八倒の苦しみを味わっている。
ときおり行うスピード練習もとても苦しい。1km程度の距離を全速力に近いスピードで走り、300mほど歩いて、また全速力、を数セット繰り返す。目が開けられず、酸欠状態になり、心臓が口から飛び出そうになり、意識が朦朧としてくる。
一言で言えば「死にそうにツライ」。けど、別に本当に死ぬわけではない(もちろん)。でもこれだけツライ思いをしても生きているということは、本当に死ぬときの苦しみは、それはもう相当なものなのだろうなと思い、ぞっとする。
とてもそんな苦しみに耐える自信は僕にはない。ま、耐えてたら死なないのか。
生と死はコインの裏表のように切り離せないものだから、これまで一人の例外もなく、この世に生まれてきた人はいつかは亡くなる。だからそうそう怖がっていてもしょうがないのだけれど、そういう苦しみがいつか自分にも訪れるんだな、と思うと、誰かに大きな借金をしているようないたたまれない気持ちになる。
実は結構前から思っていたのだけれど、なぜ人は、死ぬ直前のギリギリまで生きようとするのだろうか。病には勝てるかもしれないけれど、寿命には勝てない。僕が100m走でボルトに勝つ確率は、限りなく低いけれどゼロではない。でも、寿命には絶対に勝てない。少なくとも現時点では。
ならば、せめて苦しまずにあの世に旅立ちたいと思うけど、その分野の話題は驚くほど少ない。みんな、借金繰り延べの算段はするけど、借金の完済についてはあまり考えてない。できの悪い小学生の夏休みみたいだ。
別に深刻な悩みがあるわけではないけれど、夜眠りについて、そのまま目覚めなければいいのにな、と思うことがある。
そう、僕は、自分という存在がこの世の中から消えてしまうことよりも、その間際の苦しみのほうがはるかに怖い。
その苦しみを味わうことなく死ねるのなら、数年ほど寿命が縮まっても構わないと思う。
しかし、このような僕の考えを理解してくれる人は(意外に)少なく、仲良くなった人達に話してもみても、たいがい呆れた顔をされておしまいだ。
もしかしたら、みんな自分だけは死なないとでも思っているのだろうか。
僕の理想としては、南の島のコテージで、素敵な食事と美味しいワインをしこたま飲んで、ソファでうたた寝してそのまま永眠、なんてのがいいな。二日酔いの心配もないし。
ただ問題なのは、そんな素敵な死に方を家族が許してはくれないだろうということ。だって、仮にうちの奥さんがそんなことを言い出したら、僕は絶対反対するもの。
配偶者が先に死んだら、葬儀屋らなにやら面倒なことが多いし。公平とは言えないにしても、これまで分け合ってきたいろいろな生活上の負担を一人で担わなくてはいけない。
天寿をまっとうして、ということなら我慢もできるが、自分一人だけ苦しみもせず、あの世に旅立つなんて身勝手すぎる。
そんなことしたら、殺してやる(あれ?)。
かと言って、一緒に死のうと言っても、彼女は絶対同意しないし、今度は子供達や周りが放っておかないだろう。
苦しまないで死ぬために苦しまなくてはいけないなんて、なんて生きずらい世の中なんだろう。
ときおり行うスピード練習もとても苦しい。1km程度の距離を全速力に近いスピードで走り、300mほど歩いて、また全速力、を数セット繰り返す。目が開けられず、酸欠状態になり、心臓が口から飛び出そうになり、意識が朦朧としてくる。
一言で言えば「死にそうにツライ」。けど、別に本当に死ぬわけではない(もちろん)。でもこれだけツライ思いをしても生きているということは、本当に死ぬときの苦しみは、それはもう相当なものなのだろうなと思い、ぞっとする。
とてもそんな苦しみに耐える自信は僕にはない。ま、耐えてたら死なないのか。
生と死はコインの裏表のように切り離せないものだから、これまで一人の例外もなく、この世に生まれてきた人はいつかは亡くなる。だからそうそう怖がっていてもしょうがないのだけれど、そういう苦しみがいつか自分にも訪れるんだな、と思うと、誰かに大きな借金をしているようないたたまれない気持ちになる。
実は結構前から思っていたのだけれど、なぜ人は、死ぬ直前のギリギリまで生きようとするのだろうか。病には勝てるかもしれないけれど、寿命には勝てない。僕が100m走でボルトに勝つ確率は、限りなく低いけれどゼロではない。でも、寿命には絶対に勝てない。少なくとも現時点では。
ならば、せめて苦しまずにあの世に旅立ちたいと思うけど、その分野の話題は驚くほど少ない。みんな、借金繰り延べの算段はするけど、借金の完済についてはあまり考えてない。できの悪い小学生の夏休みみたいだ。
別に深刻な悩みがあるわけではないけれど、夜眠りについて、そのまま目覚めなければいいのにな、と思うことがある。
そう、僕は、自分という存在がこの世の中から消えてしまうことよりも、その間際の苦しみのほうがはるかに怖い。
その苦しみを味わうことなく死ねるのなら、数年ほど寿命が縮まっても構わないと思う。
しかし、このような僕の考えを理解してくれる人は(意外に)少なく、仲良くなった人達に話してもみても、たいがい呆れた顔をされておしまいだ。
もしかしたら、みんな自分だけは死なないとでも思っているのだろうか。
僕の理想としては、南の島のコテージで、素敵な食事と美味しいワインをしこたま飲んで、ソファでうたた寝してそのまま永眠、なんてのがいいな。二日酔いの心配もないし。
ただ問題なのは、そんな素敵な死に方を家族が許してはくれないだろうということ。だって、仮にうちの奥さんがそんなことを言い出したら、僕は絶対反対するもの。
配偶者が先に死んだら、葬儀屋らなにやら面倒なことが多いし。公平とは言えないにしても、これまで分け合ってきたいろいろな生活上の負担を一人で担わなくてはいけない。
天寿をまっとうして、ということなら我慢もできるが、自分一人だけ苦しみもせず、あの世に旅立つなんて身勝手すぎる。
そんなことしたら、殺してやる(あれ?)。
かと言って、一緒に死のうと言っても、彼女は絶対同意しないし、今度は子供達や周りが放っておかないだろう。
苦しまないで死ぬために苦しまなくてはいけないなんて、なんて生きずらい世の中なんだろう。
iSaonは知らないと思うけど、身体に重い障害があったんだ。
この叔父と、3ヶ月間暮らしてた(それ以前は、なんと自立して、5年間一人暮らししてたんだよ?)んだけど、体調を崩して実家に戻ってたんだ。
それが7月に突然。
朝起きたら亡くなっててさ。
「あの人らしいな」って、思った。
いろいろと好きなことやって、それでも満足いかなくて。
それで、誰にも気付かれることなく逝ってしまった。
そう…死に際は、出来れば静かに、眠るように死ぬのが良い。
まわりも一時混乱はするけど…八方手を尽くしてさ、遺された人は満足するかもしれないけど、当人はただ、痛いだけの時間だもんな。
それを考えると良かったのかも、と思えるんだ。
でも…iSaon…俺らはまだまだ生きなきゃね?。
きっとさ「出し切らないと」幸せに逝けないんだよ。
まだまだ、出すもの、あるでしょ?。
人は、その人が生きているときよりも、亡くなってからの方が気になるというか、逆にリアルに感じてしまうことが多いような気がするね。
やっぱ、出し切らないとダメですかね。出す、というより漏れてるような毎日なのですが(苦笑)
だいぶ前に亡くなった父方のお婆さん。
仏壇の前でいつもブツブツとお唱え事。
耳を澄ませてよく聞くと「病まずに死ねますように…」って。
そのお婆さん、家の前の国道で横断中に車にはねられ即死でご臨終。85歳。
確かに病気もせず、苦しまないで逝ってしまったけれど、あまりにあっけなく、同居していた親族は心のやり場に困ったことでしょう。
自分も嫁さんには「1分1秒でも、自分より遅く逝ってね」と話してあります。
辛い想いはしたくないもんね。
コメントに気がつきませんで失礼しました。先日『終の信託』という映画をみて、苦しまずに死ぬ、いうのが、現代においてはなかなか難しいことだというのがよくわかりました。
家族もそうだけど、友人を見送るのもイヤなので、せいぜい長生きしてくださいね、お願いします