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A Running Stone Gather no moss

タイトル変えました。iSaonのブログです。

悦楽のボンゴレ・ロッソ

2011-12-21 18:17:41 | 食べ物だもの
アサリ料理は楽しい。

下ごしらえから、食べ終わるまで、それぞれのシーンにそれぞれの楽しみ方がある。作って終わり、食べて終わりじゃ決してない。

まずは、砂抜きから。アサリの砂抜き自体は、数時間で終わるので、夜食べるなら、午前中にアサリを買ってくれば間に合うけど、僕としては、ぜひ、前日から砂抜きに取り組むことをお勧めする。

買ってきたアサリをボールに入れて、アサリが隠れるか隠れないくらいの水を注ぎ、塩を入れて、片付けの終わった台所にでも置いておこう。

アサリは最初、全員が身を固くして寄り沿っている。しばらくすると、何匹(?)が恐る恐る水管を延ばして様子をうかがったりするけど、人気を感じると、すぐに引っ込めてしまう。

そう、奴らはまだ生きている。最近では、食材を生きたまま購入して持ち変えることは少なくなった。アサリ、ハマグリの二枚貝系以外では、皆無と言っていいだろう。

アサリの砂抜きは、料理の行程から見れば下ごしらえの一部だが、実際にやっていることは「飼育」以外の何物でもない。

アサリが水管を伸ばしてくれると嬉しい。ピュッって塩を吐いてくれるともっと嬉しい。心を開いてくれたんだな、と思う。

「ゆっくりしていきなさい」なんて、子供の友達を家に招いたような気分になる。

ところが、一夜明けて、ボールの中を覗き込むと、昨夜までの貞淑さはどこへやら、アサリ達は、水管と言わず、斧足と言わず、外套膜なんかも、こう、だらーっと出しちゃって、あられもない姿を晒している。

修学旅行で明け方、女子の部屋の扉を突然明けたら、きっとこんな感じなんだろうな。ていうか、床が水浸しじゃないか!

いいさ、楽しい飼育観察の時間はここまでだ。ここからは、苛烈なお仕置きが始まる。

アサリ料理にもいろいろなパターンがあるが、ここはひとつ、イタリアンで行きたい。イタリアンでアサリと言えばボンゴレ。それも、今日はトマトソースをふんだんに使った「ボンゴレ・ロッソ」に挑戦したい。

まず、アサリを洗って、フライパンに並べ、コンロに火を付ける。

この時点では、彼女達(なにか?)に目立った変化はない。フライパンが温まったら、白ワインを注いでみよう。

ジャーッ、ここですかさずフライパンにふたをして、20秒ほど蒸し焼きにする。

次に、ふたをとり、口の開いたアサリから順次ボールに取り出していく。

新鮮なアサリは、あっと言う間に口を開く。しかし中には強情なのもいて、半開きまではいくものの、そこから先がなかなか開かない。

誘ったら簡単に付いてきたくせに、ここにきて「あたし、そんな女じゃないからね!」なんて口走ったりする。

何を今さら、と思いながら、無言で火力を上げると、やがて観念したように、しぶしぶ足じゃない、殻を開く。ここまでの作業は何回やっても興奮してしまう。

殻が開いたアサリは、急いで取り出さないと、身が硬くなってしまう。殻が開いたアサリは、死んでるアサリであり、さっきの蒸し焼きが大虐殺だとすると、この取り出し作業は、遺体の回収にあたる。

広いフライパンに死屍累々。いったい誰がこんなひどいことを、と思うが、自分がやったんだから、何も言えない。

さて、すっかり遺体を回収したフライパンに、トマトソースを流し込む。

最初に言っておくべきだったが、トマトソースは前もって作っておくか、市販のものを用意しておこう。

ソースが温まったところで、アサリを戻し、ゆで上がったパスタを投入する。あとは、軽く混ぜて、皿に盛りつけて完成だ。

最後に、大葉を刻み振りかける。スィートバジルでもいいんだけど、僕的には、大葉のほうが好み。大葉は、葉の裏側に、香りのカプセルが付いているので、壊さぬよう、ハサミでざく切りにするのがいいらしい。「ためしてガッテン」で、そう言っていた。

ほら、皿の上には、トマトソースにまみれ、そしてパスタにまみれたアサリ達がいる。真っ赤なソースに白いパスタ。様々な意匠のアサリの殻。そして濡れぼそる身肉達。うーん、エロチック。料理界の杉本彩とはよく言ったものだ(誰が)。

ナルト巻き、そのやっかいな存在感

2011-04-05 16:53:23 | 食べ物だもの
鳴門巻きが嫌いな人は案外多い。

作家で映画監督の伊丹十三氏は「鳴門巻きそのもの自体が不愉快な食べ物で、法律で禁じるべきだ」とまで言っていたし、『男はつらいよ』の寅さんは『目が回る』といって、鳴門巻きを嫌った。

これら巨匠の引き合いに出すにはいささか気が引けるが、このブログでおなじみの、お~さわさんも鳴門巻きのことを、前回のエントリのコメントで『エラそうな顔して』と喝破し、『俺は認めん』とまで言い放っている。

付き合いが長いから僕はよく知っているが、彼は人の悪口を軽々しく口にするような男ではない。彼が悪く言うのは、せいぜい、あの人と、あの人と、あと、あの人と、あの辺りの人達くらいで、いたって温厚で誠実な人なのだ。

その彼をして(そして伊丹十三氏をして)鳴門巻きの何がそこまで嫌わせるのか、実に興味深い話ではある。

ナルト巻きの原料は、魚のすり身である。いくぶん、小麦粉や、でんぷんが含まれているにせよ、蒲鉾と材料、製法とも大きな差はない。

蒲鉾もナルト同様、汁ものの具として重宝される。しかし、これは蒲鉾の本業ではない。蒲鉾の本業は、単品で食されることであり『板わさ』なんていう立派な名前まで貰っている。

でも、考えてみれば『板わさ』という持って回ったネーミングが怪しい。『かまわさ』で何が悪い?板に山葵を付けるか?付けるわけがない、そもそも板なんて、食べる時には姿を消しているではないか。

板は、蒲鉾のシンボルであり、イロモノのナルト巻きとの一線を画す重要な壁となっているのである。

ただ唯一、宮城県地方では、蒲鉾が独自の進化を遂げ、板を外してしまった。さあ大変、蒲鉾業界は一時騒然としたが、形状を変えることと、色紅をつかわないことで一件落着した。

世間には、笹かまは笹の形をしているから『笹かま』と言うと思っているかもしれないが、蒲鉾側の見解では、板の代わりに笹を使って形状を安定させたから『笹かま』なのだ。
ナルトのように、すのこで巻いたんじゃないというのが、彼らの言い分だ(たぶんそうだ)。

蒲鉾の言い分はともあれ、刺身形式で食されることがない、というのはナルトの大きな弱点となっている。

ナルトのメインステージは、ラーメンだが、ここでもナルトは確固たる地位が保障されているわけではない。

馴染みの店で、ある日、チャーシューが一枚多く入っていたら、客は明らかにトクをした気分になる。

『俺に気があるんじゃねーか?』

などとアルバイトの女の子をじっと見つめたりもする。

しかし、ナルトが一枚余分に入っていても、トクをした気持ちにはなれない。客は、

『間違えやがったな』

としか思わない。

同じサービスするにしても、チャーシューは好意になり、ナルトは嫌がらせになる。不憫といえば、これほど不憫な食材も他にないだろう。

たとえば、東北地震の被災地に蒲鉾や、竹輪を届けたらきっと喜ばれるだろう。しかし、ナルト巻きだったら、どうか?

「これを、どうしろと?」と思うに違いない。

「きっとこれしかなかったんだろうね」と思われるに決まってる。

もう一度言うが、ナルトは製法も材料も、蒲鉾とほとんど変わらない。手づかみで齧れる利便性を考えれば、蒲鉾よりも被災地向けと言ってもよい。なのに、それを理解してくれる人は少ない。

ラーメンに浮かぶナルトは、味わうには薄すぎるし、歯ごたえもはっきりしない。こう言っちゃなんだが、デザインだって、パっとしない。

チャーシュー麺はもちろん、メンマラーメンも、ねぎらーめんだってある。でもナルトラーメンだけは寡聞にして聞いたことがない。

麺に、スープに、チャーシューに、とことんこだわるラーメン屋の店主も、ナルトにだけは寛大だ。

「そこにいてくれればいいから」、これが現在のナルトのポジションである。

ラーメン通を自認する有名人は星の数ほどいるが、ナルトが好きで好きでたまらない、という人にはあったことがない。

唯一、石原良純だけがカミングアウトしており、『なると大使』なる肩書をあたえられているらしいが、イメージアップにつながるどころか、『風評被害に近い』と溜息をつく関係者も多い(きっと)。

しかし、ナルトの存在を毛嫌いする人は多いが、ナルトを残す人は意外に少ない。クリームソーダのチェリーも、デザート業界のイロモノだが、こちらは残す人が多い。

また、注文時に『ナルト抜きで』という人も滅多にいない。邪魔だの、まずいの思いながらも、結局口にせざるを得ない、やっかいで不思議な食べ物なんである。

不真面目な料理

2011-03-29 14:29:56 | 食べ物だもの
ちくわの磯辺揚げって、不真面目な料理だと思う。

誰かが真剣に考えて考案したという痕跡か見当たらない。

練り物でありながら揚げ物!

屋上屋を重ねるというか、やらずもがな、というか、天ぷらの衣が余ったから、とりあえず揚げてみた、という出生の背景が透けて見えるようだ。

同じく『練り物でありながら揚げ物』派の食べ物として、アメリカンドック(一部ではフレンチドック)があるが、これは、極端に厚い衣をまとっている点、串に刺さっている点など、それなりに工夫と努力の跡が見える。

ちくわの場合、申し訳程度に青ノリを混入してお茶を濁し、その一点だけで名前まで『磯辺揚げ』と改称。こういう『やっつけ』の対応に、誠意というものが感じられない。

そもそも、揚げるのなら、最初っから揚げておけばいいのだ。さつま揚げとか、がんもどきとかは、そうしているじゃないか。

彼らは、一糸まとわぬ姿で、煮えたぎる油に投入されたんだぞ。青海苔混じりの衣に守られてるお前に、奴らの気持ちがわかるか?

百歩譲って衣は許すとしても、穴の問題はどうなる?ちくわは、練り物界の中で、唯一、中心部が空洞になっている食品である。

ちくわと言えば、穴、というくらい大事なシンボルのはず。穴のないちくわなんて、ポケットのないドラえもんのようなものだ。だいいち、穴がなかったら、ただの焼き蒲鉾だろうが。

しかし、大抵の場合、ちくわの磯辺揚げは、あらかじめ縦に切ってある。念のために言うと、揚げてから切ったのではない、揚げる前から、穴はなくなっていたのだ。

だからアレだ、これは名称偽装だ。だってそーでしょ、輪がないんだもん。本当は『ちくの磯辺揚げ』なんだよ、これは。

そのためか、ちゃんとした天麩羅屋で、ちくわの磯辺揚げを出す店はない。

本来、天麩羅とは、魚介類を揚げたもので、野菜の天麩羅は『精進揚げ』と言う。その意味では、サツマイモやカボチャよりも魚介類に近い、ちくわの磯辺揚げを出す店があってもよさそうなものだが、そうではない。

アスパラガスを揚げる名店はあっても、ちくわを揚げる名店はない。それだけ、ちくわの磯辺揚げは蔑まれているのが現状である。

ただ、困ったことに、この不真面目な食い物は、ウマい。特にノリ弁に横たわる、ちくわの磯辺揚げは、生真面目に生きるのがバカらしくなってしまうほどにウマい。

油の切り方も不真面目だから、下のノリがギラギラしている。しかし、そのギラギラしたノリのかかったご飯がまたウマい。

生醤油があう。天つゆには合わない。揚げたてもウマいが、冷めた磯辺揚げも、それはそれでウマい。

こういう、料理人の努力と工夫にまったく頓着しないところが、生真面目な料理人には許せないのだろう。

立ち食いソバ屋で、ドンブリからはみ出た、ちくわの磯辺揚げは、胸に迫るものがある。しかし、よく考えたら、一本のちくわを縦に半分にしてあるから、見た目ほど豪勢なものでは決してない。

こういうところも不真面目だ。

衣がはがれた、ちくわ本体には、揚げたことによる化学的変化は少ない。揚げる前から、すでに火は十分に通っているし、他のネタに比べて、油もそれほど沁みていない。

それでも、衣のはがれた磯辺揚げは、もはや磯辺揚げの体をなしてないのにも関わらず、磯辺揚げとしての存在感を失わない。もはや熱くもなく、油っけもないのに、かつて熱くて、油っけがあった味がきちんとする。

食い物としての地肩が強い。

料亭や、ちゃんとした和食で、ちくわの磯辺揚げが出されたら、客はどう思うだろう。「ふざけるな」と思うに違いあるまい。

でも、それに醤油をつけて、一口かじってみたら、どうだ?

そう、ご飯が欲しくなる。たまらなく。

甘いオカズは、嫌いですか?

2010-11-22 17:41:51 | 食べ物だもの
僕は以前から、甘いおかず、というのがどうにも好きになれなかった。
煮豆とか、甘い卵焼きとか、そうそう、味噌ピーナッツなんてのもあったっけ。

これらは、自らをオカズと称していながら、必要以上に甘く、塩っけも少ない。

本来、ご飯のオカズたるもの、それ単独でどれだけの白飯を食わせることができるかが勝負なわけで、そのオカズを頭に思い浮かべるだけで、白飯を求めて喉が鳴るようでなくてはいけない。

塩ジャケをみろ、明太子をみろ、真冬の朝のシャキシャキの白菜のおしんこのご尊顔を想像してみろ。

ほら、口中に唾が湧き、右手は箸を、左手は飯茶碗を求めて所在なさげに宙をさまよっているはずだ。

フジッコのお豆さんとか、味噌ピーとかで、ご飯を想像するか?手が宙をさまようか?

エンドウ豆の煮たので、僕はご飯3杯はいけます、なんて奴いるか?いたとしたら、そいつはきっと、白飯のまま3倍かっこめるはずだ。ただのいやしんぼに違いない。

塩ジャケや、明太子がバリバリの営業マンだとしたら、煮豆や味噌ピーは、力のない営業促進課の課長補佐心得、のようなものだ。

なんかこう、頼りなくて、いてもいなくてもどっちでもいいけど、できればいない方が嬉しいかなって感じのビミョーなピーポーだ。お荷物と呼んでもいいかもしれない。

でもさ、最近になって、そーゆー考えが、なんかちょっと変わってきたんだよね。

お弁当に入る卵焼きは、ちょっと甘めのやつが嬉しい。ハンバーグ弁当の片隅に、エンドウ豆の煮つけがちょこんと載っていても、それくらいで目くじらを立てるのもいかがなものかと思う。

そう言えば、横川の峠の釜めしに入っていた、栗を甘く煮たやつは、うまかったな。鶏肉や、山菜といったしょっぱいオカズの合間に少しずつ齧っても楽しいし、最後に残しておいて一口で食べるのも、ワクワクしたものだ。

あの黄色くて甘い栗は、日常と非日常を分けるシンボルのような役割を持っていたのかもしれない。

甘くて、白飯の伴にはならないけれど、華やかで、コケティッシュで、なんかホッとする。

あの栗が、たとえば、ほか弁のノリ弁当の真ん中に鎮座していても、有難みは少ない。

ノリ弁は、日常を生き抜くための栄養源だけど、峠の釜めしは、非日常を楽しむためのちょっとた小道具だからだ。

なるほど、塩ジャケ営業マンは、仕事ができるかも知れない。でも、仕事だけが人生か?白飯をかっこむことばかりに気を取られて、人生の大切な何かを見失っていないか?

だから、せめて旅行のときくらい、白飯のことは忘れて、のんびりしようや。というような気持ちをあの黄色くて甘い栗は語りかけているのだよ。

釜めしに限らず、駅弁には、甘いオカズがのっているものが多い。結果だけを追い求めない生き方を、彼らは提案しているのかもしれない。

あー、なんだかローカル線に乗って、どこかに行きたくなってきた。

秋の夜長の、鍋焼きうどん

2010-11-04 15:57:07 | 食べ物だもの
最近こそ、やや落ち着いた感がありますが、一時期、食品偽装にまつわる様々な事件が取りざたされました。

不二家、白い恋人達、赤福に、あのミートホープ。燎原に放たれた火のように、新聞・テレビは連日、食品をとそれをとりまく様々な欺瞞を白日のもとに晒し、我々に警鐘を鳴らし続けました。

しかし、一時期の熱はすでに冷め、我々の周囲は落ち着きを取り戻しています。

では、食品に関する偽装、詐称は本当に撲滅されたのでしょうか。いいえ、まだ大きな欺瞞が我々の生活のすぐ近くに潜んでいます。

『鍋焼きうどん』

焼いてないじゃん、ってハナシですよ!だって、そーでしょ、だって、そーだもん。

たとえば、すき焼きも、焼くのは最初だけで、あとは徹頭徹尾『煮て』います。でも、まがりなりにも、肉に焦げ目はつけているわけで、この一点をもって、すき焼きは偽装の非難から逃れることができます。

ひるがえって『鍋焼きうどん』。なぜ『焼き』にこだわるのでしょう。『どーして「煮る」ではダメなんでしょうか?』蓮舫議員ならずとも、そう問い質してみたくなるじゃありませんか。

鍋焼きうどんは、熱さを強調したかったんでしょうね。蒸す、煮る、焼く、と並べてみると、やっぱ、焼く、が一番熱そうだもん。

このうどんは熱いですよ、という一点を強調したいという、ほとばしるような情熱が、名称偽装へと走らせてしまったのでしょう。

今のところ、消費者庁も黙認する構えのようですから、ここはあえて事を荒げずに『鍋焼き』の名籍を認めてあげてください。

私の顔に麺じて、じゃない、免じて、どーかひとつ、ねっ。

思えば、鍋焼きうどんって、いじましい食べ物です。

うどん屋にある高級具材を総動員して、それでも、いまひとつ押しが足らないので、土鍋まで持ち出してきているわけです。そう、必死なんですよ、彼らも。

具として、最低限外せないのは、やはり天ぷら。うどんを土鍋に移して、海老天をちょこんと乗せれば、ほら、鍋焼きうどんの出来上がり。

そういえば、今気がついたけど『鍋焼きうどん』という名称の中に、具に対する言及は一切ないんだね。器と調理方法だけ、しかも、その調理方法は偽装が入ってるし。

それでも、人は、天ぷらのない鍋焼きうどんを鍋焼きうどんとは、呼ばないでしょう。なのに、その名称の中で、あえて天ぷらには触れない。美談である。

天ぷら以外では、やはり玉子。店によっては、ゆで玉子を載せているところもあるけど、あればいただけない。鍋焼きの玉子は、表面と白身の末端部分だけが白く固まっていて、黄身は半熟というより、未熟であってほしい。

食べ始めは、黄身を崩さぬよう、白身の淡白な味わいを楽しみ。残りの具材を十分に堪能したうえで、最後に麺を黄身に絡めて味わいたい。

黄身と汁の関係は、1:3くらいが理想的。これより汁が多いと、黄身のコク味が楽しめないし、逆に黄身が多いと、カルボナーラになってしまう(それはそれで楽しからずや)。

あとの具材は何でもいいけど、伊達巻はやめてほしいな。唐突でしょ、伊達巻。浮いてない?伊達巻。同じ浮かべるのなら、焼き麩のほうがいい。あ、あとカマボコは必須。

野菜もホウレンソウとか、ネギはうれしいけど、白菜や、舞茸なんかはやりすぎ。鍋焼きうどんというより『うどんすき』になってしまう。

鍋料理のようで、鍋料理じゃない。麺類というファストフードの最後の大物然としているところに、鍋焼きうどんの、鍋焼きうどんたる矜持があるからです。

鍋焼きうどんのもう一つの特徴は、煮ながら食べないこと。鍋料理なら、コンロで熱しながら、アツアツをフーフーするのが普通だけど、鍋焼きうどんは、そうではない。

一度、十分すぎるほどに煮立たせた後は、土鍋の余熱だけで、もたせる。

『ぐつぐつ』が、『ぐつ』に変わり、少しずつ冷めていくのを感じながら、食べ進めていこう。汁が冷めていく過程で、しっかりと麺に味が沁み込んでいく、その経過を楽しもう。

あらゆる汁物の中で、鍋焼きうどんの残り汁ほど、愛おしい汁はない

また、鍋焼きうどんは、出前として成立するギリギリのとろこにある。

アツアツもうまいけど、風邪気味の夜、布団をかぶりながらすする、少し冷め気味で、でも必要十分に熱い店屋物の『鍋焼きうどん』は、パブロンゴールド3日分以上の効き目はあると思う。

そういえば最近、インスタントの鍋焼きうどんを見かけない。

あのアルミ箔の鍋に入った、生めんタイプの、即席麺。鍋付きでありながら、実売価格で100円前後の破格値だった。

生めんなのに、常温保存という豪胆さ。具は、掻き揚げと乾燥ネギ、以上。

アルミ箔の鍋は熱効率がいいので、使い終わったあとでも、インスタントラーメンの調理などに重宝したっけ。

鍋を火にかけ、うどんを入れて、水と濃縮タイプのツユを入れる。煮立ってきたら、天ぷらやネギ、玉子を投入して、火が通るのを待つ。

ペコペコの鍋がシュウシュウ煮立ち、家中にアルミ箔が焦げた匂いが充満する。鍋のフチについたツユが、香ばしい香りを放つ。

その安っぽいけど、香ばしい香りに包まれて、はじめて僕は気付く。

あ!焼いてるじゃん、こいつ。