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A Running Stone Gather no moss

タイトル変えました。iSaonのブログです。

理念とリアル

2012-12-19 17:10:42 | 日々雑感
総選挙が終わり、自民党が圧倒的な勝利をおさめ、民主党が壊滅的な敗北を喫しました。ま、事前の予想どおりでしたね。

しかし、ここにきて、自民党の得票率は前回の総選挙に比べて、小選挙区で4%、比例では1%程度しか伸びてないことがわかり、必ずしも有権者は自民党を選んだのではなく、単に民主党に嫌気がさしただけであり、その嫌気がさした人達を第三極が拾うことができなかったのが、自民党の大勝の原因だと言われているようです。

たしかにそうかもしれません。でも、僕が注目しているのは、今回自民党で当選した人の多くは、小泉内閣の郵政解散で当選し、前回の選挙で落ちた人達が多い点です。

こういう人達って結構強いのですよ。最初に当選したときには、単なる勢いだったのが、その後の落選を経て、選挙区をみっちり回り、地盤を固めてきたからです。

次回の衆院選では、自民党の失策により、民主に風が吹くかもしれませんが、前回の選挙のように彼らが小選挙区で軒並み議席を落とすようなことは考えずらいと思います。

もしかしたら、民主党の失点がなくても、自民党は今回勝てたのかもしれない。政治は理念かもしれないけれど、選挙はリアル。近くにいて、自分達の田んぼに水を引っ張ってきてくれる人が強いのね。

民主党の落選議員の中では、解散のタイミングが悪かったとか恨み節を言う人も多いようだけど、そんなこと言う時点ですでに勝負は終わっていると思う。

良くも悪くも、民主党は政策に頼り過ぎたのだと思います。日本の選挙は政策では勝てない。

近年、経済はグローバル化が進み、国の政策では到底コントロールできない規模になっているので、どの国も打てる手は限られますし、日本の場合、官僚組織が強固なので、政治家がつけいる隙が少ない。

こんな状況ではどんな政策を語っても、ほとんどは嘘になってしまう。理念がある人に日本の政治家はつとまらないのです。

次回の選挙では、さすがに民主党も懲りて、大風呂敷を広げるようなことはなくなるでしょう。

でも、政治家から理念をとったら何が残るんだろ、と思うと暗い気持ちになりますね。

民主党と自民党の違い

2012-12-10 18:22:27 | 日々雑感
選挙ですね。今週の日曜日は国立競技場で駅伝を走るので、不在者投票に行こうかと思っています。

マスコミ各社の報道によると、どうやら自民党が圧勝しそうだとか。うーん、どうなんでしょうね。そんなんでいいのかな、と思ってしまいます。

前回選挙のマニフェストをことごとく裏切ったばかりか、マニフェストには影も形もなかった消費増税を成し遂げちゃったりしているのだから、そりゃ誰もが民主党に愛想をつかすのは当然だと思うけど、でも、自民党だって、前回の選挙から何も変わっていませんよ。

民主党への罰が自民党へのご褒美になってしまう状況がなんともやりきれない。

かと言って、第三極と言われる新党の皆さんもいまいちぴりっとしないというか、民主党の二の舞になるのは御免こうむりたい。となると、自民党が優位になるのはいたしかたないんでしょうかね。

実は僕は、密かに野田総理を評価しています。少なくとも、お腹が痛くて総理を辞めちゃった安部さんよりはずっとマシだと思っています。

だって辞めなかったもん。これまで5年間で6人の首相が交代したこの国で、消費増税案を通し、小沢一郎を追い出し、周囲の反対を押し切って衆議院の解散までやってのけたのだから、実行力はものすごい。

ていうか、次にどの党が政権についたとしても、短期で首相をとっかえひっかえするのはやめてほしい。

ヘマこいた大臣を辞めさせるのが野党の点稼ぎになるようなレベルの低い政治はもううんざり。

選挙が公示されているのに、失言した官房長官の罷免を求めるのってどういうことよ?

官僚支配の打破、とか言ってるけど、あれだけ大臣がコロコロ変わるのなら、よほど官僚がしっかりしていないと、この国はにっちもさっちもいかなくなる。

結局、官僚支配を担保しているのは、国会議員のクオリティなんだということが、この4年間で身に沁みました。

あと、野田さんの実績として評価されるべきなのは、小沢さんを追い出したことでしょうね。小沢さんはこれまでも何度の追い出されたり、勝手に飛び出したりしたけど、今回の選挙で彼の一派は激減するだろうし、年齢を考えると、彼が再び政治の表舞台に戻るのは難しいと思う。

小沢さんが退場すれば、これまで、綿々と続いてきた田中角栄的政治家の血脈がついに途絶えることになるので(田中真紀子は、角栄的政治家ではない)、それはそれでなかなか、意義深いことなんじゃないかと思うわけです。

4年前に比べると、今の民主党はかなりまっとうです。それに比べて、自民党の公約には危なっかしいものが多過ぎる。

普天間基地にしても、原発にしても、そもそもの原因は自民党にあるので、民主党はそれを何とかしようと思ってできなかっただけ。

やろうとして失敗した人達と、ハナからやろうとしていない人達を比べた場合、僕は前者のほう応援したげたい(by 松浦あや)。

結局、民主党も自民党もできることに大差はない。ただ、自民党は選挙がウマイだけ。

なぜ、村上春樹はノーベル賞を逃し続けるのか

2012-11-01 16:12:10 | 日々雑感
最近また、村上春樹作品を読み返してます。

まず『1Q84』を単行本で買い直し読破。その後『海辺のカフカ』、『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』を読み、現在は『ねじまき鳥クロニクル』に突入しています。

どれもこれも面白い。なにせストーリーをまったくといっていいほど憶えていないからね。

それはもちろん、僕が人並み外れて忘れっぽい、ということあるけれど、それだけではないと思う。そもそもムラカミ作品には、確固たるストーリーというものが存在しないんじゃないかと思う。

彼の作品には物語が進行していくドライブ感はハンパなくあるんだけど、ストーリーに必然性がないというか、結末がしっくりこない場合が多い。超常現象的なことが多すぎるし、設定も登場人物もストーリーまでもが似通っている場合が多い。

ストーリーは憶えていないけど、展開と結末はなんとなくわかる、という不思議な構造を持っているんですよ。だから、一度読んだ作品でも新鮮に感じるし、逆に初めて読む作品にもどこかで読んだような既視感を感じてしまう。

読者はまず、彼の文体の流麗さに惹きつけられる。登場自分達の会話は難解だし、知らない固有名詞もやららでてくるけど、言葉づかいが平易で、文章にリズムがあるから、読んでいるほうは、なんとなくわかった気になってしまう。

ジョン・コルトレーンの音楽は聞いたことないけど、その音楽が登場する場面の空気感がわかるので、コルトレーンの音楽がわかっているような錯覚に陥ってしまう。

ストーリーは腑に落ちないし、会話の端々にでてくる固有名詞も分からないけど、どうしようもなく小説の世界に引き込まれてしまう。

これって文学というより、催眠術に近いのかもしれない。

驚くことに村上春樹のファンは世界中に広がっている。言語や文化を共有する日本人が読んでもよくわからないものに、欧米やアジアの若者の共感が引き寄せられるのって不思議な感じがするけど、考えてみれば、日本の読者もわかったようなわかってないようなところが多いので、どっちもどっち(?)だ。

音楽や美術に限らず、名作と言われる芸術作品は抽象的だ。ダ・ビンチの『モナリザの微笑み』は写実的な技法で描かれているれれど、その絵が意図するものは、抽象的だ。逆にピカソの『明日の記憶』は抽象画だけれど、意図するものは実に明確だったりする。

また、僕ら日本人が洋楽にハマるとき、ほとんどの場合、まず曲とか、リズムとか、グルーブ感に惹きつけられる。よほど英語のできる人でない限り、歌詞から入る、という人は少ないはすだ。

歌詞の意味は分からなくても『Yesterday』を聴いて感傷的になったり、『天国への階段』を聴いて興奮したりする。芸術を理解するうえで、言葉は大した役割を果たしていない。せいぜいタイトルが訳されていればそれで十分だ。

芸術の素晴らしさは、文化や生まれ育った環境が違う同士が言葉を超えて共鳴できる点にある。

しかし、文学作品はそうはいかない。タイトルだけではどうにもならないから、他国の人に気に行ってもらうには、全文を翻訳する必要がある。

翻訳には不可避的に劣化が伴う。日本語の文章のニュアンスを他の言語で100%再現することはほとんど不可能だ。言葉というのは、その土地の文化や歴史から大きな影響を受けているので、かりに文法上は同じ言語であっても、微妙なニュアンスの違いがそこにはある。

翻訳小説に共感したり、のめり込んだりすることもある(もちろん)。ただ、多くの場合は、ストーリーの面白さや、世界観の華麗さに惹かれるのであって、純文学といわれる作品が世界的な共感を得ることは(近年においては特に)少ない。

ムラカミ作品は言葉や文化の壁をいとも簡単に超えてしまう。首都高の池尻付近の様子について一切の先入観をもたない地方出身の中国人が『1Q84』に共感することができる。

70年代安保のさなかの早稲田の街並みを想像すらできないアメリカ人が『ノルウェイの森』に涙したりする。

村上春樹の小説は、ある種の強固な抽象性を備えている。著者の意図は抽象的なストーリーのその奥でさらに深くエンコードされている。日本人だって理解できない人はできないけど、世界中にハマる人がたくさんいる。

僕らは、ムラカミ作品を読むのではなく、聴いている。

村上春樹は、小説を書くことを「井戸を掘る」とたとえるけれど、これは的を得ている表現だろう。自分の意識のより深いところへ降りていって、そこでストーリを紡ぎ出すことにより、彼は人類に共通する地下水脈みたいなものに触れているのかも知れない。

そもそも、そういう地下水脈が存在するということを証明したことがすごい。人間は言葉を通じて、言葉では到底表現できない感情に、物語に共鳴することができるのだから。

彼がノーベル文学賞を逃し続けているのは、彼の作品が「文学」という範疇では評価しきれないからなのかもしれない。


苦しまないで死ぬために

2012-10-17 12:55:34 | 日々雑感
フルマラソンは本当に苦しい。今日はうまく走れたな、と思えるレースでも、35km過ぎでは七転八倒の苦しみを味わっている。

ときおり行うスピード練習もとても苦しい。1km程度の距離を全速力に近いスピードで走り、300mほど歩いて、また全速力、を数セット繰り返す。目が開けられず、酸欠状態になり、心臓が口から飛び出そうになり、意識が朦朧としてくる。

一言で言えば「死にそうにツライ」。けど、別に本当に死ぬわけではない(もちろん)。でもこれだけツライ思いをしても生きているということは、本当に死ぬときの苦しみは、それはもう相当なものなのだろうなと思い、ぞっとする。

とてもそんな苦しみに耐える自信は僕にはない。ま、耐えてたら死なないのか。

生と死はコインの裏表のように切り離せないものだから、これまで一人の例外もなく、この世に生まれてきた人はいつかは亡くなる。だからそうそう怖がっていてもしょうがないのだけれど、そういう苦しみがいつか自分にも訪れるんだな、と思うと、誰かに大きな借金をしているようないたたまれない気持ちになる。

実は結構前から思っていたのだけれど、なぜ人は、死ぬ直前のギリギリまで生きようとするのだろうか。病には勝てるかもしれないけれど、寿命には勝てない。僕が100m走でボルトに勝つ確率は、限りなく低いけれどゼロではない。でも、寿命には絶対に勝てない。少なくとも現時点では。

ならば、せめて苦しまずにあの世に旅立ちたいと思うけど、その分野の話題は驚くほど少ない。みんな、借金繰り延べの算段はするけど、借金の完済についてはあまり考えてない。できの悪い小学生の夏休みみたいだ。

別に深刻な悩みがあるわけではないけれど、夜眠りについて、そのまま目覚めなければいいのにな、と思うことがある。

そう、僕は、自分という存在がこの世の中から消えてしまうことよりも、その間際の苦しみのほうがはるかに怖い。

その苦しみを味わうことなく死ねるのなら、数年ほど寿命が縮まっても構わないと思う。
しかし、このような僕の考えを理解してくれる人は(意外に)少なく、仲良くなった人達に話してもみても、たいがい呆れた顔をされておしまいだ。

もしかしたら、みんな自分だけは死なないとでも思っているのだろうか。

僕の理想としては、南の島のコテージで、素敵な食事と美味しいワインをしこたま飲んで、ソファでうたた寝してそのまま永眠、なんてのがいいな。二日酔いの心配もないし。

ただ問題なのは、そんな素敵な死に方を家族が許してはくれないだろうということ。だって、仮にうちの奥さんがそんなことを言い出したら、僕は絶対反対するもの。

配偶者が先に死んだら、葬儀屋らなにやら面倒なことが多いし。公平とは言えないにしても、これまで分け合ってきたいろいろな生活上の負担を一人で担わなくてはいけない。

天寿をまっとうして、ということなら我慢もできるが、自分一人だけ苦しみもせず、あの世に旅立つなんて身勝手すぎる。

そんなことしたら、殺してやる(あれ?)。

かと言って、一緒に死のうと言っても、彼女は絶対同意しないし、今度は子供達や周りが放っておかないだろう。

苦しまないで死ぬために苦しまなくてはいけないなんて、なんて生きずらい世の中なんだろう。

2025年の働き方

2012-10-11 17:58:24 | 日々雑感
最近、こんな本を読みました。

ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉

ざっくりというと、2025年、僕達の働く環境と僕達の仕事は、どのように変わっているだろうか?というのを考えた本です。

有名ブロガーのChikirinさんが、紹介し「Social Book Reading」 なるものまで実施しているので、結構話題になっていたりします。

とてもイギリスの研究家が書いたとは思えないくらい、ここで提示されていた問題は、そのまま日本に当てはまります。どの国も抱える悩みは同じなんですね。

この本では、13年後の社会は、グローバル化により社会格差が広がり、いわゆる中間層がなくなり、生き残った人も猛烈に忙しく、常に孤独を感じています。

その一方、クラウドコンピューティング等の進化により、世界中の人々と高度なコラボレーションが可能になり、新しい「つながり」を活かして、これまで不可能とされていたことがイノベーションにより実現できるとか、なんとか。

つまり、やる気に満ちて、コミュニケーション能力の高い人しか、これからは生き残れないと言いたいようです。

僕はこの見立てに反論するつもりはありません。確かに、そこそこのやる気と、人並みのコミュ力の人間がこれまでのようにのうのうと生きていくのは難しいでしょう。

ただ、少なく見積もっても世の中の80%くらいは、そういう人達だと思うんですよね。だから、たしかに2025年の時点では、この本に書かれているような状況になっているかもしれないけれど、これがその先年十年も続いたら、戦争になっている気がするな。

戦争って、外見上は国家と国家の争いだけど、その背景には、双方の(もしくはどちらかの)国民の社会に対する不満がある。

満たされない若者が愛国主義に走り、それに押されて政治家が引くに引けなくなってしまう構図は、先日の尖閣問題に対する中国の反応を見ればわかる。

今のところ、(まだ)日本には余裕があるから、ドンパチになったりしないけど、他の国だったら分からない。

日本でも、日清戦争や日露戦争を支えたのは、旧幕府側についていた藩の若者たちだからね。赤木なんとかさんが言っていたように、格差が固定した社会で、下層にあえぐ人達にとっては、戦争は千載一遇のチャンスに見えたりするんですよ。

来る社会で自分が生き残ることよりも、戦争が勃発しないように知恵を絞るほうが大切だと思うんだよね。