新橋、愛宕山のふもとにある『そば処 港屋』は、ありえない立ち食い蕎麦屋である。
今日は、陽気に誘われて、昼休みに愛宕山へ登り、その帰りに、立ち寄ってみた。
この店、開店当初から知っているけど、最近は、どこで取り上げられたのか、人気店になって、昼休みには長蛇の列ができるので、敬遠していた。しかし、今日に限ってなぜか行列なし。んじゃば、せっかくだから、と行ってきた。
この店も、他の行列のできる店のほとんどがそうであるように、妙にインパクトの強い料理を『うまいことはうまいが、並んでまでは食べたくない』程度の味で提供してくれる。
何がありえないかというと、まず、値段。立ち食い蕎麦屋の商品は、単品で500円を超えることはまずない。しかし、ここは最も安い『もりそば』が600円、これにトッピングを足していくと、最高、1000円を超えるものまで出てくる。
しかも、立ちそばの代名詞である、掻揚げそばがない。タヌキもキツネもない。いわんや、カツ丼や親子丼といった、にぎやかしは、一切ない。
また、そばは、太く、黒く、硬い。世の中には、たしかに、太くて、黒くて、堅いのが喜ばれるモノもあるだろうが、こと、蕎麦にいたってはどうだろう。僕は、細くて、白くて、それほど堅くない、更級系の蕎麦が好きだ。
いや、蕎麦の話だ、くれぐれも誤解のないように。
この蕎麦に、今日は、胡麻と海苔をトッピングしたんだけど、量がハンパじゃない。海苔は、焚き火でもすんのか?、というくらいてんこ盛りに盛られ、そばをとるたび、わらわらと崩れる。
胡麻は、全ての蕎麦の表面をびっしり覆い尽くすくらいあって、最初の一口二口こそ、香ばしいものの、蕎麦自体の噛み疲れと相まって、途中から、つくづく鬱陶しくなる。
親戚のオバサンの家で、小さいときの好物を、えんえんと出され続けるやるせなさに似ている。
蕎麦は陶器の皿に盛られ、そば猪口は、広口の深皿。そばつゆは甘口で、ネギが小口切りではなく、斜めスライスの大型のものが、どさっと盛られる。
しかし、一番ありえないのは、料理そのものではない。この店、店内は結構狭いくせに、店の中央には巨大なテーブルが置かれていて、これが厨房以外のスペースの約8割を占める。
しかも、このテーブルの中央には、水が引いてあって、そのまた中央には花瓶が置かれている。つまり、店の8割りを占めるテーブルの5割以上は、完全なデッドスペースになっていて、客は、このテーブルの周りを譲り合いながらすれ違う。
蕎麦を啜ろうと、前かがみなると、自然とお尻が突き出てしまうので、通路を横切る人にぶつかってしまう。
立ち食い蕎麦屋というのは、多かれ少なかれ、客に不便を強いるものだけど、それは、一重に蕎麦の値段を下げるための経営努力であり、狭いスペースを有効に使おうという知恵の発露である。
しかし、この店で客が不便をかこっているのは、およそ、蕎麦とは関係のない巨大なオブジェのようなテーブルのせいだし、前述のように、メニューには、情け容赦のない値づけがなされている。
なんとまー、理不尽な店なのだろう。
どの客のお盆も、まんべんなく濡れている。こういうところだけ、立ち蕎麦らしいのが、腹立たしい。
今日は、陽気に誘われて、昼休みに愛宕山へ登り、その帰りに、立ち寄ってみた。
この店、開店当初から知っているけど、最近は、どこで取り上げられたのか、人気店になって、昼休みには長蛇の列ができるので、敬遠していた。しかし、今日に限ってなぜか行列なし。んじゃば、せっかくだから、と行ってきた。
この店も、他の行列のできる店のほとんどがそうであるように、妙にインパクトの強い料理を『うまいことはうまいが、並んでまでは食べたくない』程度の味で提供してくれる。
何がありえないかというと、まず、値段。立ち食い蕎麦屋の商品は、単品で500円を超えることはまずない。しかし、ここは最も安い『もりそば』が600円、これにトッピングを足していくと、最高、1000円を超えるものまで出てくる。
しかも、立ちそばの代名詞である、掻揚げそばがない。タヌキもキツネもない。いわんや、カツ丼や親子丼といった、にぎやかしは、一切ない。
また、そばは、太く、黒く、硬い。世の中には、たしかに、太くて、黒くて、堅いのが喜ばれるモノもあるだろうが、こと、蕎麦にいたってはどうだろう。僕は、細くて、白くて、それほど堅くない、更級系の蕎麦が好きだ。
いや、蕎麦の話だ、くれぐれも誤解のないように。
この蕎麦に、今日は、胡麻と海苔をトッピングしたんだけど、量がハンパじゃない。海苔は、焚き火でもすんのか?、というくらいてんこ盛りに盛られ、そばをとるたび、わらわらと崩れる。
胡麻は、全ての蕎麦の表面をびっしり覆い尽くすくらいあって、最初の一口二口こそ、香ばしいものの、蕎麦自体の噛み疲れと相まって、途中から、つくづく鬱陶しくなる。
親戚のオバサンの家で、小さいときの好物を、えんえんと出され続けるやるせなさに似ている。
蕎麦は陶器の皿に盛られ、そば猪口は、広口の深皿。そばつゆは甘口で、ネギが小口切りではなく、斜めスライスの大型のものが、どさっと盛られる。
しかし、一番ありえないのは、料理そのものではない。この店、店内は結構狭いくせに、店の中央には巨大なテーブルが置かれていて、これが厨房以外のスペースの約8割を占める。
しかも、このテーブルの中央には、水が引いてあって、そのまた中央には花瓶が置かれている。つまり、店の8割りを占めるテーブルの5割以上は、完全なデッドスペースになっていて、客は、このテーブルの周りを譲り合いながらすれ違う。
蕎麦を啜ろうと、前かがみなると、自然とお尻が突き出てしまうので、通路を横切る人にぶつかってしまう。
立ち食い蕎麦屋というのは、多かれ少なかれ、客に不便を強いるものだけど、それは、一重に蕎麦の値段を下げるための経営努力であり、狭いスペースを有効に使おうという知恵の発露である。
しかし、この店で客が不便をかこっているのは、およそ、蕎麦とは関係のない巨大なオブジェのようなテーブルのせいだし、前述のように、メニューには、情け容赦のない値づけがなされている。
なんとまー、理不尽な店なのだろう。
どの客のお盆も、まんべんなく濡れている。こういうところだけ、立ち蕎麦らしいのが、腹立たしい。