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A Running Stone Gather no moss

タイトル変えました。iSaonのブログです。

『キャベツの千切り』の癒し

2008-06-16 18:37:25 | 食べ物だもの
アセトアルデヒド中毒の日は、よく、トンカツ屋で昼飯を食べる。

いや、頭がおかしいのではない。頭ガンガン、胃袋ムカムカ、意識モーローのまま、あの揚げもの王国、中性脂肪上等!、持ってけ、カロリーの、とんかつ『和光』の暖簾をくぐるのである。

狙いは、もちろんトンカツではない。とんかつの扶養家族に用があるのだ。

まずは、味噌汁。とんかつ屋の味噌汁は、たいてい、蜆だ。蜆は、体にいい。特に肝臓方面にいい仕事をすると聞く。

昨夜の暴飲で、ボコボコにされ、瀕死の状態にある我が肝臓は、これで息を吹き返す。

肝臓は『沈黙の臓器』と呼ばれる。相当悪くなっても、肝臓自体は、痛くなったりしないので、病気の発見が遅れやすいのだ。

決して音を上げない、不撓不屈の臓器。まさに『レバー ギブアップ』(やっちまったな!)

蜆の効能はともかく、アセトアルデヒドに占領された我が体には、熱い味噌汁の塩分がじんわりと沁みていく。

次におもむろに手を伸ばすのは、トンカツである。

ほーら、やっぱり食べるんだ、と思うだろうが、さにあらず。アツアツのトンカツは、傍らのキャベツの千切りの上に横たえる。箸で押さえ、さらに上からキャベツをかぶせて、トンカツを生き埋めにする(死んでるけど)。

しばし、黙祷ののち、キャベツをどかして、トンカツを救出。しかし、トンカツには目もくれず、キャベツの千切りにソースをかける。

トンカツの熱にあてられたキャベツは、トンカツの周囲のみ、ぐたっとしている。その、ぐたっとしたキャベツと、ピンピンに元気なキャベツを混ぜ合わせ、口中に押し込む。ミシミシと押し込む。

キャベツの千切りは、基本、シャキシャキしていなければならないが、みんながみんな、そう元気だとおいしくない。

30%くらいは、熱で弱っていて、全体としては、学級閉鎖直前のクラスのような状態が好ましい。

レモンが添えてあれば、もちろん、それも絞る。レモンの酸味と、ソースのスパイシーな塩気。口の中いっぱいに押し込まれたキャベツは、深雪を踏みしめるような音がして、モーローとした脳ミソを解きほぐしてくれる。

味噌汁をお代わりして、キャベツの千切りも二杯目にさしかかろうか、という頃になると、これまで石のように固まっていた胃袋も、微かに羨道運動を始める。

メドゥーサの呪いは解けたのだ。

家で作る、キャベツの千切りは、いまひとつおいしくない。理由は明白だ。葉っぱを一枚、一枚、剥いで切るからである。

やはり、キャベツは、いろいろな葉っぱが混ざり合っていないとうまくない。つまり、キャベツを半分に切って、ザクザクと切っていくのが理想なんだけど、そんな切り方したら、早く痛むし、もったいない。

キャベツよりも、自分の身を切り刻んでいる気がする。

そういえば、いつからだろう、サラダからキャベツの千切りが消えたのは。

僕の記憶が確かなら、バブルのころに、まず、キャベツが消えて、やがてホワイトアスパラ(缶詰)が消えていった。

昔は、ありとあらゆるところにキャベツの千切りがあった。サラダに、ハンバーグの付け合せに、しょうが焼き定食にも、喫茶店のナポリタンに、お弁当の片隅に。

外食産業には、なくてはならない脇役だったのに、いまでは、トンカツ屋以外で、見かけることはない。

だから、昔の友人に会いに行くようなつもりで、和光の暖簾をくぐるのだ。








『のり弁』かくあるべし!

2008-06-09 16:33:05 | 食べ物だもの
ここんとこ、無性に『ホカ弁』が食べたかった。例の『ほっかほか亭』のお家騒動があったせいかもしれない。

僕にとって『ホカ弁』といえば、なんてたって『のり弁』なんだけど、なぜかこれまで、店にいくと目移りしてしまって『幕の内弁当』とか、『チキン南蛮弁当』とかを買ってしまっていた。

ホカ弁は、ちょうど、僕らが高校生くらいのときに、突然のブームとなった。それもそのはず、当時、弁当といえば、冷たいのが当たり前で、いつも白飯が固まっていて、急いで食べると、しゃっくりが止まらなくなって

「しゃっくりが1000回以上止まらなかったら、ほんとに死ぬのかな?」

などど、根拠もなく怯えるのが、当時の弁当というものだった。

その弁当が温かい。しかも白飯だけでなく、おかずだって作りたてだ!僕らは、興奮した。たとえ、メインおかずのほとんどが、揚げものだったとしてもだ。

当時の僕らは若かった、揚げ物上等、バッチ来い。何日使いまわしたかわからないような揚げ油にだって、文句ひとつ言ったおぼえがない。ていうか、『油が悪い』という意味がわからなかった。

しかし、時は過ぎ、胃袋は荒れ、僕は次第に揚げ物から、そしてホカ弁からも、距離を置くようになった。

『再会』と言えば、大げさに過ぎるかもしれない。でも、もう一度、あの油切れの悪い、深海魚のフライが食べたい、ご飯の水蒸気で縮まって一回り小さくなったノリの上に乗せて食べたい。

そして、おかかと、佃煮昆布と、クタクタのキンピラゴボーにまみれた、炊き立ての白いご飯が食べたい。どーしても今食べたい。

というわけで、近所の駅前にある『Hotto Motto』まで自転車を走らせました。

登場から30年近くを経た今でも、のり弁は、ホカ弁の主役。今では、一口に『のり弁』と言っても、白身魚の代わりに、コロッケやカラアゲが乗っているものや、ウスターソースの代わりに、タルタルソースがついてくるものもあり、バリエーション豊富だ。

迷った挙句、カラアゲと、メンチが入っている『特のり弁』なるものを購入し、家路に着いた。

しかし、家に帰り、袋から取り出して、激しく落胆した。

まず、容器が違う。

昔から、ノリ弁の容器と言えば、発泡スチロール製で、蓋と容器が一体化したものだったはずだ。

ご飯を一杯に盛って、その上にやれ、ふりかけだ、揚げ物だと乗せていくから、当然、蓋は閉まりきらず、ボコッと盛り上がったまま、それを無理やり輪ゴムでとめ、包み紙で帯を締めていた。

その無理やりな感じが良かった。はちきれんばかりの中央部が、なんとも頼もしかった。

しかし今、目の前にある、のり弁は、透明なプラスチック製の蓋がかぶせてあって、昔のような切迫感が感じられない。はちきれてないし、キンピラゴボーもはみ出てない。

何もかもが、四角四面の容器の中に、行儀よく収まっている。『支配』と『束縛』。

こんなの、のり弁じゃねーや!

僕が尾崎豊だったら、落胆して、叫んで、盗んだバイクで走り出して、校舎の窓ガラスをたたき割って回るに違いない。

しかも、あろうことか、あるまいことが、『大根のさくら漬け』がないではないか!

あの、ご飯の熱にあたって、ぐったりとした『さくら漬け』のない、のり弁なんて、ただの欺瞞だ。だってそーでしょー、だってそーだもん。

なーにが『ほっともっと』だ!創業者を締め出してもいい。だが、大根のさくら漬けは残して置くべきではなかったのか。

折れそうになる気持ちを奮い立たせ、それでも箸を進めると、さらに悲しい事実が私を襲った。

チクワの磯部揚げが          な   い  .......

そうか、チクワは、このメンチカツと取引されていたのか。気がつかなかった、なんたる不覚。オレのバカ、バカ。

オレが太宰治だったら、愛人と青酸カリ飲んで、玉川上水に身投げするところだ。

それにしても、チクワのない『のり弁』はつらい。行けども行けども、死屍累々のフライ達。八甲田山的な彷徨。

同じ揚げ物でも、チクワの磯部揚げには、安らぎがあった。単なる端休めを超えた、何かがそこにはあった。

縦に半分、横にも半分にカットされたチクワには、チクワをチクワたらしめる『輪』すら、すでにない。

でも、オデンや、炊き込みご飯のときには、あんなに地味だったチクワが、ここでは準主役級の地位を与えられていた。

その、チクワの磯辺揚げが、ここにはない。

『特のり弁当』なんて頼んだ俺も悪いかもしれない。しかし、卑しくも『のり弁』を名乗る以上、誰が、チクワのない『のり弁』を想像するだろう。

キムタクを外して、おりも政夫を代わりに入れたSMAPを『特SMAP』って言うか?

いや、だって、そーゆー、ことでしょーが。違う?

タバスコの悦楽

2008-06-02 15:47:30 | 食べ物だもの
タバスコが好きだ。

あのピリリとした辛味や、風味もいいし、手になじむボトルの大きさと印象的なラベルのデザインもしゃれているけど、なんてたってタバスコの素晴らしいところは『減らない』ことだ。

僕は結構、タバスコを消費するけど、タバスコを買った記憶がない。タバスコは、買うものではなくて、冷蔵庫にいつもあるもの、である。

刺身を食べようと思ったら、ワサビが切れていて焦った、とか、おでんを作ったのに、カラシを忘れて、慌てて買いに走った。なんてことは、よくあるけど、タバスコが切れていた、という話はあまり聞かない。

なんてたって、消費期限は5年(!)小学校入学時に買ったタバスコは6年生になる直前まで使える計算だ。電化製品の保障期間が、たったの1年間なのを考えると、タバスコの度量の大きさがよくわかる。

タバスコといえば、スパゲティ。タバスコといえば、ピザ。特にタバスコ無しのナポリタンは想像できない。

「あのね、イタリアでは、パスタにも、ピザにもペッパーソースはかけないんだよ」

なんて、知ったかぶりをする奴がいるかもしれんが、それがどーした!イタリア人が勉強不足なだけだ。パスタにタバスコは、誰がなんと言おうとボーノだ、ウーノだ、マンマミーヤだ(意味不明)。

でも、僕が一番好きな組み合わせは、タバスコにグラタン!この組み合わせは泣ける。

どこなくボーッとした味のグラタンに、ひとたびタバスコの赤が加わると、様相が一片する。『しまむら』がアルマーニになり、遠藤保仁がクリスチアーノ・ロナウドになり、『荻の月』が『萩の月』になる。

カリカリの表面に直接かけるよりも、ちょっと切り崩した壁面に、数滴たらすのがイイ!ベシャメルソースにまみれた熱々のマカロニの先っぽに、紅くタバスコが滲む様は、実に官能的である。

「火傷をしてもかまわない」年甲斐もなく、思いつめた気持ちになる。

ナポリタンしかり、グラタンしかり。タバスコは、本来子供用の料理に対してこそ、その本領を発揮する。子供のお楽しみを、大人の愉しみに変える魔法の調味料だ。

日清のカップヌードルにも、タバスコはよく合う。チリトマトヌードルは言うに及ばず、スタンダードの醤油味にも実にいい仕事をしてくれる。

紙蓋をはがして3滴。麺と具をあらかた食べ終わったスープにさらに3滴。単なる腹ふさぎではない、起承転結のはっきりした、メリハリのある食事を楽しめること請け合いだ。

できることなら、僕の人生にも数滴、たらしたい。

ナカムラがオレの犬を喰った

2008-05-27 15:28:51 | 食べ物だもの
Nakamura ate my dog』。ナカムラと言っても、私のことではありません。中村俊輔選手のことです。

あっ、えっと、そうじゃなくて、俊輔を侮蔑するために、セルティックのライバル、レンジャースのサポータが歌っているんです。俊輔は犬は食べません(たぶん)。

まあ、彼が加入してから三年連続セルティックはリーグ優勝しているので、やっかむ気持ちもわからなくはないけど、それにしても、欧州のサポータってなんでビールだけであれほど泥酔できるんだろう?

ほんとは、無茶苦茶、酒弱かったりして。

もちろん、彼らは、韓国と日本を混同している。本来なら、その唄はマンチェスターに行って、歌うべきじゃないか?なんてこと言ったら、僕も奴らと同じレベルだ。反省。

彼らにとっては、犬を食べるのが日本人なのか、韓国人なのかは関係なくて、とにかく、アジア人全般に対して『お前のかーちゃんデーベーソ』なわけで。こっちとしては、

『おこちゃまねぇー、おっぱい飲むぅ?』(Copyright by はるみ)

くらいしか返す言葉がない。ていうか、無視してればいいんだけど。

そういえば、先日、オーストラリアのテレビ番組で、レポータがいきなり、街角の日本人にマイクを突きつけて。

「日本人は、調査目的で鯨を殺しているので、僕も調査目的であなたを殺していいですか?」

とたずねる番組があったらしい。やつら笑いの偏差値が低すぎる。

テレビのレポータごときの発言にとやかく言うのも馬鹿らしい。『めくじら』たてずに、クジラを食べようって、オレも低いな。

そもそも、クジラ云々以前に、お前ら、原住民(アボリジニ)に何してきたんだよ。南アフリカもそうだったけど、英国にいられなくなった人達が作った国は、人種差別がきつい。

都落ちの腐ったプライドというのは、ほんとうにひどい匂いがする。

ただ、冷静に考えて、クジラに関してはどうなんだろう?どうやら、国内には調査捕鯨で得た鯨肉が大量に余っているらしい。流通ルートがダメになっているし、鯨肉自体、そんなに人気がないから。

捕鯨問題に関しては、日本の負けなんだろうね。世の中正しいものが勝つわけじゃない。しつこいやつが勝つんだ。

牛は食べてよくて、なんでクジラはダメなんだ?という正論は、結局、通用しなかった。この論理を突き詰めていくと、クジラは食べてよくて、なんで『人間』はダメなんだ?という問いに行き着いてしまうからかも知れない。

もしも、この先、欧米が弱体化して、インドが世界の実権を握るようになると、きっと牛だって食べられなくなるぞ。そのときになって『肉食は我々の文化だ』なんてほざいても、助けてやらないんだかんね。

あっかんべー、だ!

『駒形どぜう』へ行ってきました

2008-05-26 16:52:01 | 食べ物だもの
以前から、一度行ってみたいと思っていた、浅草『駒形どぜう』に行ってきました。

今回も、米久のときと同様に、浅草在住の知り合いが案内してくれました。こういう食べなれないものを食べるときには、経験者がいないと心細いからね。

駒形どぜうは、操業1801年。江戸時代だっていうんだからすごい。店の周囲には濃厚な割り下の匂いがたちこめています。

店に着き、席に通される。たしかにそうなんだけど、この席というのが、ただの座布団一枚。椅子も背もたれもない。ていうか、テーブルがない。

いや、テーブルはあるんだけど、正確に言うと、テーブルの足がない。長ーい一枚板がどーんと置かれていて、その上に七輪と鍋をおいて、食べる。隣の席との境界というのがイマイチはっきりしない。ままごとみたいだ。

普通、こんな席に通されたら、『ふざけんな』の一言も言いたくなるが、なんせ老舗だし、これがこの店の特徴なんだから、文句は言えない。

連れの人にすべてを任せて、僕は黙々とビールを飲む。ビールはスーパードライの瓶ビール。普通なら『え、生ないの?』と言いたくなるところだが、なんせ老舗だし、店で飲む瓶ビールもきりっとして、いや、全然悪くない。

まずは、どじょう鍋『丸』が登場。小さくて丸くて浅い鉄鍋に、20数匹のどじょうが横たわっている。全員が同じ方向を向いており、昔テレビでみた、外国のカルト教団の集団自殺を思い出してしまった。

目があうといけないので、ネギを大量に投入し、ひと煮立ちするのを待つ。

すでに、どじょうは煮込んであるので、温めるだけでオッケー、七味と山椒を振って、たっぷりのネギとともに口に入れる。

とろっとした触感とかすかな骨の歯ごたえ。小さいけど、濃厚な味が口中に広がり、微かに、川の匂いがする。

実は、どじょうは、初めてではない。小さいときには、家でも、どじょう汁を食べさせられた記憶がある。

それに比べればさすがに老舗、うまく泥臭さを抜いていて、味は、うなぎに似ていなくはないが、もっと全然『川』な味がする。

うまいかと聞かれれば、ウマイのだけど、やっぱ、どじょうだよなって感じ。

サイドオーダーは、どじょうの骨せんべい。カリカリとしておいしいけど、後味がどじょうを主張している。

続いて『裂き』の鍋が登場。こっちは、頭を落として腹開きにして、内臓を抜いてある。こうなると、集団自殺の面影はない。見た目は上品だ。

しかし、味自体は、どうだろう。丸が持っていた濃厚さがなくなった代わりに、どじょうの肉のぱさついた感じが気になる。

僕は、丸のほうが好きだ。

ここで、ビールから冷酒に換え、さらに、どじょうの蒲焼を注文。

やはり、酒のほうがしっくりくるね、どじょうの後味を消してくれる。蒲焼も悪くない。でも、やっぱ、うなぎのほうがウマイよな。

結局、どじょうはウナギの代用的料理では、アラばかりが目立つような気がする。最後に頼んだ、カラアゲは、川臭さが抜けて、濃厚で淡白な味が良かった。

ここまでで約、一時間ちょっと。やっぱ長時間の胡坐は疲れる。見渡せば、僕らが来たときにいたお客さんは、ほとんどいない。みんな、さっと食べて、さっと帰るんだね。

僕らも切り上げて、いつくも行く、仲見世通り近くのソウルバーへ向かった。

一時間程度の滞在だったけど、シャツに、ズボンに、腕に、顔に、しっかり割り下とどじょうの香りが染み付いている。

結局、この夜も、がっつり飲んでしまい、風呂にも入らず寝てしまったんだけど、次の日、部屋中がどじょう臭かったのにはまいった。

『ウナギの寝床』ならぬ『どじょうの寝床』だ。