アセトアルデヒド中毒の日は、よく、トンカツ屋で昼飯を食べる。
いや、頭がおかしいのではない。頭ガンガン、胃袋ムカムカ、意識モーローのまま、あの揚げもの王国、中性脂肪上等!、持ってけ、カロリーの、とんかつ『和光』の暖簾をくぐるのである。
狙いは、もちろんトンカツではない。とんかつの扶養家族に用があるのだ。
まずは、味噌汁。とんかつ屋の味噌汁は、たいてい、蜆だ。蜆は、体にいい。特に肝臓方面にいい仕事をすると聞く。
昨夜の暴飲で、ボコボコにされ、瀕死の状態にある我が肝臓は、これで息を吹き返す。
肝臓は『沈黙の臓器』と呼ばれる。相当悪くなっても、肝臓自体は、痛くなったりしないので、病気の発見が遅れやすいのだ。
決して音を上げない、不撓不屈の臓器。まさに『レバー ギブアップ』(やっちまったな!)
蜆の効能はともかく、アセトアルデヒドに占領された我が体には、熱い味噌汁の塩分がじんわりと沁みていく。
次におもむろに手を伸ばすのは、トンカツである。
ほーら、やっぱり食べるんだ、と思うだろうが、さにあらず。アツアツのトンカツは、傍らのキャベツの千切りの上に横たえる。箸で押さえ、さらに上からキャベツをかぶせて、トンカツを生き埋めにする(死んでるけど)。
しばし、黙祷ののち、キャベツをどかして、トンカツを救出。しかし、トンカツには目もくれず、キャベツの千切りにソースをかける。
トンカツの熱にあてられたキャベツは、トンカツの周囲のみ、ぐたっとしている。その、ぐたっとしたキャベツと、ピンピンに元気なキャベツを混ぜ合わせ、口中に押し込む。ミシミシと押し込む。
キャベツの千切りは、基本、シャキシャキしていなければならないが、みんながみんな、そう元気だとおいしくない。
30%くらいは、熱で弱っていて、全体としては、学級閉鎖直前のクラスのような状態が好ましい。
レモンが添えてあれば、もちろん、それも絞る。レモンの酸味と、ソースのスパイシーな塩気。口の中いっぱいに押し込まれたキャベツは、深雪を踏みしめるような音がして、モーローとした脳ミソを解きほぐしてくれる。
味噌汁をお代わりして、キャベツの千切りも二杯目にさしかかろうか、という頃になると、これまで石のように固まっていた胃袋も、微かに羨道運動を始める。
メドゥーサの呪いは解けたのだ。
家で作る、キャベツの千切りは、いまひとつおいしくない。理由は明白だ。葉っぱを一枚、一枚、剥いで切るからである。
やはり、キャベツは、いろいろな葉っぱが混ざり合っていないとうまくない。つまり、キャベツを半分に切って、ザクザクと切っていくのが理想なんだけど、そんな切り方したら、早く痛むし、もったいない。
キャベツよりも、自分の身を切り刻んでいる気がする。
そういえば、いつからだろう、サラダからキャベツの千切りが消えたのは。
僕の記憶が確かなら、バブルのころに、まず、キャベツが消えて、やがてホワイトアスパラ(缶詰)が消えていった。
昔は、ありとあらゆるところにキャベツの千切りがあった。サラダに、ハンバーグの付け合せに、しょうが焼き定食にも、喫茶店のナポリタンに、お弁当の片隅に。
外食産業には、なくてはならない脇役だったのに、いまでは、トンカツ屋以外で、見かけることはない。
だから、昔の友人に会いに行くようなつもりで、和光の暖簾をくぐるのだ。
いや、頭がおかしいのではない。頭ガンガン、胃袋ムカムカ、意識モーローのまま、あの揚げもの王国、中性脂肪上等!、持ってけ、カロリーの、とんかつ『和光』の暖簾をくぐるのである。
狙いは、もちろんトンカツではない。とんかつの扶養家族に用があるのだ。
まずは、味噌汁。とんかつ屋の味噌汁は、たいてい、蜆だ。蜆は、体にいい。特に肝臓方面にいい仕事をすると聞く。
昨夜の暴飲で、ボコボコにされ、瀕死の状態にある我が肝臓は、これで息を吹き返す。
肝臓は『沈黙の臓器』と呼ばれる。相当悪くなっても、肝臓自体は、痛くなったりしないので、病気の発見が遅れやすいのだ。
決して音を上げない、不撓不屈の臓器。まさに『レバー ギブアップ』(やっちまったな!)
蜆の効能はともかく、アセトアルデヒドに占領された我が体には、熱い味噌汁の塩分がじんわりと沁みていく。
次におもむろに手を伸ばすのは、トンカツである。
ほーら、やっぱり食べるんだ、と思うだろうが、さにあらず。アツアツのトンカツは、傍らのキャベツの千切りの上に横たえる。箸で押さえ、さらに上からキャベツをかぶせて、トンカツを生き埋めにする(死んでるけど)。
しばし、黙祷ののち、キャベツをどかして、トンカツを救出。しかし、トンカツには目もくれず、キャベツの千切りにソースをかける。
トンカツの熱にあてられたキャベツは、トンカツの周囲のみ、ぐたっとしている。その、ぐたっとしたキャベツと、ピンピンに元気なキャベツを混ぜ合わせ、口中に押し込む。ミシミシと押し込む。
キャベツの千切りは、基本、シャキシャキしていなければならないが、みんながみんな、そう元気だとおいしくない。
30%くらいは、熱で弱っていて、全体としては、学級閉鎖直前のクラスのような状態が好ましい。
レモンが添えてあれば、もちろん、それも絞る。レモンの酸味と、ソースのスパイシーな塩気。口の中いっぱいに押し込まれたキャベツは、深雪を踏みしめるような音がして、モーローとした脳ミソを解きほぐしてくれる。
味噌汁をお代わりして、キャベツの千切りも二杯目にさしかかろうか、という頃になると、これまで石のように固まっていた胃袋も、微かに羨道運動を始める。
メドゥーサの呪いは解けたのだ。
家で作る、キャベツの千切りは、いまひとつおいしくない。理由は明白だ。葉っぱを一枚、一枚、剥いで切るからである。
やはり、キャベツは、いろいろな葉っぱが混ざり合っていないとうまくない。つまり、キャベツを半分に切って、ザクザクと切っていくのが理想なんだけど、そんな切り方したら、早く痛むし、もったいない。
キャベツよりも、自分の身を切り刻んでいる気がする。
そういえば、いつからだろう、サラダからキャベツの千切りが消えたのは。
僕の記憶が確かなら、バブルのころに、まず、キャベツが消えて、やがてホワイトアスパラ(缶詰)が消えていった。
昔は、ありとあらゆるところにキャベツの千切りがあった。サラダに、ハンバーグの付け合せに、しょうが焼き定食にも、喫茶店のナポリタンに、お弁当の片隅に。
外食産業には、なくてはならない脇役だったのに、いまでは、トンカツ屋以外で、見かけることはない。
だから、昔の友人に会いに行くようなつもりで、和光の暖簾をくぐるのだ。