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A Running Stone Gather no moss

タイトル変えました。iSaonのブログです。

日本の夏、噴水ジュースの夏

2008-08-18 14:26:48 | 食べ物だもの
豪雨にもかかわらず、土曜日のケニーズライブにお越しいただいた皆さん、ありがとうございました。無事に帰れましたか?

今回どうしてもご都合がつかなかった皆さんから、『なんで、この日なんだ』とのお叱りのお声をいただきました。申し訳ありません。次回の群馬ライブは、できる限り、皆さんのご都合をお聞きしたうえで、日程を決めたいと思います。

ところで、久しぶりに、群馬に行って、中学校時代の仲間と再会したせいか、夕べ、変な夢を見ました。ストーリ自体は、どうってことのないものだったんだけど、その夢になんと『噴水型ジュース販売機』が出てきたのですよ。

憶えてます?販売機の上にガラス製のドームがのっていて、中でオレンジジュースが噴きだしているやつ。

よく、デパートの屋上とかに置いてあったけど、僕は、敷島公園のボート乗り場の近くにあったやつが妙に記憶に残ってる。

好きな女の子とボートを漕いで、帰りに噴水ジュースを飲むのが、小学校時代の夢だった。

一杯、20円くらいだったかな、とにかく冷たくて甘くて、いつも量が物足りなかった。オレンジジュースといっても、果汁なんて一滴たりとも入ってないから『ジュース』ではない。ていうか、粉末だもん。

味も、ミカンやオレンジの味というよりは、こういう味を『オレンジの味』ってことにしようね、という暗黙の了解の上に成り立っている味で、いわば記号化された味。

そういえば、メロンにしても、レモンにしても、あのころの果実系の味は、すべて記号化されていた。

で、気になって、Webで調べてみたら、噴水型の販売機は、ほとんどが星崎電機の『街のオアシス』という製品らしい。星崎電機は、現在の『ホシザキ電機』で、この製品の大ヒットにより、現在のトップ厨房器具メーカとしての礎を築いたそうな。

もちろん、今では、ほぼ完全に姿を消してます。噴水ジュース。

それにしても、あのオレンジジュースは美味かった。家で飲む粉末のジュースとは、何かが決定的に違っていた。

なにが違うって、あの噴水でしょう。僕らの子供時代、ジュースは高級品だった。一部のお金持ちの家を除いて、冷蔵庫にジュースを常備している家庭はなかった(そうだよね、ね?)。そういう家の子供はいじめられていた(ような気がする)。

子供の飲み物は、麦茶か水道水と決まっていた。ただ、麦茶が甘かった。それだけ甘いものに飢えていたんだろうね。

そんな時代にあって、あろうことかあるまいことか、街中にジュースが湧き出ていたんだから、『街のオアシス』とは、言いえて妙なネーミングである。

風鈴といい、この噴水ジュースといい、日本人という人種は、五感を大切にするね。

暑い盛りに、とくとくと湧き上がるオレンジジュースの泉、セミの声、ラジオの甲子園中継。30分200円の貸し出しボート。遠くで夕立の音。

過ぎ去り日々は、噴水ジュースよりも甘酸っぱい。

あの噴水は、オレンジジュースだから、いい。あれが、味噌汁やカレーだったらと思うとぞっとする。

きっと、100%ジュースよりも、粉末オレンジの方が涼しげだ。噴水ジュースって、いわば、粉末ジュースの究極の形なのかもしれない。

噴水ジュースは、昭和42年に10円から20円に値上げされる。その理由は、甘味料として使っていたチクロが使用禁止になったため。甘味料を変えるだけで、倍の値上げとは、どんだけ使っていたんだろう、チクロ。






『わんこそば』をめぐる冒険 -- 怒涛編

2008-08-11 12:17:13 | 食べ物だもの
ということで、あっという間に盛岡に着いた。

最近、電車に乗るのが楽しい。車だと、基本的に前しか見られないけど、電車だと、周囲の風景がたっぷり楽しめる。

しかし、新幹線は早すぎて、近くの景色を目で追うのは無理。遠くの景色は、見えるけど、日本の場合、遠景には、個性がない。店も看板も、マンションも、関東と東北でさしたる違いはない。

たしかに時間で言えば、あっという間なんだけど、退屈だ。新幹線の高額な料金は、純粋に時間に対して支払われるんだな、と認識する。

盛岡では、レンタカーを借りた。カローラの1500CCだけど、ナビもついていて、なかなか快適。これを駆って、一路、盛岡インター近くのわんこそばや『初駒』へ急ぐ。

盛岡といえば、わんこそば。だから、盛岡にいけば、そこらじゅうに『わんこそば』屋があるんだろうと思っていた。ていうか、普通の蕎麦屋のメニューとして『わんこそば』があるのだろうと思っていた。

違うんだね。わんこそばは、普通の蕎麦屋では扱っていない。『初駒』も、蕎麦屋というよりも、ドライブインだった。しかも11時半くらいに、行ったときには、ちょうど団体客が入ったところで、断られてしまった。

わんこそばは、継ぎ手の仲居さんが付きっ切りになるから、数は捌けないんだね。ということで、小岩井牧場など一回りしながら、時間を潰した。

そうこうして、さて、念願の『わんこそば』にありつけたわけだけど、『わんこそば』にも、いくつかの種類があって、値段も2,200円から4,000円くらいの幅がある。

何が違うのかというと、蕎麦と一緒に出てくる箸休め。山芋や、煮物のほかに、高いコースでは、刺身や、天ぷらがついたりしている。

しかし、わんこそばのコツは、できるだけ、これらの箸休めを食べないようにすること。お腹がいっぱいになっちゃうからね。

いわば、これらの箸休めは、店側の妨害工作のためにあるわけで、こんなものに大枚はらうほど、バカじゃないやい。

ということで、僕は一番安い、2,200円のコースに。同行の『あー』氏は、30杯限定の1,500円コースを選択。かわいそうに『わんこそば』の意味がわかっていないらしい。

蕎麦は、ツユと一緒におわんに入っていて、一杯分は本当に少ない。ツユも多くはないけど、何倍も食べると、溜まってしまうので、傍らには、ツユを捨てるための、桶が置かれている。

一杯食べ終わるごとに、自分でカウンターを押す。仲居さんが押してくれてもよさそうなものだけど、文句をいってもしょうがない。

蕎麦の味だけど、正直に言って、あまりうまいものではない。蕎麦にはコシがないし、時期ハズレだから、香りもない。駅の立ち食いそばを短く切った感じ。同じ立ち食いでも『小諸そば』のほうがはるかにマシだ。

それよりも、ツユがいただけない。カツオといりこで出汁をとっているんだろうけど、薄くて、甘みがない。田舎の冠婚葬祭で出されるようなツユだ。

たしかに、量を食べるには、こういうあっさりとしたツユがいいのかも知れないけど、テンションは下がる。あまり、お金を払って食べたいような代物ではない。

それでも、気を取り直して、ジャンジャン食べようと、気合を入れる。しかし、思ったより、仲居さんのテンポがよくない。

イメージでは、食べ終わると同時に、蕎麦が継がれて、ヒー、堪忍してぇー。だったのだけど、仲居さんの動作は思ったより遅い。しかも、お盆に並べた蕎麦が終わると、奥に戻って次を持ってくるのだけど、それが遅い。

結局、あまり食べたくもない、箸休めに手が伸びてしまい。なんだか理不尽にお腹がくちていく。悔しいことに、この箸休めがなかなかイケるんだ。

なんだか騙されたような気分。

40杯を越えたあたりまでは、全く不安はなかった。成人男子の平均は、50杯ぐらいとのことだけど、100杯くらいはいけんじゃねーの、というような勢い。

しかし、45杯を過ぎたあたりから、急激に満腹感が訪れる。まったなし、切羽詰った感じで、胃袋が膨れ行くのがわかる。

結局、58杯で降参。いいんだ、この後、冷麺だって食べるんだから、余裕を持っておかないと。しかし、胃袋のそばは、食べ終えた後でも増幅を止めず、結局、夕方の冷麺は断念することに。

できれば、もっと若いときに、挑戦したかったな。ていうか、蕎麦がまずいって。

どこか割り切れない気持ちで、盛岡を後にしたのである。





『わんこそば』をめぐる冒険

2008-08-07 13:14:26 | 食べ物だもの
このブログで再三、書いているように、僕は、麺類が好きだ。

そして、その麺類のなかでも、とりわけ、蕎麦に目がない。そばなら、一日三食でもいい。いや、五食か六食だって、バッチ来いだ。

しかも、蕎麦に関しては、質よりも量である。都内では、子供の拳くらいの量で、1,000円くらいを吹っかけてくる店がゴマンとあるが、あーゆーのは、法律でなんとかならないものかと、いつも思う。

蕎麦を食うなら、もーだめ、もう入んない、堪忍してぇ~、というところまで食いたい。肛門の先っちょから、喉チ○コのあたりまで、詰め込んで、自分の消化器官を丸ごと、蕎麦のソーセージにしてもいいとさえ思う。

蕎麦に関しては、とことん『どM』なワタシ、なんである。

『どM』の蕎麦、といえば、思い浮かぶのは、岩手の『わんこそば』。仲居さんがつきっきりで、お椀にフタをするまで、蕎麦を足していく、というアレだ。

仲居さんに、攻められたい、泣き叫ぶまで、蕎麦でいじめられたいとは思うものの、この『わんこそば』、都内では、なかなか食べられない。ここ何年か、Webで探してはいるんだけど、わんこそばをメニューに載せている店は、ない。

わんこそばを食べるには、盛岡までいかなくてはいけないのだ。

自慢じゃないけど(本当に)、僕は国内に疎い。北海道も、九州も、大阪にさえ、行った事がない。そんな僕にとって、盛岡は遠い。感覚的には、北京よりも、サンフランシスコよりも遠い。

国内だから、パスポートはいらないとは思うが、通行手形くらいは、要求されてもやむをえないんじゃないか、なんて、真剣にそう思う。

しかし、盛岡は意外に近い。東北新幹線を使えば、2時間もかからずについてしまう。最近の新幹線は、止まる駅が少ない。大宮の後は、いきなり仙台だ。途中の栃木、福島なんて、まったくのスルー。

うっかり乗り過ごしたら、それこそ取り返しのつかないことになる。元国鉄とは思えない、血も涙もない運行方針だ。しかし、このおかげで、盛岡はもちろん、今や、秋田や青森でさえ、日帰り圏内である。

アインシュタインによると、宇宙は膨張して、収縮しているらしいが、日本だって、結構、収縮しているぞ。そのうち、北海道が手のひらに乗る日が来ても、♪もー、おーどろかなーいでしょう。

そこで、今回は、盛岡で、わんこそばと、なんだったら、冷麺も食べて、帰りに仙台で、牛タンをで一杯やろう、という、途方もないプランを企てたのである。

仙台で一杯、というのは、かの地に住む、古い友人と逢うため。そのため、同じ古くからの友人である、『あー』さんが同行することになった。

果たして、僕達は、無事、わんこそばにありつけたのか?冷麺は?

次号に続く(たぶん)。



冷やせ、中国

2008-07-22 19:42:22 | 食べ物だもの
『日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや』

これは、聖徳太子が隋の皇帝にあてた、有名な手紙です。何がすごいって、当時の超大国、隋にむかって、完璧に上から目線でものを言っている。

中国というのは、昔から『中華思想』というものがあって、ようするにこれは、『なんてたって中国が一番偉い、中国は世界の中心である』という考え方。

こういう国の王様に向かって、日本のような小国の王様が堂々とタイマン張って、メンタン切ろうっていうんだから驚く。まあ、もともと日本という国は、朝鮮やベトナムのような『小中華思想』に馴染めない人たちが、朝鮮半島から飛び出して作った国なんだろうから、そういう気概にあふれていたのかもしれない。

翻って近年、日本は中国に頭があがらない。小泉さんが総理の時には、ちょっとだけ意固地になってみせたことがあるけど、その後はすっかり、元の土下座外交に戻ってしまったようだ。

しかし、我々にも聖徳太子の気概は残っている。何がって?わからないかな。今の季節ならではのアレですよ。ハイ、

『冷やし中華』

ものの名前に国や国民の名前が付くときは、多かれ少なかれ揶揄が入る。ダッチワイフしかり、トル○風呂しかり。

しかし、国の名前に『冷やし』を付けることはない。冷やしフランスとか言わないでしょう。『冷やし』が付くのは、『冷やしタヌキ』、『冷やしキツネ』のたぐい。要するに、日本人はキツネやタヌキとおんなじ扱いにしているわけですよ。中国を。

こんなことがあっていいだろうか、ワタシ、おこるよ、ホントヨー。

一時期、『支那』は、別称だから、『支那そば』という呼び方はやめよう、なって言っていた人たちがいたけど、その前に『冷やし中華』だろう。

しかも、中国には『冷やし中華』なんてない。用途は違うけど、トルコにもお風呂はあるし、オランダ人にも奥さんはいる(用途は違うけど)。しかし、中国に『冷やし中華』はない。

そもそも、中国人は野菜ですら生ものを嫌がるので、ああいう料理はありえないと思う。

しかし、それにしても、暑い夏の昼下がり『冷やし中華』は嬉しい。ソーメンほど素っ気無くないし、ラーメンのように暑苦しくない。つるつるっと入って、そこそこ腹持ちもする。

キュウリの千切り、錦糸卵、ハム、紅生姜という、彩りも素晴らしい。家庭で作ると、錦糸卵が冷め切っていないで、生温かったりするけど、それはそれで玉子の風味が残っていてウマイ。白身と黄身が混ざり合ってないから、一本の中で真っ白な部分が点在していたりしたけど、気にしない。『糸』というより、紐の太さだったけど、それが却って頼もしかったりしたものだ。

あと、絶対に忘れていけないのは、練りガラシ。できれば、溶けにくいチューブのやつでなく、粉から溶いた、練りガラシが欲しい。カラシの付いた麺がウマイ。カラシが溶けたあたりのスープが部分的にウマイ。

冷たくって、しょっぱくて、甘くて、ツーンと辛い。夏の味覚の全てがここにある。

昔、家庭の冷やし中華といえば、『マルちゃんの冷やし中華』だった。小麦粉の香りはしないし、麺のコシも弱い。スープの酸味も強すぎた。

でも、夏の盛りにそんなことで文句を言う子供はいなかった。いまから思えば、袋に入っていた、『ふりかけ』はなんだったんだろう。当時は、なんとも思わなかったけど、考えてみれば、不思議な取り合わせである。





愛しの夏野菜達

2008-07-15 12:23:04 | 食べ物だもの
トマトのおいしい季節になりました。最近の僕のお気に入りは、冷やしたトマトをざく切りにして、塩を振り、ライムを搾る。これをオリーブオイルで和えて、出来上がり。

まあ、料理とも呼べないような一品だけど、暑い夏の夕方、一汗かいて、シャワーを浴びたあとで、ビールと一緒にこれをほうばると、幸せを感じる。

トマトは、手を加えすぎると美味しくない。本当は、冷え冷えのやつにがぶりと噛みつくのがいいんだけど、ビールのあてとしては、もう少し、油っけが欲しい。

酸味と、甘みと、太陽の匂い、これらを全て残しながらも、つまみとしての存在感を出すには、レモンではなくライムのほうがいいし、バジルだとか、モッツァレラチーズだとかは、邪魔になるような気がする。

単純そうに見えて、実は、計算された、微妙なバランスの上に成り立っている一品なんである。

もうひとつ大事なポイント、この一品は、トマトが大好きな人と一緒に食べること。大きな皿に、どかっと山盛りにして、見る見る間に、山が崩れ、なくなっていく様子が嬉しい。

最初は、『たかがトマト』と鷹揚に構えていたのが、山がならされ、トマトの一片が、汁の中に隠れる頃になると、突然、焦りだす。

この少し焦った状態で食べるトマトがまたウマイ。

実家にいた頃は、トマトに限らず、夏野菜は買うものではなかった。親戚の人や、近所のおじさんが、夏になると、カゴ一杯の野菜をかわるがわる持ってきてくれていた。

キュウリ、ナス、トマト、とうもろこし、枝豆。

子供心には、ありがたくもなんともなかった。このおかげで、手来る日も、来る日も、我が家の食卓には、キュウリ揉み、と焼きナス、冷やしトマトが並ぶことになり、野菜の占有率が格段にあがる。

ただでさえ、バテぎみで、がっつりいきたいときに、皿いっぱいのキュウリ揉みとかが出てくると、がっくりきたものだ。

だから、今でも、スーパーで、一袋300円もするキュウリを買うことに抵抗がある。

どうしても必要なときは、一本単位で買ったりする。昔、ほとんどの日本人が水を買うことに抵抗があったのと同じだ。似たような金額で、魚や肉が買えるなら、どうしてもそっちに目が行ってしまう。

しかも、スーパーの野菜は、ウマくない。特に、うちの近くのジャスコの野菜はひどい。種類は多いが、日常の基本野菜の質が低い。

ドリアンとか、並べている場合じゃないだろ!ちゃんとしたトマトを、一個百円以下で売ってほしい。