Joy Yoga

中東イスラエルでの暮らしの中で、ヨガを通して出会う出来事あるいは想いなど。

あれから10年

2017-02-24 12:36:45 | 
今年で母が亡くなってから10年。
当時の痛みは年月と共に癒されてきたものの折に触れ母の不在を寂しく感じる。

私の母は厳しい人で、子供にとってわかりやすい愛情を注いでくれるタイプではなかった。共働きで父の事業を支えていたせいもあり、幼い私が見ていたのはいつも母の後ろ姿だった。
幼稚園は送迎が不要のところに通い、幼稚園の後は自宅ではなく父の会社の小さな事務所に帰る日々。母は伝票処理や電話の応対で忙しいので、私は自然と一人で遊ぶことを学んだ。おもちゃなんてものはないので、チラシの裏にボールペンで絵を描いたり、事務所にあるゴム印を押したり、電卓を意味もなくたたいたり。後はひたすらぼんやりして自宅に帰るまでの時間をやり過ごしていたと思う。それが当たり前の生活だったけれど、たまに友達の家に遊びに行った時にその子のお母さんが家に居て、わざわざおやつを部屋まで持って来てくれたりするとその家庭が眩しくて仕方がなかった。おやつどころかうちに友達を呼ぶことさえできない私は子供心に切なさも覚えた。

小学校へと進んでも母は相変わらず兼業主婦で朝の8時過ぎには家を出て、6時頃に帰宅する生活。せっかく家族が揃う夕飯時も両親は仕事の話をしていることが多く、私達子供がその日一日をどう過ごしたかなど問われることはほとんどなかった。高学年になると、テストで何点だったかは聞かれるようになった。良い点が取れた時は嬉々として報告するのだが、それも他の優秀な子と比べられるので結局は口をつぐむしかなかった。

私の母はそんな母である。仲良し母娘なんてものは夢のまた夢で、私は母に対し相談事はおろか普通の日常会話さえも切り出せなかった。だから、思春期になって母に反抗することには何の躊躇いもなかった。それまでずっと自分の中に閉じ込めていたものをここぞとばかりにぶつけ、母の存在を拒絶し、避けた。それは私が中学校3年生の頃に母が心身を病んだ時も止むことはなく、そのまま高校生になっても続いた。
家にいても楽しいと思えることはちっともなく、学校の成績くらいしかを関心を示さないくせにやたらと厳しい母の元からとにかく立ち去ってしまいたくて、大学進学を理由に家を出ることにした。実のところはその大学で勉強したいのではなかったけれど、両親を説得するためにそのように振る舞った。
そうして母とはよそよそしい関係のまま私は故郷を離れた。

初めての独り暮らし。
誰と遊んでも、夜遅くに帰ってきても、誰にも咎められることがなく、それはもう絵に描いたような自由がそこにはあった。
これまで味わったことのない自由を謳歌しながら、同時に私は「家事って意外と大変なのかもしれない」と気づいた。母がするのが当たり前だと思っていたことを自分でするようになって、徐々に母のありがたみがわかるようになっていった。
自分が求めている愛情がもらえず、私は管理されているだけで愛されているわけではないのだとずっと思い込んでいたけれど、地元産の食料や日用品などが送られてきたり、里帰りの時には私が食べたいものが食卓に並んだりするのを見るにつけ、長年の思い込みは改まっていった。いつも仕事ばかりでよその家のように甘えさせてもらえないと寂しく感じていたけれど、私は自分でも気づかないうちに違う形で母に甘え切っていたのだろう。

そこで母娘関係を変えられればよかったのだが、人一倍長い反抗期を過ごした私と人一倍愛情表現の苦手な母であるから、よそよそしさを拭うのに更に数年かけてしまうことになる。
結局、母と普通に話せるようになったのは、私の結婚と出産を経てからだった。二十代も半ばを過ぎた頃にやっと漕ぎ着けた母との他愛ない会話は嬉しいものだった。子供達が生まれてからは私には向けられたことのない、少なくとも向けられた記憶のない、母の綻んだ笑顔や優しい口調に「お母さんもこんな柔らかな愛情表現をするんだ」と驚きさえした。

私が妻や母親という立場になると、互いに分かち合えるものができ、少しは親孝行の真似事もできるようになってきていた。子供達を通じて幼い頃の私が求めていた愛情にも触れることができ、失われた年月をこれから埋めていけると感じていた。
けれども、私達を待ち受けていた未来はとても不親切なもので、故郷で一番楽しい夏休みを過ごした翌月、母に腫瘍が見つかった。時期を重ねるように腎臓の病気を患った娘の入退院生活が始まり、東京にいても故郷に帰っても病院通いが続いた。私の気持ちや都合などお構いなしに人生がバラバラに散らばりながら毎日を通り過ぎ、本当にあっけなく、瞬く間に母との別れがやって来た。父の震える声で訃報を告げられたのは、3月上旬にしてはずいぶん暖かな日だった。

何をどう捉えれば良いのか全くわからなかった。
いくら泣いても涙が止まらないのに、事実を受け入れることはできなかった。
母が亡くなり一人家に残された父が酔って電話を寄越してきたかと思えば、「お父さんも死んでしまいたい」と涙ながらに訴えられる日々。
そんな最中にイスラエルへの移住が決まり、父には上手く説明できないうちに、私自身も茫然としたまま翌年の夏にこの地にやって来た。希望もなにもなかったので、イスラエルの雲ひとつない青過ぎる空には嫌気が差した。地中海を見ても自分が遥か遠い国にいることを実感するだけだった。人の親切がお節介にしか思えず苛立ちを覚えることも多かった。日本に帰れないのなら消えてなくなりたいと毎日のように考えていた。
それほど母の死は私から現実と向き合う姿勢を抉り取っていた。


少しずつ喪失感よりも思い出の方が心を往来するようになり始めるには、いくつもの歳月を費やす必要があった。
よっぽど忙しい時を除けば毎日のように手料理を食べさせてくれた母。どんなに簡単なものでも見栄えの良い盛り付けがしてあり、とにかく美味しかった。娘を出産した際に受けた大きな手術の後で最初に食べたいと思ったのは母のおにぎりだった。入院中にただ力なく横たわっているだけの私の側で静かに座り続けている母を見つけた時は柔らかな安らぎに包まれた。そういった母の思い出が寂しさを伴いながらも、愛された実感となって心の中で積み重なっていく。
そういえば、母との思い出の中にひとつ、母は母なのだということを強烈に思い知った出来事があった。高校生の時に私は一度だけ家を飛び出したことがある。気が済んだら帰るつもりで夜の公園で佇んでいたら、息を切らせながら探しに来たのは母だった。母は泣いていて、足元を見ると素足だった。普段は常識や世間体を気にしている母が人目も憚らず娘を追って来たことに言葉にできない衝撃を受けた。「ごめんなさい」も言えずに母と一緒に泣いていたような気がする。

父親似であるはずの私だが、最近は鏡の中に母の面影を見るようになってきた。母親としての経験を通じて母の想いをなぞりつつ、母の存在を自分の内に取り戻してはいるけれど、子供達の成長を見せられないことや二度と母の手料理を食べられないことなどはやはり寂しく感じる。特に春が近づいてくるこの時期は外の陽気にかえって恋しさが募る。







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4 コメント

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☆ 佳代さん ☆ (Nozomi)
2017-02-28 14:53:28
お若い時にお父様を亡くされていたのですね。
毎日思い出してもらえて喜んでらっしゃるのではないでしょうか。
懐かしく思い出すことが供養になると法事の折に住職が仰ってました。

取り戻したくても取り戻せないのが時間ですので、久しぶりの帰国、ぜひ実現されてください。
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Unknown (佳代)
2017-02-28 02:53:00
Nozomiさん、今日は。
10年、早いような、まだ10年?というような感じですよね。
私も父を亡くして20年以上経ちましたが、いまだに思い出さない日はありません。父にしてみれば迷惑でしょう(笑)
成仏させてくれ!と言っていることと思います。

お母さまは心の底からNozomiさんのことを愛してらしたと思います。ただ、ちょっと忙し過ぎたんでしょうね。。
大切なお話をありがとうございました。
これを読んで、今年こそはせめて私だけでも日本へ帰ろうと決めました。
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☆ サクラ姉さん ☆ (Nozomi)
2017-02-25 16:43:20
10年待ちました。
なぜだかわからないけど、10年を区切りにしようと決めていました。
長かったけど待って良かったです。
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きっと・・・ (サクラ姉)
2017-02-25 00:06:45
お母様も、今日のblogを
読んでくださっている・・・

そう思えてなりません。

大切な思いをシェアしてくれてありがとう。
言葉で言い表せない、
とても大事なものを受け取りました。
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