Joy Yoga

中東イスラエルでの暮らしの中で、ヨガを通して出会う出来事あるいは想いなど。

適切な自己評価

2013-11-12 20:09:35 | エッセイ
この国に暮らし始めて驚いたことのひとつが自己評価の高さ。
年齢や職業に拘らず軒並み自己評価が高い。少なくとも対人場面においてはそういう傾向があり、慎ましさが美徳のひとつである日本人とは真逆だなと思う。

最初は私も真に受けていちいち感心したりしたものだが、口先と実態が不一致であることも多いのだと次第に気づくようになってからは、心の中で少々引き算をしながら話を聞かせてもらうようにしている。失礼なことをしている自覚はあるが、これによって振り回されずに済んでいるのも事実。

稀に「そんなこと言っちゃって大丈夫?」と、聞いている方がハラハラすることもある。ビッグマウスぶりに呆れることもある。しかし、多くは「そこまで自信が持てるってすごいな」と思えるエネルギーを帯びていて、内容そのものよりも本人の心のスタンスが私には魅力的に映る。

そんな国民性なので、彼らは自分の可能性の扉を自ら閉ざすことがない。どんな未経験なことにでも胸を張って飛び込んでいく。見積もり違いで失敗することもあるが、桁違いの成功を手にする例も多い。結果はどうあれ、自己評価の高さが行動力に直結していることによって確実に経験値を上げているだろう。それを学びに変換しているかどうかはまた個別の話なのだけれども。

反対に自己評価が低いというのはすなわち、自分の可能性の扉を閉ざすことに等しい。新しい何かを前にした時に、不安や気後れが先に立つとつい及び腰になってしまう。その結果、せっかくのチャンスを逃していることも一度ならずあるだろうし、成功はおろか失敗から学ぶ機会さえ失っている。やや強迫じみた言い回しになってしまったが、実際にそういうことになるんじゃないだろうか。


他人のことをあれこれ評価するのは簡単だが、私自身はどうか。
私もかつては自己評価の低い人間だった。冒頭でも触れたように、それがいわゆる慎ましさのひとつの形であると考えていた。どれくらい低かったのかは何を基準にすればいいのかがわからないので言えないが、目の前のチャンスをみすみす取り逃したり、誰かに譲ったりすることは幾度もあった。今にして思えば、それは慎ましさでもなんでもなく、ただの臆病さに過ぎない。慎ましさとはもっと違う場面で発揮すべき美徳でなのである。ずいぶん長いこと履き違えてきてしまった。

ヨガの練習が深まるにつれ、私の自己評価はおそらく妥当なものになってきていると感じる。ヨガのアーサナに取り組む際に、自分が「今この瞬間」にできることをよくよく観察しながら行なわなくてはならないためであろう。自己を過信した無理な動きはケガに繋がり、その逆はできることをやらずに成長を留めることになる。アーサナが安定した状態で尚且つ上を目指してゆくには、自己の可能性と限界の間にある実力をその都度見極めていかなくてはならない。実力とは経験でしか計ることができないし、証明することもできないものである。そして、経験とは積んでいくものである。

自分では一生できないだろうと思っていたアーサナができるようになった経験を日常にも少なからず反映できるようになってくると、何かしらのチャンスが巡ってきた時に、それは自分の実力がそれなりについた証しであると捉えられるようになる。自分にあと必要なのはほんのちょっとの勇気とか度胸とか、そういったものなのだ。要は心意気次第ということ。


このテーマについて書こうと思い立った時、「適切な自己評価は自分に相応しいチャンスに繋がる」というような結論を見据えていたのだけれど、書いているうちに「相応しいチャンス」のさらに先の結論に至った。
だいぶ飛躍しているように思われるかもしれないが、それを書いて終わりにしたい。


  目の前にやってきたチャンスはあなたが全うすべき役割。すなわちあなたの使命です。



ナマステ&シャローム
Nozomi

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