Joy Yoga

中東イスラエルでの暮らしの中で、ヨガを通して出会う出来事あるいは想いなど。

ブームの側面

2012-01-14 10:53:57 | エッセイ
ヨガの練習をしながら日々感じることを書く時に「日記」という括りでは収めきれない思考や観点がどうしても生まれてくるので、新しく「エッセイ」というカテゴリーを設けることにしました。過去に投稿した記事にも「日記」という色合いより「エッセイ」としたほうがしっくりくるものもあるかと思うので、そちらは追って分類し直すことにします。


さて、「ヨガ=柔軟性」という解釈が一般に広まっていて、体がカタイ人にはヨガは向いてないかのように思われがちなのだけど、「そうじゃないよ」というスタンスで今日はお話をしたいと思います。

体の柔らかさがヨガを始める条件のような考えが、とりわけヨガ未経験者の間に多く見受けられます。そのたびに私は自分自身を例に挙げて「全然そんなことないよ」と力説しているわけだけれども、一体どうしてそんな解釈が広まってしまったのだろうかと考えてみました。

確かにヨガと柔軟性は関わり合いを持っています。但し、「ヨガをやっているうちに開発されるのが柔軟性」であって、「柔軟性がヨガをするための条件」にはなり得ない。にもかかわらず、私たちがそこにこだわりのポイントを持ってきがちになるのは、昨今のヨガブームがもたらしたひとつの弊害だと私は思っています。

ブームというものは多くの人に対して「きっかけ」を身近なものにしてくれる。ブームがきっかけを与え、そのきっかけによって未知の可能性を開花させる人もいる。だから、ブームという社会現象を一概に否定することはできない。ただ、ブームに流されている時、どうやら人は多数派の価値観が正しいのだと勘違いをする傾向があるという点は頭の片隅に置いておかなければならないんじゃないか。

そんなことを考えている時に、ちょうど読み始めたばかりの小説の中で似たような意見を述べたくだりに出会ったのでご紹介します。

[パリのランバール通りに店を出した馬具屋はブームというものをよく知っていた。
 ブームとは善良な人々から思考を奪う力で、それは経済も政治も牛耳る。うしろだてになってくれる。ブームだというだけで思考することを停止してしまう人間の数がとてつもなく多いことを、馬具屋は知っていたのである。知って、自社製品を売りまくって店を大きくした。 その屋号をエルメスといった。これはなるほど、情報伝令を司るギリシアの神の名でもある。
 ブームと、情報・通信産業とは不可分の関係にある。]
(姫野カオルコ著『ハルカ・エイティ』 第三章 女学生より抜粋)

上記の抜粋にもある「情報」という点では、ヨガブーム中にとかく人々の心に訴えたものは視覚を通したイメージです。それまでは「ヨガ」と聞いても、インドの山奥で世捨て人が修行でやってるものだろうと想像していたものが、自分と同世代のとてもスタイルの良いモデルが柔軟性を誇る美しいポーズで佇んでいるのですから、従来のイメージが覆されて「私もあんな風になりたい!」と願望を抱くのも当然のこと。
ヨガがもたらす恩恵について偉大なグルが語った言葉を活字にしたものよりも、手っ取り早く人々の心を掴んでしまうのだから、まったく写真の持つ影響力というのは計り知れません。
気がつけばヨガはファッションになり、ヨガの一般的なイメージは身体的柔軟性と結びつけられるようになりました。

ブームではインスタントなものを大勢が求める流れが生まれ、本質が置き去りにされてしまうことは珍しくありません。ヨガにおいても一部で同じことが起きたと私は見ています。
視覚を通して植え付けられたイメージに従って、体だけが漫然とヨガのポーズを取っている、あるいはポーズという外見への過剰なこだわりに支配されている、そういう人は少なくありません。とりわけ後者は無理にアーサナを取ろうとするのでケガをしやすい。そして極端なタイプにいたってはドクターストップがかかるまで無理をして「ヨガはよくない」と言い出す始末。つい最近もニューヨークタイムズでヨガ批判の記事が出たばかり。大手新聞に批判記事が載るほどヨガが定着したという証しでもありますが、流行りに身を任せたまま思考を停止させていると、本質に近づけないばかりかかえって逆効果になりかねないということの表れとも解釈できそうです。

身体的柔軟性を求めてヨガを始める人がいてもいい、と私は思っています。ヨガの道は入り口も過程も人それぞれ。きっかけが何であれ、続けていくうちにどこかのタイミングでヨガに対する理解を深めたいと思う可能性が多少なりともあるからです。
けれども、身体的柔軟性がないとヨガは始められないのだと人々が考えてしまうと、ヨガの本質、つまり自分とは何者なのかという知識、人生とどのように対峙していくのかという知恵に出会うチャンスがそれだけのために遠のいてしまう。せっかく興味があっても、これはなんだかもったいない話です。

身体的柔軟性にのみフォーカスしてしまえば、私は人前に出て指導できるほどの柔軟性を持ち合わせてはいないかもしれません。たまにクラスが始まる前のウォーミングアップで軽々と180℃の開脚をやってのける先生なんかがいるけれど、今の私にはとうてい真似ができません。おまけに、いまだに「柔軟性」への憧憬あるいは執着を完全に捨て切れてもいないので葛藤もあれば劣等感を抱くこともある。これはブーム時に焼き付けられたイメージの後遺症のようなものなのでしょう。
しかしながら、それがさして重要事項でないことは、指導者の立場に立ってみたからこそ納得したことです。ヨガを通して自分が世に伝えたいものは「精神的柔軟性」ではあっても「身体的柔軟性」ではない。人生と上手く向き合う術となり、そして喜びをもたらすのは「身体的柔軟性」よりも「精神的柔軟性」であることは40年近くも生きていれば、仮にヨガをしていなくとも十分に分かることなのです。
さらに言えば、ヨガがもたらす恩恵は柔軟性だけではなく、集中力、バランス感覚、持久力、免疫力などを総合的に評価すべきものですから。


あなたは体がカタくて始められないのですか?それとも頭がカタくて始められないのでしょうか?
せっかくブームが起きてヨガが身近になったのですから。


Namaste & Shalom,
Nozomi

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2 コメント

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Unknown (Rika)
2012-03-08 09:33:14
このブログもホントにすばらしい!
しつこくてすいません(笑)。
またまた、コメント。

ホントに、どっちなんでしょうね。
頭がカタイんだか、身体がカタイんだか…
でも、それに気づかせてくれるのもヨガですよね。
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☆ Rikaさん ☆ (Nozomi)
2012-03-08 17:38:01
またまたありがとうございます。コメント、大歓迎ですよ~。

私の方こそもう何度もお伝えしていますが、TTCの時にRikaさんと交わした会話に今も支えられています。
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