常に電光石火の行動
名誉会長は各都市を回り、派遣メンバーの激励、座談会、御書講義と、席の温まる暇もなかった。
名誉会長に随行した幹部の一人が述懐している。徳山から宇部に行く時のことであった。
「先生はご自分が、いつ、どこにいるかを各支部の拠点に連絡されていました。しばらくすると、近くで戦っている支部からは直接、遠い支部からは電話で、連絡・報告が入りました。それに対して、先生は電光石火に指示をされ、激励しておられました。
ところが、報告のない支部に限って、成果があがらないのです。私は『先生と呼吸を合わせる』ことが戦いの勝敗を決することを目の前で見ることができました」
■証言 (辻仁志さん=当時・松島支部隊長)
松島支部は、意気込んで防府市に乗り込みました。しかし、2日経っても結果はでません。気は焦るばかりです。
3日目の夕刻、拠点に1本の電話が入りました。先生からでした。責任者であった地区部長が、状況を報告すると、その晩、先生が防府に来てくださることになりました。
「先生が来られるのに、えらいこっちゃ」と、出かけては「アカンなあ」と帰って来て、「ほな、また行こか」と繰り返すばかり。結局、1世帯の折伏もできません。
夜8時ごろ、先生は到着され、叱られると思っていると、「折伏ができないのは辛いことです。できている支部よりも君たちの方が苦労している。そう思ったから来ました」と言われました。悩んでいる私たちを包み込むように励ましてくださいました。
そして、こう語られました。「君たちはなぜ下関(名誉会長の拠点)に来ないのですか。広布は折伏の師匠である戸田先生がなされる。僕はその名代として指揮を執っている。その中心に呼吸が合わなければ前進はない」。
私たちは、ハッとしました。下関まで往復したら半日がつぶれてしまうという気持ちがあったのです。
「明日から折伏ができるよう、御本尊に祈ろう」と先生が言われた時、一人の先輩が感極まり、落涙しました。すると、「男は戦場で泣くもんじゃない」と励まされ、朗々と勤行を始められました。「学会の魂」を教えていただきました。呼吸が合わない限り空転であると。
翌朝から皆で下関に行きました。その日から折伏ができました。
■証言 (吉井光照さん=防府市31年10月入会)
当時、わが家は防府で大きな荒物屋を営んでおりました。
10月のことです。突然、福岡の学会員が毎日、折伏に来るようになったのです。あの時は分からなかったのですが、山口闘争が始まっていたのです。
皆、貧しい身なりでした。夜行で着いて駅のベンチに寝て、日が昇ると折伏に来られる。
防府では、松島支部の方々も旅館を拠点にして戦いをされていました。その方々もやってきました。しかし、松島支部では成果があがらず悩んでいたことをあとから聞きました。
その時に、先生から、「なぜ下関に来ないのですか」と言われたと言います。それで、下関に行って先生の指導を受け、帰ってきたら、10世帯の折伏ができた。実は、わが家も、そうして入会した一家なのです。
■証言 (吉井直子さん=防府市31年10月入会)
大きな屋敷であったわが家に、朝、昼、晩と信心の話をしに来られる。その方に聞きました。「どうして、うちに来られるのですか」と。すると「貧乏で入信しました。折伏したら幸せになれると聞いて、どうせ折伏するなら大きな屋敷にしようと決めたのです」と言うのです。そのすごい一念に感動しました。私たちは入会しました。
これからは勝てるよ
一人の責任者が悩んでいた。文京支部の責任者である宮崎正義さん(故人)であった。彼は保土ヶ谷地区(神奈川)の地区部長であった。
文京支部の同志は岩国、防府、山口、宇部、下関に散って弘教を進めていた。しかし各地で苦戦が続いた。悩んで名誉会長に指導を求めた。
名誉会長は語った。
「長の一念です! 長い戦いに勝とうという強い一念がないからです。だから、だらしない戦いになる」
「中心を忘れてはいけない! 間断なく連携を保って戦うのです。山口や防府がどうなっているかわかりますか? すぐ連携を取りなさい」
「同志を大きく包容しながら、個人個人を激励しなければならない」
宮崎さんはすぐに各地の文京支部のメンバーに連絡をとり、名誉会長の指導を伝えた。そして、「皆、がんばっていました」と名誉会長に報告した。名誉会長は「これからは勝てるよ」と。文京支部は300世帯を超す弘教を実らせて帰京した。
■証言 (宮崎初恵さん=当時・文京支部支部常任委員)
文京支部のメンバーは、意気揚々と山口に来たものの、1世帯の折伏も実りませんでした。ほとほと困っていたその時に、先生が来られたのです。拠点で、勤行が始まりました。先生の力強い唱題に合わせていくと勢いが増していくのを感じました。
勤行が終わると同時に、先生が振り向かれて言いました。「明日からは、できるよ!」。その確信の一言に、皆の気持ちが、「さあ、やろう!」と一つになりました。翌日から本当にその通りになったのです。
■証言 (白井登志恵さん=当時・小岩支部地区担当員)
拠点で朝、先生とともに勤行・唱題をし、「がんばりなさい!」の先生の声に送られて、一斉に宇部の町に打って出ました。一日中、歩きました。話せども、話せども、そっぽを向かれました。疲れと情けなさで拠点に戻ると、先生が温かく出迎えてくれました。もう悔し涙がボロボロこぼれ、顔が上げられませんでした。
先生は、「折伏は難事中の難事です。だから功徳もある。成仏の法なのです。今日、できなかったからといって弱気になってはいけない。明日また、がんばりなさい!」。力強い励ましに、生き返る思いでした。
翌朝の勤行の時、先生の左斜め後ろに座りました。今日こそは! 無我夢中で唱題をしました。すると唱題している先生が振り返り、耳元でそっと言われたのです。「お題目は中心者にあわせるんだよ」。
今、思えば赤面のいたりですが、学会員として、最も大切な指導でした。
拠点を出るときに先生は「今日はできるよ!」と。勇気百倍、町に向かいました。執念で折伏を実らせ、最終列車で拠点に戻りました。先生に報告しようと、階段を駆け上がり、皆が集う部屋の障子を開けた瞬間、いきなり「おめでとう!」と先生。今度は嬉し涙がポロポロと溢れました。
■証言 (広岡九一さん=当時・浜松支部支部幹事)
当時、山口に知り合いがなく、ともかく地方で折伏ができればいいということにして、地区のメンバーと四国へ行ってしまったのです。当然、折伏が実るわけもなく、疲れるだけで帰ってきました。学会の流れに呼吸を合わさなければ空転する。嫌というほど思い知らされました。
名誉会長は各都市を回り、派遣メンバーの激励、座談会、御書講義と、席の温まる暇もなかった。
名誉会長に随行した幹部の一人が述懐している。徳山から宇部に行く時のことであった。
「先生はご自分が、いつ、どこにいるかを各支部の拠点に連絡されていました。しばらくすると、近くで戦っている支部からは直接、遠い支部からは電話で、連絡・報告が入りました。それに対して、先生は電光石火に指示をされ、激励しておられました。
ところが、報告のない支部に限って、成果があがらないのです。私は『先生と呼吸を合わせる』ことが戦いの勝敗を決することを目の前で見ることができました」
■証言 (辻仁志さん=当時・松島支部隊長)
松島支部は、意気込んで防府市に乗り込みました。しかし、2日経っても結果はでません。気は焦るばかりです。
3日目の夕刻、拠点に1本の電話が入りました。先生からでした。責任者であった地区部長が、状況を報告すると、その晩、先生が防府に来てくださることになりました。
「先生が来られるのに、えらいこっちゃ」と、出かけては「アカンなあ」と帰って来て、「ほな、また行こか」と繰り返すばかり。結局、1世帯の折伏もできません。
夜8時ごろ、先生は到着され、叱られると思っていると、「折伏ができないのは辛いことです。できている支部よりも君たちの方が苦労している。そう思ったから来ました」と言われました。悩んでいる私たちを包み込むように励ましてくださいました。
そして、こう語られました。「君たちはなぜ下関(名誉会長の拠点)に来ないのですか。広布は折伏の師匠である戸田先生がなされる。僕はその名代として指揮を執っている。その中心に呼吸が合わなければ前進はない」。
私たちは、ハッとしました。下関まで往復したら半日がつぶれてしまうという気持ちがあったのです。
「明日から折伏ができるよう、御本尊に祈ろう」と先生が言われた時、一人の先輩が感極まり、落涙しました。すると、「男は戦場で泣くもんじゃない」と励まされ、朗々と勤行を始められました。「学会の魂」を教えていただきました。呼吸が合わない限り空転であると。
翌朝から皆で下関に行きました。その日から折伏ができました。
■証言 (吉井光照さん=防府市31年10月入会)
当時、わが家は防府で大きな荒物屋を営んでおりました。
10月のことです。突然、福岡の学会員が毎日、折伏に来るようになったのです。あの時は分からなかったのですが、山口闘争が始まっていたのです。
皆、貧しい身なりでした。夜行で着いて駅のベンチに寝て、日が昇ると折伏に来られる。
防府では、松島支部の方々も旅館を拠点にして戦いをされていました。その方々もやってきました。しかし、松島支部では成果があがらず悩んでいたことをあとから聞きました。
その時に、先生から、「なぜ下関に来ないのですか」と言われたと言います。それで、下関に行って先生の指導を受け、帰ってきたら、10世帯の折伏ができた。実は、わが家も、そうして入会した一家なのです。
■証言 (吉井直子さん=防府市31年10月入会)
大きな屋敷であったわが家に、朝、昼、晩と信心の話をしに来られる。その方に聞きました。「どうして、うちに来られるのですか」と。すると「貧乏で入信しました。折伏したら幸せになれると聞いて、どうせ折伏するなら大きな屋敷にしようと決めたのです」と言うのです。そのすごい一念に感動しました。私たちは入会しました。
これからは勝てるよ
一人の責任者が悩んでいた。文京支部の責任者である宮崎正義さん(故人)であった。彼は保土ヶ谷地区(神奈川)の地区部長であった。
文京支部の同志は岩国、防府、山口、宇部、下関に散って弘教を進めていた。しかし各地で苦戦が続いた。悩んで名誉会長に指導を求めた。
名誉会長は語った。
「長の一念です! 長い戦いに勝とうという強い一念がないからです。だから、だらしない戦いになる」
「中心を忘れてはいけない! 間断なく連携を保って戦うのです。山口や防府がどうなっているかわかりますか? すぐ連携を取りなさい」
「同志を大きく包容しながら、個人個人を激励しなければならない」
宮崎さんはすぐに各地の文京支部のメンバーに連絡をとり、名誉会長の指導を伝えた。そして、「皆、がんばっていました」と名誉会長に報告した。名誉会長は「これからは勝てるよ」と。文京支部は300世帯を超す弘教を実らせて帰京した。
■証言 (宮崎初恵さん=当時・文京支部支部常任委員)
文京支部のメンバーは、意気揚々と山口に来たものの、1世帯の折伏も実りませんでした。ほとほと困っていたその時に、先生が来られたのです。拠点で、勤行が始まりました。先生の力強い唱題に合わせていくと勢いが増していくのを感じました。
勤行が終わると同時に、先生が振り向かれて言いました。「明日からは、できるよ!」。その確信の一言に、皆の気持ちが、「さあ、やろう!」と一つになりました。翌日から本当にその通りになったのです。
■証言 (白井登志恵さん=当時・小岩支部地区担当員)
拠点で朝、先生とともに勤行・唱題をし、「がんばりなさい!」の先生の声に送られて、一斉に宇部の町に打って出ました。一日中、歩きました。話せども、話せども、そっぽを向かれました。疲れと情けなさで拠点に戻ると、先生が温かく出迎えてくれました。もう悔し涙がボロボロこぼれ、顔が上げられませんでした。
先生は、「折伏は難事中の難事です。だから功徳もある。成仏の法なのです。今日、できなかったからといって弱気になってはいけない。明日また、がんばりなさい!」。力強い励ましに、生き返る思いでした。
翌朝の勤行の時、先生の左斜め後ろに座りました。今日こそは! 無我夢中で唱題をしました。すると唱題している先生が振り返り、耳元でそっと言われたのです。「お題目は中心者にあわせるんだよ」。
今、思えば赤面のいたりですが、学会員として、最も大切な指導でした。
拠点を出るときに先生は「今日はできるよ!」と。勇気百倍、町に向かいました。執念で折伏を実らせ、最終列車で拠点に戻りました。先生に報告しようと、階段を駆け上がり、皆が集う部屋の障子を開けた瞬間、いきなり「おめでとう!」と先生。今度は嬉し涙がポロポロと溢れました。
■証言 (広岡九一さん=当時・浜松支部支部幹事)
当時、山口に知り合いがなく、ともかく地方で折伏ができればいいということにして、地区のメンバーと四国へ行ってしまったのです。当然、折伏が実るわけもなく、疲れるだけで帰ってきました。学会の流れに呼吸を合わさなければ空転する。嫌というほど思い知らされました。