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常勝大阪 民衆は、かく戦い、かく勝った。

常勝大阪 常勝守口 藤田本部 壮年部
「自身の”不滅の金字塔”を打ち立てる会」  実行委員会(非公式)のブログ

59秒、200数十メートル、観客は5人

2006年01月19日 | 未分類
 そこで一生懸命、毎日毎日研究し、失敗しては人に笑われても、(ライト)兄弟は努力を重ねた。  約3年後に、自分達の研究の結果をためす時がきた。わずか5人の観客だったが、ライト兄弟は飛んだ。たった59秒で260数メートル、それが今日の大航空時代の宣言の日になった。  59秒、200数十メートル、観客は5人。これが革命だ。 【第1回全国未来会 1971-05-03】



3.16まで「あと56日」

デフテック

2006年01月15日 | 未分類
紅白をお見逃しの方に朗報!ここで見れます!! 
こちらはデフテック公式ホームページ


~僕たちは自分のために詩を書いたりしない、誰かのことを思って書いているんだ。 自分が気に入った曲ができても、それがほかの人を思って作った曲じゃないと、自分もすぐ飽きちゃう。 だけど、他の人を考えて応援するような思いをこめて書いたものは、ずっと気に入っている。 そういう思いがきっとみんなにも伝わってCDを買ってくれているんだと思う~ 

【Emergency】の歌詞

『2000年越えて4, 5, 6年経った今でも何も変わらず アメリカ中心に地球は動く  エイジア アフリカ ヨーロッパ フランス ジャパン  チャイナ ロシア アフガニスタンなど 貧富の差がまだまだたくさん 人々 子どもを苦しめ 酷いこともなんなくして見せ 奴らが出す 指令と死ね それを受けて信じたものが消え
 この悪世 濁世 末法の 世の中で 何を信じていけばなんて この地 この国 見つめてりゃ分かる チェ・ゲバラ ガンジー マーチン・ルーサー・キング そこには答えなく ただ突っ走っていく 日本 世界 羽ばたく指導者 』

【Cancio´n de la expansio´n 】

Def Tech からのメッセージ:
毎年、1,100万人のこども達が5歳の誕生日を迎える前に命を落としている事実。 この1曲が、3種類のワクチンとして1人のこどもを救います。「観念」ではなく「実践」で、みんなの思いが広がっていくことを願って。あなたの力を貸してください。 限定トラック「Cancio´n de la expansio´n 」の収益の全てを、Def Techはユニセフを通じて子供たちに寄付します。

歌詞 たぶんこんな内容?

『Far East 東 日出ずる国この島を 目指した人々よ 
 これぞ東洋エキゾチックJapan
 古来Indiaから最高の教え オリエンタル シルクロードを通って今ここへ
 戦争という歴史を持たないのはこれだけ
 その考えのおかげで銃を持たなくていいんだよ
 いいんだよ そんなにかたくなにならずに 
 肩の力を抜く 足を崩して リラックス
 だがいまだあるのは人に対する不信感
 それが取り除かれればいらねえんだ核爆弾
 
 We look, we don’t see
 見てみない振り
 Much hypocrisy
 How can this still be?
 神とは人が越えていく壁  無限の可能性引き出すため  観念の遊戯じゃなくて 実践という経験の中で  本質を見抜く洞察力と 時代を読み取る先見の明を  養うのは yo we are da ladies and gentlemen 』

『先哲が残していったものは徹底的に悪を攻める勇気 (それが慈悲)   相手の気持ちをわかろうとするその思い (同苦)  すべてのものに平等に備わっているもの この生命  目に見えてる世界だけがあるわけじゃないからさ  聞こえているだろう 悲劇の音 嘆きの声 (Oh Eh)  どうせ 俺 とかいうのをやめて  1センチ 2センチでも今いざ動け
 
 We look, we don’t see (we look, but don’t see)
 見てみない振り(見てみない振り)
 Much hypocrisy(そこの偽善者)
 How can this still be? (どうなってんだ)
 神とは人越えていく壁  無限の可能性引き出すため  観念の遊戯じゃなくて 実践という経験の中で  本質を見抜く洞察力と 時代を読み取る先見の明を  養うのは 今だ 我ら青年  拡大 拡大につぐ 拡大』


配信期間終了に際し、メンバーからのコメント:
I would like to share a heart felt thanks with all the people who downloaded our most recent song Cancio'n de la Expansio'n. You have helped many children have a chance at life. Everytime you listen to Cancio'n de la Expansio'n on your ipod you should feel good about life.

Receiving is a great thing ... but giving is even greater. It has been a very successful month of donating proceeds to UNICEF and I would once again like to thank every one involved now that the campaign is finished. Much Aloha and respect for making this campaign with itunes a success.

--Shen

Def Techのオフィシャル、アンオフィシャルサイト問わずサポートしてくれているみんながさらにBLOGにもあつくコメントをよせてくれて、とてつもない盛り上がりを見せている中でできた曲「Cancio'n de la Expansio'n」。 僕の中ではこれだけは、はっきりさせたいという日本人の思いを叫ぶことができた、喉が潰れようが僕の魂は今まで以上に叫べたのは、みんなで協力し合い、目の前で倒れていく子ども達に命を吹き込んでいく人間の力に目覚めたから、だがはっきり言ってまだまだ足りない。 一人余す事なく人が人々を救っていくその時が来るまで、僕は胸の中で叫び続ける。 --Micro

デフテックのブログ



3.16まで「あと56日」

”ゼロゼロ作戦”で「持続は力」を体現

2006年01月13日 | 未分類
関西創価小のモットーのひとつに「基本は力、持続は力」とある。創立者から送られた言葉だ。アンジェリック、ビクトワールのメンバーは04年秋から「ゼロゼロ作戦」を敢行している。
「”ゼロの日をゼロにしよう”という意味なんです。基礎練習に特別休暇は無い、て言うてますねん。やったりやらへんかったりするほうが、よっぽどしんどい。それに一日の空白は怖い。カウントがリセットされ、技術が一気にレベルダウン。そのことを子供たちが言い出した。実感ですよね。『ゼロでなかったらええ』というのは、すごい気持ちが楽なんです。あるメンバーが『熱のあるときで日でも、楽譜を一瞬見るだけなら出来る』というわけです。『それでええやないか』と。ウサギとカメのウサギみたいにガーンといくのは、結局疲れてどこかで休んでしまうんです。その日がゼロではないということ。そして、それをコツコツ続けること。それはすごい自信になるんです」
創立者が指し示してくれた「持続は力」の真の意味。


【『潮』2月号 音楽を通して 人間を育む 関西創価小学校より抜粋】
全国レベルのコンクールにおいて、数々の優秀な成績を残している
関西創価小学校の「アンジェリック・ブラスバンド」と「ビクトワール・合唱団」。
小学生の域を超えた素晴らしい音楽を紡ぎだす、彼らの成長の軌跡をレポート---

フェイク 第665号 発行=06.01.10

2006年01月10日 | 未分類
フェイク 第665号 発行=06.01.10

今も続く妙観講の「早瀬嫌い」
各末寺法華講、大草一派を排除し始める
寺族が「妙観講と一緒に活動するのは間違い」と発言


 妙観講(講頭・大草一男)が現在、呻吟している。大草一派が口を揃
えて法道院に罵詈雑言を浴びせ、早瀬一族を罵倒していた事実が明ら
かになるにつれて、各末寺の法華講支部が妙観講員を排除し始めたか
らだ。「妙観講と手を切るように、住職に言います」等と語るある末
寺住職の女房もいる。
 昨年来の妙観講の怪しい動きを追ってみると――

 妙観講は「合同折伏」と称し、大草一派の勢力拡大を狙って、狡猾
に各末寺の法華講支部への潜入を試みていた。
 たとえば青森市の専妙寺(住職・沼田凡道)、福岡県筑後市の諦聴寺
(住職・近藤恒道)、岩手県花巻市の法王寺(住職・原田篤道)、いわき
市の大華寺(住職・白井運道)、埼玉県草加市の宣行寺(住職・村上節
道)、磐田市の宣正寺(住職・今野信圓)、奈良県奈良市の寧楽寺(住
職・渡邊雄布)、奈良県榛原町の見仏寺(住職・小笠原来道)などに潜
り込み、講中を撹乱しておきながら「新しい風で講中に活気を吹き
込む」等々と各末寺の法華講を欺いていたのである。

 なかでも、宣正寺講中の折伏成果が実らず、講中に疲弊感が漂って
いたことから住職の今野信圓が「妙観講支部にも協力してもらって、
大折伏戦を展開しよう」とバカな提案した。

 妙観講ごときが応援したからといって折伏成果が実る訳がない。
「慧妙」でも「大きな成果に結び付いたというわけではない」と自
白している通りだが、愚かな宣正寺の講員達は「妙観講に様々なこ
とを学んだ」と語っていたという。何を学んだかというと――①殆
ど毎日のように動き回っている②相手構わず対論する③訪問先に多
くの資料を持ち込み都合の良い箇所だけを切り文で使う④学会の主
張に難癖をつけるための間違った勉強を徹底してやっている等だ。
そして「自分達にも対論ができる」と思い上がった考えを植え付け
られた法華講員もいた。

 ところが、本紙「フェイク」(六三六~六三九号、六五三・六五四
号、六五七・六五九号、六六三号)などで紹介した通り、妙観講が法
道院を離籍するため、昭和五十二年当時の主管・早瀬日慈(日如の父
親)を罵り、「法道院の信仰は日蓮正宗じゃないですよ」と 批判し、
小川只道も法道院関係者を指して「大謗法と断ずる」と罵倒。他に
も「(早瀬は)二枚舌」「良心とか信条とかが通じる相手じゃない」
「法道院の信仰では末路が悲惨(地獄に堕ちる)」「早瀬一族から猊
下は出ない」等とさんざん誹謗していた。

 大草一味の「早瀬嫌い」は今も続いており、早瀬の登座直後に発行
した「慧妙」には登座の記事、写真を掲載しなかった。一月一日付では
新旧二人のニセ法主の写真を対等に並べて掲載しているが、日顕がエ
リマキトカゲのような襟を立てた法主の正装なのに対して、早瀬は末
寺住職並みの格好だ。因みに「大白法」は既に十二月十六日付で法主
の正装を身に着けた早瀬の写真を掲載していた。

 妙観講のホームページは九日現在、まだ更新しておらず、新法主・
早瀬の挨拶など一言も掲載していない。こんな大草一派の不穏な動き
を知った各末寺の法華講が「妙観講と一緒に活動するのは間違い」だ
と気付いて手を切り始めたのである。

レジュメ 2006.01.10

2006年01月09日 | 未分類
藤田本部 壮年部 「青年・躍進の年」の取り組みについて

創価学会の創立80周年へ出発の本年。先生は
「この5年は広宣流布の未来を決する、まさに100年に匹敵する重要な大前進の時」
と指導して頂いてます。池田先生という真実の仏法の偉大な師に出会い、
師弟の絆を結んだ事実は、人生にとって無上の幸福であります。
「わが人生こそ創価の正義」「わが前進こそ創価の勝利」
この「青年の心」の瑞々しい自覚と決意で立ち上がる時、真に充実感に満ちた、向上と成長の
日々があり、清々しい「歓喜踊躍」の人生の躍進、広布の拡大があるのです。
我々が青年の気概をもって臨むことが肝要であり、躍進の好機と捉えすべてに大勝利して参りたい。
 祈りを根本とし下記取り組みを行って参りたい。

1 本部 地区部長・B長研修会の開催
 毎月曜日 地区協議会終了後 20:45~21:30 K支部 T会場にて開催
① 潮・第三文明の研鑽
「平和と文化の大城 池田大作の軌跡」の熟読運動
② 大白蓮華「一生成仏抄」の研鑽
③ スピーチ学習
先生のスピーチを毎回の研修会にて拝読(一部抜粋)

2 地区三冠王
従来の地区十勇士を地区三冠王(聖教・唱題・折伏)に!!
① 聖教啓蒙十勇士(SP十勇士)
1部1ポイント推進が出来る十勇士
A) 聖教の熟読・切り抜き運動の実践
B) 毎週の協議会で担当を決めスピーチ研鑽等の実践
C) 切り抜き・贈呈運動の実践
② 唱題100万遍十勇士(SD十勇士)
年間100万遍唱題の十勇士
 A) 唱題表の活用(拠点等への張り出し)
 B) 各部部の日(毎木曜日)の壮年部唱題会の開催
③ 折伏十勇士(SS十勇士)
成果ではない結果の折伏の十勇士
昭和31年の戦いより50周年の本年、壮年部50世帯(本部)の達成
 A) 地区祈りリスト100の作成
    友人・知人の無事故・健康をまず祈る
 B) ペアによる仏法対話
   1世帯以上(2年以内)出来た十勇士とのペアで仏法対話
 C) 仏法対話十勇士(BT十勇士)学習会等の開催

さあ、栄光の学会創立80周年へ!! 先生とともに、悔いなき「躍進の歴史」を開いてまいりましょう!

若き日の日記

2006年01月09日 | 未分類
■昭和26年1月6日

 十一時三十分、先生宅。薄ら寒い正月。先生と共に、会社等の書類の整理。

 一晩中、先生宅にて、種々お手伝い。及び指導、薫陶を賜(たまわ)る。先生の、なみなみならぬ決意をひしひしと感ずる。

 先生は、正成(まさしげ)の如く、吾れは、正行(まさつら)の如くなり。

奥様は、落涙。此の日の、感動、厳粛、感涙、使命、因縁、生き甲斐は、生涯、忘るることはない。

後継者は、私であることが決まった。  激越の、年も刻々と明けて来た。いかなる苦悩にも打ち勝ちて、男らしく、青年らしく、若人らしく、本年も戦いきろう。  学会も、会社も、黎明の年であれ。


■昭和26年1月7日

未来、生涯、いかなる苦難が打ち続くとも、
此の師に学んだ栄誉を、私は最高、 最大の、幸福とする。


【『若き日の日記』(上)/『池田大作全集』(36)】

「世界のトヨタ」の目覚ましい発展の要因

2005年11月29日 | 未分類
【聖教新聞17年11月29日付け掲載記事】
一、創価大学の人気の講座の一つに、「トップが語る現代経営」がある。日本を代表する企業や各界のトップの方々が、自らの経営哲学などを語る講座である。
10年前の開設以来、通算156回の講座が開催されたとうかがった。
うれしいことに、来学されたトップの方々も、創大生の真剣な姿勢や聡明さを讃えてくださっている。
年間1兆円を超える利益を計上する、世界的企業のトヨタ自動車の首脳も、この講座で講義をしてくださった。
一、「世界のトヨタ」の目覚ましい発展の要因は、どこにあるのか。
さまざまな角度から論じられるが、“常勝トヨタ”を支える特徴として、「着実な経営方針」「危機意識の高さ」「改善に改善を続ける自己変革能力」などが指摘されている。
トヨタでは「3年間、何も変えなければ会社は潰れる」とまで言われる。奥田碩(ひろし)会長自らが、「変えないことは悪いことだ」と言い切り、社員が常に問題点を指摘しあって、改善への努力を続けている。
すごいことである。
ここに「変化の時代」を生き残るための道がある。企業のみならず、あらゆる団体が学ぶべき姿勢であろう。
トヨタでは、各現場から、じつに年間60万件もの改善の提案がなされる。そして、そのうちの90%以上が、実行されているという。
トヨタの合言葉である「カイゼン(改善)」は、今や世界中に知られる国際語となった。自身を常に変革していく勇気――それが、トヨタの世界的な躍進を可能にしているのである。
トヨタの張(ちょう)富士夫副会長も、「人間の知恵には限りがない。だからカイゼンも永遠に続く」と述べておられた。
張副会長は、社長在任中の2001年2月、聖教新聞の創刊50周年を記念する祝賀会に出席してくださった。
その際、「活字文化」の発展に貢献する聖教新聞に、大きな期待と賞讃を寄せてくださった。
一、毎日が戦いだ。
毎日が進歩のための闘争である。改善のための改善ではなく、勝利のための「改善」である。価値を生むための「改善」に取り組むことだ。生きた「改善」を繰り返していくことだ。それが、勝つための法則である。
今いる環境に安住して、新たな挑戦の行動を起こさなければ、その団体はやがて滅びていく。
大切なのは、常に自身を変革していくことだ。私たちでいえば「人間革命」である。
自らをつねに新たにし、成長させていくのが、我らの信仰である。そのための最高の方法が、唱題であり、学会活動である。
一、トヨタ自動車の創業者・豊田喜一郎氏は述べておられる。
「立派な工業も一朝一夕に出来たものではなく、多年の苦心と経営に依ってなり立っているので、裏長屋の様な所で一生研究に没頭して居る幾多の人々の、努力と云う土台の上に築き上げられたものである事に気付いている人は少いのを遺憾と思う」
「屋根の美しさを羨望するあまり土台を築く事を忘れてはならない」(和田一夫編『豊田喜一郎文書集成』名古屋大学出版会、現代表記に改めた。以下同じ)
いい言葉である。
学会も、陰で黙々と頑張ってくださる方々がいたから、ここまで発展してきた。
全同志の血のにじむような奮闘のおかけで、世界的な学会となった。地道に戦ってくださる会員の皆さまが、一番、尊いのである。
一、自動車生産を始める以前、優れた自動織機の製作に取り組んでいた豊田喜一郎氏は、こうも述べておられる。
「人はなんでもよい、ある一つの点に関しては世界の誰にも負けないものをもつことが大切だ。自分は自動織機に関する限り、世界の誰にも負けない自信がある。
この自信があるから、新しい事業をやるときにも、一たん確信がつけは、どこまでも突進していけたのだ」
なにか一つでいい。だれよりも秀でたものを持て――戸田先生も、このことを言われていた。
さらに豊田氏の言葉を紹介したい。
「吾々の文明を吾々自らが開拓する所に吾々の生命の活路があり、前途の希望が生じ従って人生の快味を感じ、又人間としての生甲斐を感するのである」
「発明は議論より生するものではなくして、実行によって生するのである」
重要なのは行動だ。自らの行動で、道を切り開いていくことだ。
どうか全リーダーが先頭に立ち、新たな大前進への波動起こしていっていただきたい。
〈トヨタの経営哲学については、編集部でまとめる際、片山修著『誰も知らないトヨタ』幻冬舎、同『トヨタはいかにして「最強の社員」をつくったか』祥伝社、『トヨタ式孤高に挑む「変革の遺伝子」』日本経済新聞社などを参照した〉

「我勝てり!」と愉快に進もう!

2004年05月27日 | 未分類
 動くことが広宣流布

 第3回の闘争は、年明けの32年1月21日から始まった。
 ― 32年といえば、戸田第2代会長が、「荒海の 鯱にも似たる 若人の 広布の集い 頼もしくぞある」と詠んだ“75万決着の年”である。
 最後の山口闘争の期間は、わずか5日間。総仕上げをいかに戦うか。
 名誉会長は動いた。動くことが広宣流布、人の心を動かすことが勝利である ―「二十一日、山口県東端の岩国市にやってきて、二十二日徳山、二十三日防府、二十四日宇部、二十五日下関と瀬戸内を西へ移動しながら、総仕上げの指揮をして組織を作っていった」(小説『人間革命』)。


■証言 (藤井秀子さん=当時・文京支部部隊幹事)
 山口市の斎藤旅館を拠点にして戦いました。先生が来られると新来者を連れに飛び出し、連れてくると、「先生お願いします」とまた飛び出していく。楽しくて仕方がありませんでした。
 お金がないので昼食抜きでしたが、3度の食事など贅沢だと思っていましたから、元気いっぱいでした。
 文京支部は340世帯という大きな成果をあげることができました。皆が「先生!」「先生!」と、全力で先生を求めて戦った結果でした。
 成果があがらず苦労していた一人に、先生はおっしゃいました。
 「東京でうんと題目あげてきた人は、ここで結果が出るよ。ここで結果が出なくても、今、本気で戦った人は東京で結果が出る」
 彼女は本気で祈り戦い、先生の言う通りになりました。


 満天の星

 京都支部の班担当員だった西村シズさん(故人)が手記を綴っている。「見知らぬ土地で一軒一軒、訪ね歩いた。ほとんどの人がそっぽを向く状態だった。辛い嫌な思いを何度もした。しかし、先生と共に戦っているという誇りが喜びと勇気に変えた。
 数日後、先生が私たちの拠点に来てくださった。『学会と共に戦っていくなかに宿命転換ができるのですよ』。その先生の言葉を聞いてからは楽しくなった。弘教に弾みがついた。
 ある日、先生を駅までお送りした。途中、先生を囲むようにして『人を恋うる歌』を歌った。空には満天の星が輝いていた。先生との戦いのなかにしか本当の喜びはないと確信した」


■証言 (白井登志恵さん=当時・小岩支部地区担当員)
 先生を囲んでの懇談のひととき。突然、先生が「窓を開けてごらん」と言われました。窓を開けると星がきらめいていました。それまで星を見上げる余裕などありませんでした。「天地一体不二の理だ」。先生はそう言われ、身振り手振りを交えて語り始められました。
 「頭の円かなるは天空にたとえ、つぶらな瞳は日月にたとえ、そのまばたきは昼夜に、髪の毛は夜空に輝く星に、鼻は渓谷に、吐く息は風を意味している。おなかが温かいのは春と夏に、背中が冷たいのは秋と冬に、体の大きな12の節は12ヶ月、小さな節は360と、1年に通じているのです。この大自然と私たちの生命は同じなのだよ」
 生きることに必死だった私たちは、ロマンあふれる話に言いようのない感動を覚えました。忙しいからこそ心に余裕をもてと教えられたのです。


 強い人間になるには

 32年1月25日夜、山口闘争を締めくくる会合が下関で開かれた。下関旅館共同組合で開催された「各支部合同総会」であった。友人も含め400人が参集。闘争を開始した10月からは想像もできない結集であった。
 司会は梅田支部の地区幹事の故・柏倉武さん。あがってしまい、しどろもどろだった。
 「ああ、あなたですね。組長から一躍、地区幹事になったのは。日本で一番弱い地区幹事だったかいな」。名誉会長のユーモラスな一言に、会場は爆笑。司会も気が楽になった。
 終了後、柏倉さんは名誉会長の所に行った。彼は、自分の弱さに悩んでいた。「どうしたら強い人間になれるでしょうか」。名誉会長は答えた。
 「それには勇気と確信です。どんな逆境に直面しようが、信心根本に、勇気と確信をもってやり抜くことです」


■証言 (田中稔さん=岩国市・当時入会3ヶ月)
 1月、先生が岩国に来られた時のことです。山口への訪問も3回目となり、経済的にも大変だったのでしょうか、先生のお食事はとても質素なものでした。
 ご飯とみそ汁とかまぼこが少し。お茶を差し上げると、熱いご飯にザーッとかけて、サラサラッと見事な速さでかき込んでしまわれました。
 2杯目も同じようにされたので、「先生、そんな召し上がり方では、お体に障ります」と申し上げてしまいました。「悪いと分かっていても、次にやらなきゃいけないことがあって、急いでしまうんだね」と笑っておられました。すべての先頭に立たれる先生の激務がどれほど大変なものなのか。この時初めて知りました。


■証言 (桑名義治さん=当時・志木支部隊長)
 めずらしく先生が「疲れたな、きょうは」と漏らされました。当時、大学の陸上選手だった私は、先生の肩をもませていただきました。
 肩は鉄板のようでした。どれほどお疲れだったか。指先から伝わりました。「イタタッ」と先生。「壊さないでくれよ」。「ハイッ」と元気いっぱい返事しながら、胸が熱くなりました。


 「この1年間が大切です」

 掉尾を飾った「各支部合同総会」で、多くの班長・班担当員が誕生した。名誉会長は指導した。
 「この地から、高杉晋作、久坂玄瑞など日本の夜明けを告げる人材が出た。この戦いに参加した人が火の手をあげ、維新を越える創価の歴史を残してください」
 翌朝、下関の彦島方面の6人が東陽館にあいさつに行った。その時、名誉会長は決意を披歴するように言った。
 「この1年間が大切です。しっかり頑張りなさい。75万をやり遂げるのです。私が全責任をとります!」。


■証言 (寺井英治さん=当時・松島支部地区幹事)
 山口闘争からの帰途、大阪に寄られた先生が、派遣メンバーとの懇談の機会をもってくださいました。
 「歌を教えよう」― 先生が一節ごとに歌われ、あとに続いて私たちも歌いました。 
 「君が愁いに 我は泣き
  我が喜びに 君は舞う
  若き我等が 頬に湧く
  その紅の 血の響き」
      (沼間晶教・作詞)

 それは、「嗚呼 黎明は近づけり」という歌で、後に学会の愛唱歌になった旧制・大阪高等学校の寮歌でした。
 歌っているうちに、先生が伝えんとする学会精神が命の奥底に響いてきました。みんなの目から涙があふれ出てきて、涙を拭うのも忘れていました。
 黎明は近いぞ! この壁を破れば広布はできる! 苦闘する同志と団結して戦え! 先生の「魂の叫び」が届きました。



 弟子が歴史を残した山口闘争。この闘争の残したものは何であったか。
 それは、世帯の「10倍の拡大」という誰もが驚嘆する結果であった。
 だが、その偉大な結果も、目に見えた“一つの炎”であった。まだ、目に見えない“燎原の炎”が、そこには隠れていた。名誉会長と初めて出会い、薫陶を受けた派遣メンバーが地元に戻った後に、それが分かった。山口闘争は単なる「一地域のための闘争」ではなかったのだ。
 「蒲田支部」「文京支部」「札幌」「第1部隊」「大阪」と、今まで限られた地域の同志がつかんだ名誉会長との“絆”“呼吸”― この壁を破る「巨大なエネルギー」が、派遣メンバーを通して、全国各地で爆発した。
 「燎原の火」は、師の「75万の願業」達成への「広布の炎」となっていく ―。

戦いは、執念 勝敗は決着力!

2004年05月27日 | 未分類
 団結とは一人立つこと

 団結とは、妥協することではない。一人立つことである。名誉会長は指導している。
 「“一人立つ”ということと、団結とは、一見違うように思えるが、実は全く同じものである」。責任をもって一人立つところにしか団結は生まれない。これが勝利への力である。


■証言 (永瀬好蔵さん=当時・志木支部班長)
 志木支部の私たち6人のメンバーは、3日間戦っても成果は出ませんでした。先生は、そんな私たちの所に激励に来てくださいました。
 先生の指導を受けたその日、なんと6世帯の弘教が実りました。嬉しくて、先生に電話で報告しました。先生はおっしゃいました。
 「この成果を支部長に報告しましたか。寝ないで君たちの連絡を待っているよ」と。
 駅まで見送ってくれた支部長のことを、すっかり忘れていました。すぐに支部長に電話しました。
 連絡を心待ちにしていたとのこと。順番に報告して、みんな声を詰まらせました。先生の心が分かったからでした。団結の大切さを教えてくださったのです。


 1枚の写真

 11月16日、柳井市の開作屋旅館で撮られた一枚の写真がある。
 撮影者は、写真館を営んでいた平本ヤエ子さんの夫・勝さん。10月に入会した彼女にとって、信心反対の夫のことが悩みであった。
 そのことを名誉会長に話した。名誉会長は言った。「みんなの記念写真をご主人に撮ってもらおう」と。御書講義終了後、記念撮影会となった。


■証言 (平本ヤエ子さん=柳井市31年10月入会)
 夫は、機材を持って旅館にやってきました。先生の真心に本当に恐縮しました。
 先生は私を激励してくださいました。「ご主人は、必ず信心される時が来ます。頑張りなさい」と。そして、その通りになったのです。


■証言 (平本勝さん=柳井市32年1月入会)
 「写真を撮ってほしい」との妻の伝言で、私は出かけました。
 先生は宗教の誤りについて講義されていました。講義の途中、私が反論すると、「あなたは仏法を知らないのです」と毅然として破折されました。「紙に書かれたものを拝んで、どうして功徳があるのですか」と尋ねると、こうおっしゃいました。
 「紙に書かれてある内容が大事なのです。千円札をあなたは恋しく思うでしょう。それは、千円札に力があることを知っているからです。御本尊様も同じです。あなたには読めないが、どんな人も幸せにすると書かれてあるのです」と。
 私は納得し、写真撮影をさせていただきました。それが、あの偉大な闘争の1枚になろうとは思いもしませんでした。


 2ヶ月後の32年1月、勝さんは入会。まもなく徳山を訪れた名誉会長のもとへ勇んで駆けつけた。その折、彼は名誉会長に「地域のことで心配なことがあります」と、また質問をした。
 名誉会長は言った。「あなたが変えていけばいいのです」。勝さんは驚いた。“一介の写真店主に何ができるのだろうか”と。
 しかし後に勝さんは市会議員となり、地域社会に貢献することとなった。


 「やりましょう!」の一言

 徳山のちとせ旅館でのこと。名誉会長は一組の夫妻に語りかけた。夫は入会決意をしたが、夫人が反対していた。
 「何か質問はありませんか」と尋ねる名誉会長に、「ありませんよ、何も」と夫人。彼女の顔は喘息の薬の副作用で腫れ上がっていた。
 「どうされましたか」と名誉会長は、「病の起る因縁を明すに六有り…」(1009ページ)を引き、丁寧に話をした。
 それでも彼女は、「御書や御本尊は、後の人が勝手に書いたんでしょ」と言う。「それでは歴史を否定することになりますよ」。名誉会長は理路整然と語った。
 次の防府へ向かう列車の時間が迫っていた。玄関まで出た名誉会長は、最後に力強く言った。「やりましょう!」。その瞬間、彼女の命が揺さぶられた。「ハイ」と答えていた。


■証言 (益永初代さん=山口市31年10月入会)
 主人がひどいリューマチで苦しみ、一緒に入会しました。しかし夫はまだ疑っていました。
 先生が山口に来られた時、「科学万能な時代に宗教など必要ありません」と夫は反発しました。しかし先生は、そんな夫にも「病気は治ります!」と、すごい確信で言われました。
 翌月、再び先生にお会いしました。「病気はどうですか。この前より顔の相が良くなりましたね」と言われた先生に、「顔の相と信心とどう関係あるのですか」と、失礼にも、また屁理屈をこねたのです。そんなへそ曲がりの夫に、先生は再び真心から答えてくださいました。
 それからの夫は、生き生きとして、人が変わったようになりました。真面目に信心するようになった夫のリューマチは徐々に回復しました。以来、夫が先生にお会いできる時は、下着から背広まで新調して出かけました。


 一通の手紙

 それから5年ほど経った時であった。リューマチが再発。増永さんの夫・蔵一さん(故人)が名誉会長に手紙を書いた。しかし、指が動かないので、夫人が代筆した。
 後日、一通の手紙が届いた。名誉会長からであった。
 「本日、芳書を頂戴し、びっくり致しました。さぞ苦しいことでしょう。自ら作った罪業は、当然、今世に済ますのが道理です。いまの病も実は、護法の功徳力により、軽くすんでいる事を自覚すべきです。一点の濁りもなく、しっかり御本尊を抱きしめて、人間革命を、宿命打開をされますことを胸奥より祈っております。
 長い長い人生です。声高らかに題目をあげ、苦をば苦とさとり楽をば楽を開いて、必ず必ず来る春を待つことです。ゆうゆうと闘病生活をされ度しです。皆勉強と思って。御書に云く『法華経を持ち奉るとは我が身仏身と持つなり…さて仏身を持つとは我が身の外に仏無しと持つを云うなり』云々。成仏の出来得る大法を受持して何で病魔に負け得る事がありましょうや、大兄の元気な身体を、顔を楽しみに」
 長文の真心こもる返事に、二人は滂沱の涙。師に再起を誓った。


 「病に負けた心」を克服!

 萩での座談会でのこと。肺結核、腎臓結核、卵巣嚢種などで8年間も苦しんでいた婦人が参加していた。まだ入会1ヶ月の伊藤時枝さんである。
 「この信心で病気が治りますか」と彼女は質問した。彼女を見た名誉会長は言った。「あなたは病気ではありません。絶対に治ります」。


■証言 (伊藤時枝さん=萩市、31年10月入信)
 私は、指導の意味が分からなくて、翌朝、先生が泊まっておられた高木屋旅館を訪ねました。「本当に治るんでしょうか」。もう一度伺いました。
 先生はおっしゃいました。「絶対治ります。治る方法を教えます。折伏をすることです。信心させたい人をここへ連れていらっしゃい」。3人の友人を誘って、また伺いました。
 3人はその場で入会しました。「きょうから、この3人のお姉さんはあなたですよ」と言われました。私は大変なことになったと思いました。もう病気だと言って、寝ているわけにはいかなくなったからでした。
 後になって、「あなたは病気ではない」と言われた意味が分かりました。「私は病気だ」と病気に負けていた心を先生は切ってくれたのです。
 3年後、大阪で先生にお会いしました。「元気になられましたね」。私を見るなり先生はおっしゃいました。あれから4ヶ月後に病気が治ったことを報告しました。


 忘れた杖

 志木支部の地区担当員だった故・井桁ハナさんが思い出を綴っている。
 井桁さんは年輩の婦人を入会させた。半身不随だった婦人だが、信心すると手が動くようになり、翌日には杖をついて歩けるようになった。彼女は喜んで座談会にやってきた。
 「先生の指導が終わり、彼女を探すと、姿が見えません。玄関に行くと、そこに彼女の杖が残っていました。翌日、彼女の家に行ったら、『忘れてしまった』と言っておりました。杖なしで歩けるようになっていたのです。御本尊の功徳のすごさを感じました」


■証言 (小林宏さん=当時・築地支部隊長)
 部隊長に「山口闘争に参加しないか」と言われ、二つ返事で参加することにしました。ところが、大学4年生だった私は、就職試験と10月の山口闘争とが重なってしまったのです。当時は、深刻な就職難でした。私は悩み、闘争参加を諦めました。
 試験は不合格。就職が決まらないまま、11月からの山口闘争に参加しました。築地支部だった私は、岩国で必死に戦いました。
 闘争を終えて東京に戻った年末、願ってもない所に就職が決まりました。「自分のこと」より、「先生との戦い」に覚悟を決めて挑戦したら就職に勝利したのです。人生のあり方を教わりました。


「中途半端」を排せ! 勝利はそこにある

2004年05月27日 | 未分類
 真剣に戦った功徳は絶大

 名誉会長が出席した下関の会合でのこと。一人の壮年が質問した。
 「勝負事が好きなんですが」。名誉会長は答えた。
 「何事をするにも中途半端は負け戦です。今回の闘争を真剣に戦った人の功徳は、絶対に現実生活に現れます。御本尊への真剣な祈りは必ず叶います」。大確信の言葉であった。


■証言 (岩本和子さん=山口市31年12月入会)
 パチンコなど賭け事が好きな夫が、「真面目に仕事ができるようになりたい」と31年暮れに入会しました。翌月、夫は班長の任を受けました。
 その時、先生に「班長として、どう戦ったらいいか分かりません」と質問しました。先生は、「学会から絶対に離れてはいけない」「班長として日本一になるのです」とおっしゃいました。
 「仕事は」とも聞かれたそうです。「氷屋です」と夫が答えると、「日本一の氷屋になりなさい」と。夫は大喜びで帰ってきました。それから夫は賭け事を一切やめ、職場で信頼される存在になりました。


■証言 (桑名義治さん=当時・志木支部隊長)
 先生が山口市に入られた時のことです。山口市の派遣メンバーは1世帯の折伏も実っていませんでした。
 朝の出発で先生は、昼の1時に集合することを約しあって散会させました。旅館を出る直前、先生に呼び止められました。「みんなが集まる時に必ず新来者を連れて来なさい」。― 私は必死になりました。執念で知人の映写技師を折伏しました。入会の決意を固めさせて昼の会合に連れ出せたのは私一人でした。
 先生はおっしゃいました。「広宣流布を進めるだけではないのです。今、戦うことは皆さん方の幸せにつながっていくのです。法のために尽くすこと一切合切が功徳善根につながっていくのです。この青年は、昨日、私と来たんです。それでも今日、折伏をしました。この一念が大事なんです!」
 今の戦いが自分の功徳となる ―。やらされているような中途半端な信心を先生は鋭く指摘されたのです。足が地面にピタッと着きました。その日、30数世帯が実りました。


 旅館の女将の入会

 11月17日のことである。徳山のちとせ旅館に名誉会長が到着した。そこは梅田支部の派遣員の拠点であった。
 この日、彼らは女将の大川ツネ子さん(故人)に言った。「きょう、偉い人が来ますから話を聞きませんか」。
 夕方、到着した名誉会長は、魚を焼いていた女将に深々と頭を下げた。「女将さんですか。大勢で押しかけて、ご迷惑のことでしょう。お世話になりますが、宜しくお願いします」。
 「普通の客とは違う」と女将は思った。会合に参加してみると、先ほどの青年が中心で堂々と話していた。女将の大川さんは、その場で入会した。


■証言 (森下日出子さん=徳山市32年1月入会)
 ちとせ旅館の女将が入会する場に私もいました。
 先生が東京に帰られる時、派遣員の方に花瓶を買ってくるように言われました。買ってきた花瓶は、先生が思われていたものとは違った様子でした。
 粗末なもので申し訳ありませんが、泊めていただいた記念に女将さんに差し上げます」。名誉会長はその花瓶を贈られたのです。
 私はびっくりしました。先生は、本当はもっといい花瓶を贈りたかったのではないでしょうか。先生の誠意の深さに感動しました。


■証言 (北風達子さん=当時・福岡支部部隊長)
 防府の旅館でのことです。先生から「仲居さんは何人いるか、聞いてきてください」と言われ、調べて報告しました。
 「じゃあ、何がいいかな」と先生はつぶやかれました。先生は自ら買い物に出られ、私もお供させていただきました。チューリップ型の黒い花瓶を仲居さんの人数分買われました。
 「どうして人数分いるのですか」と伺いました。先生は言われました。「みんなが訪ねて着いた時、応対に出るのは仲居さんです。それもお付きの仲居さんだけとは限らないだろう」。
 そこまで気を配られる先生の思いの深さ、温かさ。会員のために、徹底して心を尽くされるのが先生の行動なのです。


断じて一人も不幸にしない!

2004年05月27日 | 未分類
 山陽広布の黎明の聖鐘を

 名誉会長は、11月も1日1都市という強行日程で、列車に飛び乗り、市から市へ。15日は岩国。 16日は柳井。17日は徳山。18日は防府。19日は宇部。20日は山口、そして初訪問の萩。21日は萩、夜には下関。「法華経を行ずる日蓮等が弟子檀那の住所はいかなる山野なりとも霊鷲山なり」(811ページ)。名誉会長は、奮闘する“霊鷲山の友”と「魂の交流劇」を綴っていった。


■証言 (河村文生さん=当時・向島支部隊長)
 岩国市の隣、玖珂郡出身の私は、郷里の母や姉を折伏しました。山口闘争の1年前のことです。
 山口闘争の折、母と姉が先生のおられた岩国の松秀食堂に駆けつけました。しかしすれ違いでした。残念でした。ところが、宇部に移られた先生に、その報告が届いたのです。
 「山陽広布の黎明の聖鐘を打とう 昭和31年11月19日」― 先生は、ご自身が認められた揮毫を「その人に渡してください」と託されたそうです。


■証言 (星谷弘子さん=河村文生さんの姉・岸本ミヤエさん〈故人〉の二女)
 幹部の方が先生の揮毫を持って母・ミヤエの所に来られました。その時、その幹部の方は、「この揮毫は宝だよ。今回の闘争のために先生が書かれ、泊まられた宿舎の床の間に掛けられていたものだよ」と言われました。
 タテ110センチ、ヨコ81センチの大洋紙に書かれた大きな揮毫でした。
 辺地で戦う母らをなんとしても励ましたい ― その先生の心に応え、母は頑張りました。3日後、母の家には10人以上の友が集いました。1ヶ月で40世帯の弘教をやりきりました。


 人の幸せを祈る

 徳山で名誉会長は指導した。
 「幸せになるためには、自分の幸せを祈るだけではいけない。人の幸せを祈るのです」
 そこに、1歳の子どもを連れた婦人が参加していた。婦人はちょこちょこ動く子どもに気を取られていた。
 名誉会長は言った。「あなたは子守をしに来たのですか。話を聞きに来たのなら、私が子守をしてあげましょう」。名誉会長はその子を自分のひざに抱き、テーブルにあった菓子をあげ、指導を続けた。
 人の幸せのために自分の労を惜しまない ― 参加者は、名誉会長の温かい人間味に、間近で触れていった。


■証言 (北風達子さん=当時・福岡支部部隊長)
 先生が青年部を食事に招待してくださったことがあります。先輩が食事の作法のことで注意されました。
 先輩が叱られたことを母に伝えると、母は言いました。「何も分からないお前は、まだ厳しく叱られることはないわね。退転してしまうもの」。
 あくる日、「私を叱ってください」と先生に訴えました。先生は笑っておられました。そして「指導には4種類ある」と言われました。
 一つは、純粋無垢の時は褒め称えればいい。二つ目は、ある程度、分かってきたら叱咤することも指導となる。三つは、かわいそうな人には温かく擁護すること。四つ目が信心指導。この四つを間違ってはいけない、と。
 そう語られたあと、先生は、「子どもが生まれたばかりで離婚してしまった若い婦人が、これから指導を求めてくるんだよ」と言われました。その婦人のために「果物を買ってきてほしい」と私は頼まれました。
 もう、これ以上できないというほどの先生の大激励に、婦人は頬を紅潮させて再起を誓っていました。


 志が人間をつくる

 下関での青年部懇談会でのこと。名誉会長は「青年訓」を引いて語った。
 「青年部がこれからの学会の中心です。青年は金と暇があったら駄目になる。人間革命し、人格をつくることが第一です。貧乏こそ無形の財産です。『志が人間をつくる』のです」


■証言 (阪井貞子さん=当時・堺支部部隊幹事)
 先生との懇談会でのことでした。屋台のうどん屋の笛の音が聞こえてきました。「ごちそうしよう」。先生は一人ひとりから注文を取ってくださいました。しかし、買いに走った人から「売り切れでした」との報告が。先生は残念な表情を見せておられました。
 先生は青年の成長を待っておられたようでした。その期待に応えようと弘教に拍車がかかりました。私たちは目標の50世帯の弘教を達成しました。


■証言 (早河寿美子さん=当時中学生)
 下関の東陽館での会合に、私は母に連れられて参加しました。
 先生はおっしゃいました。「僕は忙しいので、自宅でゆっくりしたことがないんだよ」。家族のことも話してくださいました。「奥さんが琴を弾くんだよ。月夜の夕べ、わが家は琴の演奏会になるんだよ」。
 熾烈な戦いをされている先生の心は、なんと豊かなんだろう。わが家では考えられないことでした。顔を紅潮させている私に、先生は名前を聞いてくださり、声をかけてくださいました。「中学生かい。明日、学校がすんだら宿題をもっていらっしゃい。見てあげるよ」。何とやさしい方なのだろう。心から感じました。


 目の悪い青年

 下関の東陽館での指導会に、目の悪い青年が参加していた。
 彼は中学生の時に目を悪くした。当時、目が悪いことが理由で失業していた。そのことを知った名誉会長は言った。
 「とにかく願いなさい。一つ一つ願っていきなさい。いきなりいい仕事につけなくても、徐々にいい仕事が見つかります。目が悪くても絶対に守られます。信じきって祈るのです。そして折伏しなさい」
 その一言が青年を支えた。その後、手術を受け、彼の視力は回復した。


■証言 (中山善次さん=当時・福岡支部隊長)
 山口で先生に指導を受けました。肺結核でピンポン玉大のプラスチックが10数個、左胸に入っていると申し上げました。
 「体は宝器だから大事にして、しっかり広宣流布のためにがんばりなさい!」と先生。すごい迫力に思わず「ハイ!」と返事をしました。
 恥ずかしながら宝器の意味を知りませんでした。“なぜ箒が大事なのか”と思いながらも折伏に走りました。あとで宝器だと分かり、深い感動を覚えました。


 一献差し上げましょう

 宇部でのこと。一人の壮年が「炭鉱で働いています」と名誉会長に報告した。名誉会長は答えた。
 「炭鉱は危険ですから気をつけてください」。そしてこう続けた。「一献差し上げましょう」と。名誉会長は自ら手配をした。
 壮年は、コップになみなみとつがれた酒を飲み干した。心を動かされた。「この人についていこう!」。人の心を動かすのは、「言葉」ではない。真心の「行動」である。


■証言 (松井義明さん=当時・松島支部地区幹事)
 防府市で戦っていた私たち松島支部の拠点・その家旅館にも先生は来られ、泊まってくださいました。
 朝食の際、2階の一室に運ばれてきたおひつを先生が取り上げられました。そして、私たち一人ひとりに、ご飯を盛ってくださったのです。おかわりをしようとすると、また先生がよそってくださいました。恐縮のいたりでした。人生最高の思い出です。


■証言 (小橋教子さん=萩市 当時・小学4年)
 パンの製造業を営んでいたわが家に、突然、先生をお迎えし、座談会を開催した時のことです。
 帰られる間際、母が私に「手伝って」と言います。母はミカン皮の砂糖菓子を必死で袋に詰めていました。それを先生にお渡ししました。先生が帰られたあと、母は悔やんでいました。「準備ができなかったので、くず菓子しかお渡しできなかった」と。
 3年後、父が先生にお会いしました。「あの時のお菓子は美味しかったよ」と先生。私たちの真心を心にとどめてくださっていたのです。


■証言 (弘 教満さん=萩市 当時2歳)
 わが家に先生が来られた感動で、母は萩中を弘教に歩きました。私も母の手に引かれて行ったそうです。
 昭和48年、私が創価大学に進学した年の暮れでした。先生から突然、句をいただきました。
 「懐かしき あの家ありて 今日の指揮」。この時、私も萩広布に生きようと誓ったのです。


■証言 (田中稔さん=岩国市、当時・入会3ヶ月)
 わが家はクリーニング屋でした。そのことを先生に報告すると、先生はご自身のワイシャツを3枚出してくださいました。
 翌日、お届けに上がった時のことです。「代金はいりません」と言うと、先生は「商売は商売。信心は信心だよ。けじめをつけて、お店を繁盛させていくんですよ」と。
 90円の代金なのに100円いただきました。人間的な先生の振る舞いに深く感動しました。


苦闘を突き抜けよ!そこに喜びが!

2004年05月27日 | 未分類
 格好などいらない

 宇部市で活動していた岡山支部の友 ― 思うように戦いが進まない。ある友は、小高い丘に立って悩んだ。眼下に宇部市街が見える。「この下に18万人の人がいるのに、なぜ折伏ができないのか」。悔し涙で唱題した。
 大阪・船場支部でも同じであった。折伏できた友の姿を横目で見ながら、折伏できない友は、自分のふがいなさを嘆いた。田んぼの稲穂に潜り込み、ひとり涙を流した友もいた。
 弘教で悩んでいる一人の青年を名誉会長は励ました。
 「青年が格好つけていては戦いは進まない。勝つためには見栄や気取りを捨て、阿修羅のごとく戦うのです。私は、銀座のど真ん中を大八車を引き、雪の降るなかをシャツ一枚で折伏をやり抜いたのです」


■証言 (田代美津子さん=当時・岡山支部部隊長)
 折伏が一向に進まない時でした。私は公園の椅子に座り、悩んでいました。
 ひょっと見ると、向こうに、寝ころんで空を見ている人がいました。
 なんとその人も折伏できずに悩んでいた派遣メンバーだったのです。私たちは腹を抱えて笑ってしまいました。
 その話を先生に報告すると、「同病相憐れむだね」と笑っておられました。そして「楽しくやりなさい!」と言われたのです。おかげで、苦しかった戦いも楽しい闘争となりました。


 足立った!

 京都支部の班担当員のところに電報が舞い込んだ ―「アシタツタ」。
 意味不明の電文を見て、発信地を電報局に問い合わせた。下関であった。
 思い出した。折伏した下関の婦人からであった。彼女は5歳の子の足が立たないことに悩んでいたのである。
 「足立った」― 班担当員は「この信心はすごい」と確信。嬉しくなった。「苦労してよかった」と。


■証言 (嶋住タミさん=下関市 当時・班担当員)
 下関の東陽館に先生を訪ねました。入信3ヶ月でした。貧乏で、体調の悪かった私は「元気になれば、なんぼでもやります」と役職を辞退するつもりで出かけたのです。2階の部屋に主人と先輩の3人で入りました。
 部屋の端にいる私に、先生は黙って畳をトントンとたたかれました。近寄るようにという合図でした。ちょっと前に出るとまたトントン。ついに先生の真ん前まで進みました。
 先生は「やればできるよ」と言われました。何も説明していないのに面食らいました。どう返事をすればいいか迷っていると「仏意仏勅で戦うのです」と凛とした声でおっしゃいました。
 家に帰り、後悔の念でいっぱいになりました。御本尊の前に座ると、涙が止まりません。「先生、申し訳ありません」。この時から、私の宿命転換の戦いが始まったのです。


 列車から手を振る

 仙台支部の班担当員が岩国市内を弘教に歩いていた。足がむくみ、足裏にはマメができた。それでも戦いきり、目標の5世帯を達成した。
 10月18日のこと。駅前を歩いていると、向島支部の幹部に出会った。名誉会長がまもなく岩国駅を通るという。一緒に駅のホームへ。名誉会長は宇部から東京に戻る途中であった。
 彼らの姿を見つけた名誉会長は列車の窓から手を振った。そして1、2分の停車にもかかわらずホームに降りて激励した。会員を励ますことが広宣流布 ― 名誉会長の信条であった。


■証言 (丹たみさん=当時・仙台支部班担当員)
 それは、岩国駅のホームでのことでした。“まさか降りてこられるとは”。驚きました。私は思わず「先生、目標の5世帯ができました」と報告していました。そのうちの1世帯は先生に折伏していただいたものでした。
 「ご苦労さま。本当にご苦労さま」。先生は私の肩をたたき、「錦帯橋で記念写真を撮りなさい」と言われるやいなや列車に飛び乗られました。そして私たちの姿が見えなくなるまで手を振ってくださいました。
 その後、錦帯橋には行きましたが、帰りの汽車賃しかなくて、写真を撮ることができませんでした。
 でも、私にとって一生忘れられない思い出です。


 自らの使命を果たせ

 宇部市では船場・蒲田・鶴見・岡山支部などが成果を競い、街はまさに折伏一色。道を歩いていると、各地の派遣メンバーに出会った。しかし、終盤は結果が伸び悩んだ。ある幹部が名誉会長に「折伏ができないのですが…」と質問をした。名誉会長は言った。
 「折伏は必ずできます。民衆を救うために来たのではありませんか。自らの使命を果たすことです」。確信の指導であった。これを機に奮起。100世帯の弘教が実った。「やればできる!」。皆、確信をつかんだ。


「一番大変な所」へ行く!

2004年05月27日 | 未分類
 辺地の拠点を訪問

 一番、苦労している人のために学会はある。広宣流布とは、一番苦労している人を幸福にすることである ―。
 京都支部の派遣メンバーが下関で戦っていた。拠点は支部員の家。不便な所であった。水道どころか井戸すらない。炊事も風呂も、遠くから水を運ばなければならなかった。いざ拠点を飛び出しても、乗り物もない。
 そんな拠点にも、名誉会長は足を運んだ。派遣メンバーのなかに、夫を亡くし、3人の子どもをかかえた婦人がいた。
 名誉会長は激励した。「『賤者なりとも少し我れより勝れて智慧ある人には此の経のいはれを問い尋ね給うべし』(1382ページ)です。信心に真面目なお母さんが大切なのです。その人が誰よりも知恵ある勝利の人です」。
 派遣メンバーは立ち上がった。10日間で18家族が入会した。


■証言 (原渕祥光さん=当時・岡山支部地区部長)
 宇部で戦っていた私たちのために、先生がバスで来られました。寒い日でしたが、手袋をはずして手に持ち、「さあ、戦うぞ!」という気迫に溢れたお姿でした。
 お金のなかった私たちは、駅裏の民宿を拠点として活動していました。そんな私たちに、先生はカニを用意され、「食べなさい」とご馳走してくださいました。もう嬉しくて…。
 一人ひとりの状況を、先生は聞いてくださいました。「何の役職をやっているのですか」。「地区部長です」と私は答えました。隣の人にも聞かれました。支部幹事でした。地区部長をやったかどうかと尋ねられました。したことがないと言った支部幹事に先生はこう言われました。
 「組織の長をやり、苦労することです。一番大変な組織を持って戦うのです。その一念が功徳と開くのです」


 「友」の勝利が「私」の勝利

 名誉会長は指導している。
 「どこそこで、あの友が苦しんでいる。かの地域で仲間が奮闘している。そう聞けば、わが事のように祈る! 自他共の完勝のため、そこへ駆けつけ、共に戦う! この熱烈な同志愛があればこそ、あらゆる大難を乗り越え、学会は勝利、また勝利してきた」


■証言 (北風達子さん=当時・福岡支部部隊長)
 教学試験の面接を戸田先生に受けたことがありました。「仕事は」と戸田先生から聞かれ、「デパートに勤めています」と答えました。戸田先生は「一度、行ってあげるよ」と言ってくださいました。その話を山口闘争の折に、池田先生に申し上げたことがありました。
 闘争の渦中の11月22日のことでした。先生が私のデパートまで来てくださったのです。「戸田先生との約束を僕が果たしに来たよ」。感無量でした。
 「師匠の言ったことは弟子が成し遂げる」との先生のお心。師弟とは何か。どうすれば師弟の道を歩めるのか。学会の魂を教えていただきました。


「私が行く!」と先頭で戦う

2004年05月27日 | 未分類
 弟子が偉かったから

 激闘の合間、名誉会長が萩の松下村塾を訪れた時のことである。名誉会長は語った。
 「吉田松陰だけが偉大だったのではない。弟子が偉かったから松陰の名が世に出たのです。弟子の私たちがしっかりしなければ、何にもならない」
 また、“政治家はずるい”という松陰の手紙を引いて、「政治というものは、ずるいものです。そうした政治を変えなければ大衆は不幸です」と。
 民衆の幸福を願う“妙法の高杉晋作出でよ”“妙法の久坂玄端出でよ”との思いが伝わってきたという。


■証言 (北風達子さん=当時・福岡支部部隊長)
 先生が松下村塾に行かれる前に、おっしゃったことがあります。「なぜ名所旧跡を訪ねるか、分かりますか。歴史を知らなければ、本当の指導はできないからです」。先生の思いの深さを知りました。


 涙ひまなし

 10倍の拡大という壁を破った名誉会長の行動の源泉は何であったか。
 それは、「私が行く!」と先頭に立つ「行動」であった。
 下関の拠点で名誉会長が御書講義をした時のこと。「現在の大難を思いつづくるにもなみだ、未来の成仏を思うて喜ぶにもなみだせきあへず、鳥と虫とは鳴けどもなみだをちず、日蓮は・なかねども・なみだひまなし」(1361ページ)の個所になった時、名誉会長は言った。「皆さん、ここですよ。ここが大事なんです」。名誉会長の思いも同じであった。
 「その時の先生の熱いまなざしが忘れられません。闘争にかける先生の一念はここにあったんだ」と、参加者の一人は語っている。


■証言 (桑名義治さん=当時・志木支部隊長)
 朝の御書講義の後、先生に呼ばれました。その日の訪問予定を説明され、「先発隊として座談会に行って、指導をしなさい」と言われるのです。当時、私は入信2年目の一学生。周囲には多くの先輩幹部がいました。
 「座談会の中心者は支部幹部では…」。その瞬間でした。先生は誤記鋭く、「できない者に僕は頼まない。なんで君は最初からできないと決めてかかるんだ!」。挑みゆく心意気を教えていただきました。


■証言 (吉井光照さん=防府市31年10月入会)
 防府のふみや旅館での座談会で、初めて先生にお会いしました。先生は一人ひとりに語りかけられました。
 「君は信心しそうな顔をしていないね」と私は言われました。私は派遣隊の熱意に根負けして1ヶ月前に入会しただけでした。その心を見抜かれました。ドキッとしました。
 「この信心は、どこまで逃げても逃げることはできません。腹を決めるのです」。先生のその一言で決心しました。「どうせやるなら徹底してやろう」。私は朝から晩まで弘教に歩きました。私の地区では3ヶ月で60世帯の弘教が実りました。


 民衆エネルギーの結集

 明治維新の揺籃の地・山口で生まれたのが「奇兵隊」。高杉晋作の創設である。なぜ「奇兵隊」だったのか。「武士の時代は終わった。門閥、格式にこだわらない新しい軍隊をつくろう」。これが晋作の考えであった。
 身分に関係なく、志のある人材を募った。民衆エネルギーを結集したのである。
 戸田第2代会長は、このことについて語った。「いばっていた武士ではなく、バカにされていた百姓や町人を集めて、みごとに幕府軍を破った」「学会もまた同じ方程式をとっていくべきである」。
 広宣流布とは観念の遊戯ではない。現実の熾烈な戦いである。


■証言 (橋本友次さん=当時・本郷支部班長)
 「5世帯の折伏をして帰ってこい」と支部長から押し出され、萩市の拠点で戦いました。4世帯できて戻ると、支部拠点の敷居をまたがないうちに「もう1回行ってらっしゃい」と。それで、2回目の11月も参加しました。
 萩市を夢中で歩き、徹して対話しました。それでも達成できない。宇部まで足を伸ばしました。先生が萩に来られたのは、その間でした。
 残念でした。しかし会える会えないより、私たちの所まで来ていただいたことが嬉しくて、目標をやりきって東京へ戻りました。
 戻ってから驚きました。家業の食料品店が忙しくなり、てんやわんや。従業員も6人になり、商売は大繁盛。7階建てのビルを持つまでになりました。山口闘争から人生が変わりました。


真心の激励に人は動く

2004年05月27日 | 未分類
 手書きの絵葉書

 学会の命運をかけた戦いにあって、名誉会長が何よりも時間を割いたのは、一人ひとりへの激励であった。
 「日の当たらないところまで光を当てて、あらゆる人を味方にしながら、新しい道を切り開く。そうやって勝利してきたのが、学会の歴史である」。名誉会長はここに勝負をかけた。
 岩国駅に名誉会長を出迎えた鶴見支部の幹部が小池旅館に案内した。
 これから弘教についての指導があると思っていた。ところが、拠点に着くなり、名誉会長はポケットから10数枚の絵葉書を出し、「これからしっかり戦うには憂いがあってはならない。留守を守る奥さんに便りを出そう」と。
 その幹部は申し訳なさでいっぱいになった。と同時に、名誉会長のもとで戦う喜びと安心感を噛みしめた。
 彼は綴っている。「広布前進の戦いに勝利するには、かけ声や号令なんかじゃない。どこまでも一人の友を思いやる心である」


■証言 (宮崎初恵さん=当時・文京支部支部常任委員)
 一日中、防府の町を歩き回り、拠点の英雲荘に帰ると先生が到着されていました。ご挨拶に行くと、笑顔で「なんだ、初ちゃん、来てたのか」。参加した私の主人の姿を見て、私が留守番をしていると思われたようでした。主人の母と私宛てに葉書を出したと先生はおっしゃったのです。先生の深い配慮が伝わりました。


■証言 (竹内加津子さん=当時・堺支部支部常任委員)
 堺支部から参加しました。支部内のわずかな縁故者を頼り、萩市に来ました。旧習深く、弘教は遅々として進みません。行き詰まると、「もう帰りたい」という人も出てきました。
 そんななか、拠点の高木屋旅館に先生がいらっしゃったのです。開口一番、先生は「皆さん、もう大丈夫ですよ。明日からは折伏できます!」と笑顔で言われました。
 そして、「折伏は、やろうと思えば必ずできます。今日は一晩、成果のことは忘れて、私と心豊かに過ごしましょう。みんな仲良く楽しく広宣流布に励みましょう」と。
 一人ひとりのことを懇談的に細かく聞かれ、指導してくださいました。私には、その場で、留守を守る夫に、葉書を書いてくださいました。
 心から思いました。“成果にあくせくするのではない。広宣流布という大使命を学会の同志と果たしていく喜びが大切なのだ”と。
 みんなの心が一つになりました。すると、目の前の霧が晴れたように、折伏先が出てきたのです。希望が湧いてきました。その後、3日間で、なんと49世帯の弘教を達成できたのです。
 自宅に帰って、葉書を見ました。「先日は奥様、萩市にて山陽広布の戦いを立派にやって御られます。何かと、お留守、不便な事と存じます。何卒、如来の使いの新支部建設の基礎である法戦たる自覚にて大いなる名誉と功徳を受けられるようお祈りします」と。
 如来の使いを迎えるようにしてあげてくださいとの先生の思いを感じたのか、夫は「菩薩さまが帰ってきはったと思ったほど、神々しかったで」と笑って迎えてくれました。


 子どもの誕生を祝福

 子どもを背負い、片手に御書と『折伏教典』、もう一方の手におむつと着替えを持って、夜汽車に乗って大阪から参加した婦人がいた。ところが、婦人が山口にいる間に、夫の経営する店のカメラが盗まれてしまった。
 「カメラを買ってあげたいが、私はこれから下関へ行かねばならないから、お金がたりないんだよ」。婦人にそういって名誉会長は、真心から激励した。
 その後、手紙も送った。どんよりとした重い雲のような心を払うように、「春です」と書き始められていた。「渇えては食を願うように、大御本尊を信じ、変毒為薬を」。慈愛に溢れていた。4ヶ月後、盗品は返ってきた。


■証言 (早河寿美子さん=下関市 当時、中学生)
 「やあ、お待たせしました」。そう言われながら先生が入って来られました。東陽館の一室でした。
 出産を間近に控えた母は先生に命名をお願いしました。「僕は会長ではないから、戸田先生に僕からお願いしてあげよう」と言ってくださいました。
 後日、先生から手紙をいただきました。「戸田先生がよろしいと言われたから喜んで下さい。出産したら戸田先生のお宅に電報を打つように」とありました。1月に弟が生まれ、電報を打ちました。すぐに返信がありました。「デンウク二五ヒオモチスルイケダ」(電話受く 25日お持ちする 池田)。弟が生まれて7日目の25日に先生に名前をいただきました。
 母がお礼の電話を先生にしました。「産後は十分にお気をつけて。体を大事にしてください」とまた温かく激励していただきました。一婦人のためにここまでされる先生なのです。


 笑顔で皆を励ませ

 「まずリーダーが、笑顔で皆を励ますことだ。いつも勇気を与えることだ。つんとして、ただ口先だけで、威張りくさった格好ではいけない。ありのままの人間性を輝かせていくのだ」。悩める友に名誉会長はいつも笑顔で接した。“人間性の光”“人間性の力”である。この行動のなかから、学会の底力が発揮される。


■証言 (赤須雪秀さん=当時・向島支部支部幹事)
 一人の青年が先生に報告しました。「仕事の都合で夜行列車で帰ります」。先生は、すぐ「お金はあるの」と。汽車賃だけしかなかったんです。「お父さん、お母さんに宜しくね」とおみやげ代を渡されました。先生ご自身も金銭的に無理をされていました。青年は感激に胸を詰まらせていました。
 また、一人の友が毎日1世帯の弘教を達成できたと報告しました。「よくやったね!」と握手された先生は、「みんなで拍手をしてあげよう」と。その友は嬉し涙でくしゃくしゃ。
 年輩の同志には、「ご苦労さま」と声をかけられていました。そして、「お嬢さんにおみやげを買っておきましたよ」と、そっと渡される先生。ここまで一人を励ますのか。忘れることができません。


■証言 (宮田節子さん=当時・船場支部部隊幹事)
 父が賭け事に走り、母との喧嘩が絶えない家庭で育ちました。母を亡くし、信心に巡りあえた私は、宿命に泣いた母の仇を打つようなつもりで折伏をしていました。男まさりで、言葉づかいも格好も、お構いなしでした。
 宇部の拠点で、初めて先生とお会いしました。先生はいきなり、「お母さんがかわいそうじゃないか」と言われたのです。手入れもしてない髪、着るものにも無頓着な姿を指摘されたのだと思います。
 私は母が亡くなったこと、これまでの家庭のことを話しました。先生は「そうか、苦労したんだね…」。そして力強く言われました。「女王のごとく振る舞えるようになりなさい」。
 驚いている私に、身だしなみを整えることなど、一つ一つ教えてくださいました。亡き母に諭されたようでした。涙がはらはらとこぼれました。
 翌朝、先生に呼ばれました。先生は「私の鞄を開けて、本を持ってきてください」と言われました。鞄を開けて驚きました。着るものから本まで、隙間なくきちっと、本当にきちっと入っていたのです。先生の奥様の細やかな気遣いが私にも伝わりました。先生が教えたかったのは、このことだと分かりました。


 皆が待っている

 山口を転々と移動する名誉会長。県内の移動は、汽車とバス。しかし、その連絡が非常に悪かった。
 徳山の拠点・ちとせ旅館で名誉会長を出迎えた婦人がこう語っている。
 「先生が着かれた時、『疲れた』とおっしゃいました。先生の顔面には玉の汗が流れていました。すでに会場には、多くの人が集まっていました。先生は汗をぬぐうと、『皆がまっている。休んではいられない』と言われ、『やあ、皆さん、お元気ですか』と張りのある声で入っていかれました。今にも倒れそうだったのに不思議でした」


■証言 (松井義明さん=当時・松島支部地区幹事)
 派遣先で先生から、「預かってほしい」とかばんを渡されました。持つと、意外に軽かった。御書や書籍でさぞ重いのではと思ったからです。
 でも、かばんのすき間から見ると、錠剤の薬ビンがいくつも入っていました。体が大変ななか、闘争の指揮を執られていたのです。


■証言 (日浅イツミさん=宇部市 当時、31年6月入会)
 10月のことでした。すり減ったゲタをはいて、三女をおぶって宇部の松屋旅館に行きました。狭いわが家から10キロ以上もあったでしょうか。
 先生が私に「おいくつですか?」と聞かれました。「28です」と答えました。ホコリまみれで、髪も乱れ、貧しかったので、ひどい格好だったと思います。先生は「信心をしたら、若くなりますよ」と言われました。その一言に自分の境涯を変えようと立ち上がったのです。


 もう一回行っていらっしゃい

 戦いは執念で決まる。名誉会長は、全国の派遣メンバーに対して、薫陶を重ねた。「師との呼吸」が彼らの命に刻まれていった。そしてそれが、彼らの地域にも脈動し、また山口の同志の信心の鍛えとなった。
 名誉会長は山口の同志の成長を念願した ―「強くなれ。強くあれ」と。
 ある時、折伏が実らず、下関の東陽館に戻ってきた山口の同志に、名誉会長は言った。
 「もう一度、その人の所へ行っていらっしゃい」
 やはり駄目だと戻ってくると、また言った。「では、もう一度、行っていらっしゃい」。本気になった。3度目にとうとう折伏を実らせた。
 名誉会長は言った。「その一念が大事なのです」。
 ―「10倍への拡大戦」が勢いに乗っていった。