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常勝大阪 民衆は、かく戦い、かく勝った。

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「自身の”不滅の金字塔”を打ち立てる会」  実行委員会(非公式)のブログ

「次の50年」を決するのは「今」

2004年05月27日 | 師弟
 弟子の勝利が師の勝利

 歴史に燦然と輝く「山口闘争」。世帯を「10倍」に拡大した未曽有の大闘争は、極めて短期間で達成された。池田名誉会長が現地で指揮を執ったのは、わずか22日間。
 1回目の31年10月の10日間の闘争に続き、2回目は、11月15日から21日まで。そして翌32年1月21日から25日までの、3回目の指揮で幕を閉じる。
 その結果、山口は「459世帯」から「4073世帯」へ大飛躍。大阪に続く、アッと言わせる戦いであった。
 「戦いを挑んだ決戦には、すべて勝つ」― 戸田第2代会長の“本物の弟子”が戦いを起こした。それに全国の弟子が呼応した。いわゆる弟子が歴史をつくる戦いであった。弟子が総立ちになった時、新しい歴史は開かれるのである。「次の50年」を見据えた名誉会長の戦いであった。
 そこには、人知れぬ「億劫の辛労」があった。名誉会長は語っている。
 「私は山口指導を行った。大阪での大法戦に引き続いての戦いである。厳しいといえば、こんなに厳しい行動の連続もなかった。体も疲れきっていた。経済的工面も大変だった。我が家の売れるものはすべて売って、交通費や滞在費を、やりくりした。しかし、私は戸田先生の山口に対する深き思いを、何としても実現したかった」
 「そんな私の家の内情を知った戸田先生は、電話の債券だけは売るなよ、と心配してくださった。どこまでも、ありがたい師匠だった」
 電話を手放す事態となれば、諸活動に支障をきたす、と言われるのだった。


■証言 (村田岩雄さん=当時・松島支部支部幹事)
 夜行列車に乗って、防府に到着した時のことです。朝、旅館に着いて、朝食をとっている時、先生がこの地に来られていることを知りました。
 私たちは一休みしてから、先生がおられる旅館に向かいました。
 緊張感のない私たちの姿を見た先生はおっしゃいました。「戦いは中心者と呼吸を合わせることです。中心者を求めて団結しない戦いは空転です」と。私たちの油断でした。


 呼吸を合わせよ

 「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」(790ページ)― 名誉会長のこの一念に、どう呼応できるか。戦いのなかで学会精神が打ち込まれていった。
 鶴見支部の拠点に名誉会長が訪問する予定になっていた。「到着までは、まだ時間がある」と責任者は風呂に入っていた。その時、名誉会長が到着した。知らせを聞いた彼は、驚いて飛んで行った。
 名誉会長は笑顔で言った。「支部員が汗水たらして戦っているのに、大将が風呂に入っているとは結構な身分じゃありませんか」。そして、恩師から薫陶を受けた学会精神を教えた。
 戸田会長は語っている。「前線の幹部はぼやぼやするな」。幹部がボーッとしていれば、後に続く人の邪魔になる。前線では、じっとしていてはいけない ― 名誉会長は諄々と語った。責任者は猛省した。二度と失態は演じないと。
 「じゃあ、打ち合わせをしよう。早く身支度を整えなさい」。名誉会長は恐縮している責任者を、今度は包み込むようにして会議を進めていった。
 非を非と諭し、あとは包容して立ち上がらせる名誉会長。責任者は誓った。「広布のために自分が苦闘の先頭に立とう」。


■証言 (則武敬一さん=当時・岡山支部班長)
 岡山の繁華街で電気店を営んでいた私は、病気が治るなら、幸せになれるなら、と自分の祈りが中心でした。
 そんな信心が、宇部で一変しました。池田先生の御書講義を聞いたからです。
 「異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」(1337ページ)。個人の幸福を機軸として、社会へ、世界へ、幸福と平和を広げゆく大目的、広宣流布を語られたのです。
 疲れた皆の心に信心の松明がともりました。宇部の街に飛び出そうとすると、先生が「食べていきなさい!」と。大きなおにぎりとお新香が用意されていました。腹の底から力がわきました。

僕の生涯の師匠は先生なんだ

2004年05月27日 | 師弟
 小説『人間革命』第4巻「怒濤」の章には、このようなシーンが描かれている。
 ― 戸田第2代会長(当時、理事長)の事業が破綻し、熟慮の末に理事長を辞任する。その発表を目の前で聞いた山本伸一青年は、ひとり戸田の部屋に入っていった。その眼には涙がいっぱいたまっていた。「なんだね」。戸田の問いに「先生、今度、三島さんが理事長になると、私の師匠は三島さんになるんでしょうか?」。戸田は即座に「いや、それは違う! 苦労ばかりかけてしまう師匠だが、君の師匠はぼくだよ」。ぱっと明るい顔になった山本青年は戸田の顔を見つめた。その戸田の眼にも涙が光っていた。山本青年は座を立って一礼すると階下へ。外に出ると口笛を吹いていた。「― 僕の生涯の師匠は、先生なんだ。先生なんだ。これでいいんだ。これでよし」 ―。
 「怒濤」の揮毫の8ヶ月前の4月24日、池田第3代会長は会長職を勇退し名誉会長に。その発表に全世界の同志が愕然として声をのんだ。背後には、反逆者と坊主らの悪辣な策謀があった。理不尽な衣の権威の圧迫が荒れ狂った。
 「怒濤」の揮毫 ― 激しく荒れ狂う大波のなか、師匠と牙城会との絆は、より強く結ばれた。

師弟

2004年05月27日 | 師弟


師弟がなければ、生きた仏法はありません。師弟の精神こそ、日蓮仏法を奉ずる創価の精神です。

 師弟とは、弟子の「自覚」の問題です。形式ではありません。
 師に何回会ったかとか、側にいたとか、幹部だとか、それは形式であって、師弟の本質ではありません。
 たとえ師匠から離れた地にいようとも、直接話したことがなかろうとも、自分が弟子の「自覚」をもって、「師匠の言う通りに実行するのだ」と戦っていく。それが「師弟の道」に通じていくのです。
 根幹は、師匠と自分です。組織の機構や役職等も大切ですが、師弟とは次元が違います。それを混同してしまうと、仏法の本質を見誤ってしまいます。
 池田名誉会長は師弟の精神について、こう語っています。
 「どん底であった創価学会を、世界の創価学会にしました。戸田先生、牧口先生を世界の偉人として宣揚しました。
 戸田先生を守ることが、広宣流布を守ることであり、仏法を守ることであった。それ以外に道はなかった。
 自分中心ではなく、戸田先生中心に私は生き抜き、尽くしきった。『師弟の道』に私は徹しました」(『法華経の智慧』)と。

師を守ることが広布を守ること

 若き名誉会長は、戸田第2代会長が経営する会社で懸命に働きました。青春を戸田先生に捧げました。戸田会長の事業が失敗したゆえに、大学に行くことも断念しました。
 「先生、何も心配なさらないでください。私が働いて、全部、立派に立て直します。どうか、ご安心ください」。これが名誉会長の、師への熱い思いだったのです。
 名誉会長は、働いて、働いて、失敗した事業の借金を全部、返済しました。
 半年間、給料もありませんでした。冬のオーバーも買えませんでした。
 しかし、師を守るためなら、「何の悔いもない」と心に決めていたのです。
 名誉会長にとって、戸田会長を守ることが、広宣流布を守ることだったのです。
 「弟子の道」があったがゆえに、「世界の創価学会」になったのです。世界平和への脈動ができあがったのです。
 日蓮大聖人は、竜の口の法難の際、殉死の覚悟でお供した四条金吾に、こう仰せになりました。
 「もしもあなたの罪が深くて地獄に入られたならば、どんなに釈迦仏が日蓮を仏にしようとなされても、従わないでしょう。あなたと同じく地獄に入ります。
 日蓮とあなたが、共に地獄に入るならば、釈迦仏も法華経も、きっと地獄にこそおられるにちがいありません」(1173ページ 通解)
 創価の師弟も全く同じです。大阪事件で大阪府警に出頭する池田名誉会長を、羽田の空港で戸田会長が見送りました。
 その時の模様が小説『人間革命』に描かれています。
 「彼(戸田)は伸一の体を強く抱きしめるように引き寄せ、沈痛な声で語りかけた。
 『伸一、もしも、もしも、お前が死ぬようなことになったら、私もすぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして一緒に死ぬからな』」
 ここに、代々の会長に受け継がれてきた「創価の師弟」の崇高な精神があります。

師弟を離れて仏法はない

 カリフォルニア大学のバーナード・ワイナー教授は、創価学会が「師弟」の絆を通して、信仰を深め、運動を広げていることに大きな共感を寄せている一人です。
 その教授がこう語っています。
 「池田会長は、自分が今あるのは、すべて戸田会長のおかげであると語られている。すべてを戸田会長から学んだのだ、と。これは、大変に重要なことである。自らが誇れる師匠をもてば、その思想と絆を人びとに伝えていくことの大切さを確信できる。師匠をもたなければ、この師弟の関係の重要性はわからない」と。
 忍難弘通する人がいて、初めて大法は社会に広がります。「師弟の道」に生きる使命の人がいて、初めて広布は前進するのです。
 「師弟の道」こそ、「広布の道」「正義の道」なのです。「師弟の道」を離れて、成仏も広宣流布もありません。
 法華経には「在在諸仏の土に 常に師と倶に生ぜん」と説かれています。
 この「師」とは、日蓮大聖人と拝すべき御文ですが、敷衍して言えば、創価の師弟にも通じることです。
 師匠と弟子とは、必ず、法華経の功力によって同じ時、同じ所に生まれる。それほど師弟は深いのです。
 「師弟は三世」なのです。師弟は、三世永遠なるが故に仏法の真髄なのです。師弟の道を離れて仏法はありません。


獅子吼とは師弟不二

2004年05月27日 | 師弟
 「獅子吼」とは、「師」とは師匠、「子」とは弟子。師とともに叫びきっていくという師弟不二です。これが本来の折伏です。
 私は「戸田先生は末法の折伏の師匠である。私はその弟子である。ならば折伏ができないはずがない」と決めた。
 その一念で、だれ人にもまさる弘教をなしとげたのです。

「75万の大願業」の第1号
◆証言(鵜野花子さん=当時、蒲田支部)

 昭和22年、焼け残った大森の自宅に、疎開先から戻りました。私は、そこで、イモをふかし、コッペパンを焼いて、それをヤミで売って生活を立てていました。
 先生が近所の「青葉荘」に引っ越して来られたのは、25年のことでした。食べるものがなかった時代でした。先生は、来られると、ジャムをちょっとぬったようなコッペパンを買っていかれました。
 26年の4月末のことです。「今夜、うちで話があるからいらっしゃいませんか」。先生に言われてアパートでの会合に行きました。
 当時はまだ占領下で、私は二人の子どもをかかえ、大変な苦労をしていました。
 先生も、穴の開いた靴を履かれていたので、水たまりを避けながら歩かれていました。先生の部屋には、水道もガスもタンスもありませんでした。しかし、本棚二つに、ぎっしりと本が詰まっていました。
 「幸せになるいい教えなんですよ。一緒にやりませんか」と、先生は言われました。
 「幸せ」という確信ある言葉。先生の声は大きいんです。その確信の声に心を動かされ、私は「ハイ」といいました。他に「幸せ」なんていう言葉がなかった時代でした。
 先生の配慮で、5月3日の戸田先生の会長就任式に出させていただき、その場で御本尊を頂きました。
 その日は、戸田先生が「75万世帯の折伏の大願業」を宣言した日でした。戸田先生の心を知っていたのは、池田先生ただお一人だったのです。だから先生は、75万の第1号の折伏を自らされたのです。

戸田先生は偉大な指導者
◆証言(宮林義一さん=当時、文京支部)

 池田先生が折伏される場合は、まず相手の話を聞かれました。「お生まれは?」「お仕事は?」「ご家族は?」。そして先生ご自身の体験を語られました。必ず戸田先生の偉大さを語られました。「戸田先生は、地球上から悲惨の二字をなくそうとされている偉大な指導者なんです」。その声は今も耳に残っています。
 折伏が佳境に入ると、テーブルから身を乗り出し、ある時はテーブルを横にどけて近寄られ、手を握って、また両手を肩において「幸せになりましょう」と。


先生、勝利しますから来てください

2004年05月27日 | 師弟
 雨の大阪球場

 4月8日に、「大阪・堺2支部連合総会」を大阪球場で開催することが決まった。そこには戸田第2代会長が出席の予定。関西のメンバーは「戸田会長が応援に来られるから頑張ろう」と思ったという。
 名誉会長は違った。「この戦いに勝利しますから、先生、来てください!」。これこそ師に対する弟子の信心であることを、関西の同志は学んだ。

◆証言(栗原明子さん=当時、女子部部隊長)
 3月、大阪支部は5000世帯の折伏をやりきり、「4.8」の2支部連合総会に戸田先生を迎えることになりました。
 このとき、どのようにして師を迎えるか。先生はおっしゃいました。「戦いに完全勝利し、その証をもって迎えるのです」と。
 私たちは、3月の折伏成果の締め切りを終えて「4.8」まで必死で戦い、たった1週間で4000世帯の折伏を達成しました。
 その結果、4月は9000世帯の弘教を成し遂げました。師を迎えるとは「勝ち」を残すことだったのです。


 やればできる!

 総会は、どしゃぶりの雨のなかで挙行された。2万人が会場を埋め尽くした。しかし、雨にたじろぐ人は一人もいなかった。
 名誉会長によって点火された「信心の松明」の勢いが、どしゃ降りの雨に勝っていたのだ。
 「関西の会員たちは、総会を終えて自信をもった。―どんなことでも、やればできるではないか。山本参謀室長の指揮に一切をゆだねれば、どんなことでもできる」(小説『人間革命』)。大きな信心の確信を得たのである。
 しかし、その雨が体の弱かった名誉会長を直撃していたことを知る人はいなかった。


 目の前に師匠がいる如く

 「朝な夕な、私は、師である戸田先生に、さまざまな報告をしながら、悠然と、勝利の完遂のために走り抜いた」(小説『人間革命』)―。
 当時、大阪支部の支部長であった白木義一郎さんは言う。「先生は、戦いのすべてを、いちいち戸田先生に報告されていました。電話の前に正座して、まるで、目の前に戸田先生がいるようでした」と。
 「師弟に始まり、師弟に終わる」(「随筆 新・人間革命」)―これこそ、「常勝関西」を築いた精神であった。

◆証言(梅本摂子さん=当時、支部常任委員)
 大阪球場で、戸田先生をお迎えした時のことでした。
 事細かに準備の陣頭指揮をとられた池田先生がおっしゃいました。「弟子が師匠を迎えるには、万全の勝利の体勢を整えるのです。これが弟子の道です」。
 私たちは池田先生から「師弟」を教わりました。
 戸田先生が登壇される際、退場される際、壇上わきで直立不動で頭を下げられる池田先生。戸田先生が「大作、舞を舞いなさい」と言われれば、先生は勇壮に舞われました。
 そのような先生のことを戸田先生はこうおっしゃいました―「大作についていきなさい。大作は私より大きなことをする人だよ」。
 戸田先生と池田先生の師弟の心の深さに驚きました。

◆証言(中山薫さん=当時、女子部部隊幹事)
 関西本部で、支部常任委員の矢追久子さんが、先生から物を頼まれたときのことです。八追さんは、「そういう物はありませんが」と答えてしまったというのです。
 その直後、お茶を運んでいった私に、先生は話されました。
 「さきほど、矢追さんに言ったのです。
 ある冬、戸田先生が『枝豆が食べたいな』と言われました。冬に、そんなものがあるわけありません。しかし私は、やっとのことで探し出してきました。
 しょぼくれた枝豆でしたが、戸田先生はニコニコ顔で食べてくださいました。『師匠に応えようとする弟子の心がうれしいんだ』と。
 手を尽くさないのは、弟子ではない。それを私は伝えたかったのです」

◆証言(柳原延行さん=当時、学生)
 「勝ちたいなあ、勝って戸田先生に報告したいなあ」
 先生は何度もおっしゃられました。
 ある日、連日の疲れが重なって、先生は食事をあまり召し上がりませんでした。そんな先生を心配して、キャベツが胃腸にいいと聞いていた婦人部の方が、千切りにしたキャベツを山盛りにして先生に出されたのです。
 その真心に感謝されながら「君たちも食べなさい」と勧められました。キャベツが嫌いな私がためらっていると、先生は「師匠の言う通りにするのが弟子なのです」と言われました。
 そして、「私は戸田先生のもとで、どんなことでも喜んでしてきました。戸田先生は無理とも思えることをおっしゃることもありました。しかし言われる通り何でもやってきました。師弟とは、そういうものです」と。
 この時、理屈だけでは師弟は分からないことを教えられました。

◆証言(中尾安夫さん=当時、地区部長)
 わが家のすぐ裏手が、花園旅館でした。戸田先生が来阪されると、よく花園旅館に宿泊されました。
 妻と一緒に拠点となった旅館に出入りしました。多くの学会員が訪れました。
 他の学会員の方とひときわ違う人がいました。花園旅館から、ものすごい勢いでパーッと飛び出していくのです。池田先生でした。
 池田先生がいつも戸田先生におっしゃっていた言葉がありました。
 「先生、どうか、ゆっくりお休みください」

◆証言(近江紋子さん=当時、女子部班長)
 当時、東京から来た派遣幹部を、「先生」と呼ぶ人がいました。後に退転し、反逆した輩で、今、思えば、その男は自分のことを「先生」と呼ばせたがっていました。
 「そういうふうに呼ぶものかな」と思い、私もその幹部を「××先生」と呼ぶようになりました。
 池田先生が出席された関西本部での会合の時でした。先生は語気鋭く私に言われました。
 「ギアを外してはいけません!」。驚きました。師弟という一念のブレを指摘されたのです。


 成功の陰に潜む「魔」を破れ

 魔は天界に住む。「4.8」の成功の陰にも、魔が潜んでいた。
 「彼らは得意になった。実践が生んだみずからの力に酔ったのであろう。さまざまに世話をやいてきた派遣幹部の指導が、時にうるさく感ずるようになってきた」(小説『人間革命』)
 派遣幹部と地元幹部の間に、軋轢が生じてきたのである。
 「4.8」の直後、関西本部に報告に行った幹部の一人が、2階に上がっていった時のこと。部屋の戸を開けると、名誉会長の凛たる声が聞こえてきた。
 「東京へ帰りなさい」。派遣幹部への指導であった。関西の同志を見下すような派遣幹部の姿勢を厳しく戒められていた。

◆証言(村田只四さん=当時、支部幹事)
 大勝利の「4.8」総会の後のことでした。
 東京から来た派遣幹部と大阪の中心幹部との間に、微妙な溝がありました。派遣幹部の方々は本当によくやってくれていました。私たちは信頼もしていました。でも、何か気まずかったのです。
 先生は、派遣幹部の中心者に言われました。「大阪の幹部は敵ですか、味方ですか」と。
 私たちこそ生意気だったのです。先生は、派遣幹部を指導することで、私たちの生意気さに気づかせてくださったのです。団結を乱す「魔」を切ってくださったのです。これで、もう恐れるものはなくなりました。