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常勝大阪 民衆は、かく戦い、かく勝った。

常勝大阪 常勝守口 藤田本部 壮年部
「自身の”不滅の金字塔”を打ち立てる会」  実行委員会(非公式)のブログ

折伏の鉄人より

2005年12月31日 | 折伏
今、折伏で悩んでいるあなたのための「超・折伏法」!                 
これを心肝に染め、実践しさえすれば、あなたも今日よりは「折伏の鉄人」!     
あなたの折伏に対する「開顕の書」とならんことを切に望む次第であります。       

                        (折伏の王者「常勝関西」より発信)

(1)地域広布とは

 地域の広宣流布とはどういうことかというと、地域の世帯が増えなくちゃダメですね。そして信心している人が功徳を受けなくちゃいけません。世帯が増えて、功徳を受ける人が増えることこそ、地域広布なんです。地域の世帯が増えたのでなければダメなんです。今頑張っても世帯が減っている所もありますね。また、功徳をあまり受けていない所もありますね。これは「後退流布」と言います。広宣流布がバックしているわけですから、「後退流布」です。世帯が増える事と、皆が功徳を受ける事を祈らなければいけないんです。そのための活動です。頑張っても空回りしてはダメです。あくまで目的は幸せな人を増やすことなんですね。

(2)折伏とは

 折伏は、まさに自分自身の功徳の拡大、そして幸せな人を増やす幸せの拡大、そして広布の拡大なんです。だから、頑張るべきなのであって、エゴのため頑張ってはいけません。苦しくなってしまいます。最終的に幸せな人をいっぱい作るべきなんです。本流だけが目的じゃないということです。

(3)功徳を受けよう

 あくまでも、自分と相手のためです。それが広布の前進です。そのために頑張ろうと決めることは大事なことです。そうでなくて、結果さえ出せばよいというのは間違いです。変な結果を出せば誰も功徳を受けません。広宣流布は進みません。不信が残ってしまいます。これは、間違っています。そういう面で信心は、頑張ればいいんではなくて、「功徳を受けるように頑張らなくてはダメ」なんです。今は、そうではなくて、功徳を受けないように頑張っているのが「はやり」になっています。

(4)信心の使命は「義務」ではなく「権利」

 私たちは大聖人様の仏子です。子供です。「地湧の菩薩」です。だから私たちが生まれてきたのは、皆を幸せにして広宣流布をするためなんです。ですが、その使命といっても「義務」ではありません。「権利」なんです。「幸せの権利」だからやるのであって、「義務」になったら重荷になってしまいます。信仰はどこまでいっても「義務」ではありません。「権利」なんですね。だから、折伏も「義務」になったら重荷になってしまいます。「義務」はありません。だけれど使命ではあるんですね。ですから「使命を果たすときに幸せになる」ともいえます。だから「決意すること」は大事なんです。

(5)どうすれば折伏ができるか(祈り方と下種先)

 では、折伏はどうすればできるかというと、これは、祈ればできます。「不幸な人を救わせて下さい。とりあえず一人。」と祈ること。そう祈ればできます。次に折伏する相手はどういう人かというと、悩んでいる人を折伏することです。悩みがない人は折伏できません。悩みのない人を一生懸命折伏している場合があります。これではできません。今、悩みがないという人は、「信仰は必要ない」と言いますから。実際は悩みがないのではなくて、悩まないことが多いようですが。

 しかし今、悩んでない人はいくら言ってもダメです。普通の人は、仏法には関心がありません。病気の人に「薬を飲みなさい」と言ったら飲むでしょうけど、健康な人に飲めと言っても飲みません。「今、信仰は必要ない」と言ってる人に、いくら勧めてもダメです。今、悩んでいる人から救うんです。悩んでいる相手がいれば、その人のことを祈ること。相手がいなかったら「不幸な人を救わせて下さい」と祈ることです。必ずそういう人が出てきます。そうすればその人を折伏してあげればいいんです。

 これはたくさん例があります。この前、ある所でこの話をしました。次の次の日、ある壮年部の人に会いましたら、「昨日、担当地域に行きました。話を聞いた婦人部の人が、あれから決意して不幸な人を救わせて下さいって祈ったら、古い友達から電話がかかってきたそうです。悩みがあるんだけど、相談にのってちょうだいと言ってきたそうです。明日来るそうです。絶対折伏してあげたいって言っていました。」と言うんです。それで、次の日に折伏できたそうです。そういう話はいっぱいあります。不幸な人、悩んでいる人を救わせて下さいと祈ることです。いなくても出来ます。これは法華経に書いてあります。法華経の法師品に「我が滅度の後にこの経説かんと欲せば化人を使わして法を説かしめん、随順して逆らわじ」とあります。「素直に話を聴く人を遣わすから、法を説きなさい」って書いてあるのです。ですから来てくれます。呼べばいいんです。電話をかけてもダメです。御本尊経由で呼ぶことです。「御本尊様お願いします。悩んでいる人をよこして下さい」と祈ることです。そうすれば来てくれますから、来たら折伏してあげることです。悩んでいる人がいれば最初から折伏してあげればいいんですよ。そのように祈れば折伏は出来ます。

 自分のことが叶うんですから、不幸な人を救おうという祈りが叶わないわけがありません。そう強く祈れば必ず来ますから、そうしたら折伏してあげればいいんです。

(6)折伏でどう話すか

 では、どういうように折伏するかというと、仏法の話をしないことです。しかし、皆さん仏法の説明を一生懸命してるでしょう。仏法の説明は折伏ではありません。ただの解説です。教学解説です。皆仏法には関心がありません。何に関心があるのか。自分の悩みに最大の関心があります。「あなたの悩みが解決した方がいいか、しない方がいいか。どうですか」「した方がいいに決まっています」「じゃ、信心しましょう」これでいいんです。簡単でしょう。これが折伏なんです。相手を救うためですからきれいごとではありません。「仏法はすばらしい。仏法はすばらしい」「やってみましょう」こういうのが多いからダメなんです。これは折伏ではなく、「伏伏(ブクブク)」です。ブクブクはダメです。悩みに一歩切り込むことです。パっと確信をもって切り込むことです。これが折伏です。今それが弱くなっています。「いいからいいから、やってみなさい」が多いのです。だから、あんまり「信心しよう」と思えないんです。仏法にほとんど関心ないんですから。どんなにすばらしい話を聞いてもやる気は起こりません。自分のためだからやるんです信仰は。だから信仰の必要性を教えてあげるのが折伏です。仏法の説明ではありません。折伏には教学はいりません。

(7)一番悩んでいる人から折伏してあげよう

 相手の悩みがわかれば折伏はできます。折伏しようと思ったら、まず悩みを聞き出すことです。「悩みがありますかーっ」と聞いてはダメです。「ありません」と言うに決まっています。これにいくまでが友好活動です。信頼関係ができれば、愚痴をこぼしたり、悩みを打ち明けてくれます。そこから折伏をしてあげること。悩みがわからないうちは折伏はできません。悩みがわかったら折伏を始めます。

「悩みはどこから来るかわかりますか。」

「あなたの宿命から来るんですよ。」

「宿命はどこから来るかわかりますか。」

「あなたの過去の謗法から来るんですよ。間違った宗教から来るんですよ。」

「だから謗法を捨てて正しい信仰をすれば、あなたの悩みは解決しますよ。」

「信心しましょう。」

「はい、します。」

 これでいいんです。簡単でしょう。仏法の説明をしないことです。悩んでる人、例えば病気の人は病院に行きます。病院では注射を打ちますが、その時この薬はどういう成分の薬か、事細かく説明しますか。説明せずに、黙ってズブっと打ちます。いきなりズブっと打ちます。でも痛くても我慢します。治ると思うからです。薬の成分がどうかではなくて、治るかどうかが問題なんです。それと同じですね。悩みが解決するかどうかを、相手は知りたいんであって、仏法を知りたいんではないんです。

 「あなたの悩みは必ず解決しますよ」と言い切ってあげることが折伏です。一番いいのは体験談です。相手の悩みに合わせた体験談です。病気の人は病気の治った体験談、仕事の悩みの人は、仕事の悩みが解決した体験談、相手と同じ悩みの体験が一番いいんです。仏法の説明がなくてもいいんです。教学がなくても折伏はできます。ですけど折伏は、悩みがわからなければできません。そうでないと、単なる仏法の説明になってしまいます。そうすると、「ああ、そう結構ですね。でも私には関係ありません」となってしまいます。悩みに一歩切り込むことが折伏なんです。言い切ってあげることです。「あなたの悩み解決しますよ。信心しましょう」と。それでもその人が簡単に信心されるわけではありません。また祈ってあげればいいんです。そこまでいけば、あとは確信をもって祈ってあげればいいんです。あとは祈って決意させてあげるだけですから、折伏はできます。

 この間、ある所で会合がありました。そこでそういう話をして、ちょうど一ヵ月目に婦人部の方が3人やって来られました。その時決意したから3人とも折伏ができたと言っていました。不幸な人を救おうと決意したら、3人とも折伏ができたんです。そういうことはいっぱいあります。



H.K副会長の指導より



他人まで幸福に

2004年05月27日 | 折伏
 利己主義が蔓延する世の中で、自分だけでなく、人をも幸せにしようと祈り、苦労している学会員の姿は、どれほど荘厳か。どれほど崇高か。
 戸田第2代会長は語った。
 「自分が幸福になるぐらいは、なんでもない。簡単なことです。他人まで幸福にしていこうというのが信心の根底です」(昭和30年10月31日の本部幹部会)
 自分も他人も、ともに幸せになっていこうとする信心―戸田会長のこの言葉どおりに名誉会長は実践し抜いた。それは若き日から一貫して変わることはない。
 名誉会長は語っている。
 「『戦った功徳は、こんなにすごいのか!』ということを実感させてあげたい」(『法華経の智慧』)
 富山初訪問から25周年の佳節を刻んだ昭和57年、名誉会長は9月の北陸指導で、「広布の王者 石川・富山たれ」との指針を贈った。
 この折、「歴史を残してあげたい」と語り、横長の和紙に句を認め、当時の創価班、牙城会、白蓮グループの、それぞれの委員長に贈った。



■証言 (小杉光男さん=当時、創価班県委員長)
 昭和57年9月、池田先生が富山に来県されました。私たち富山の創価班は祈りきり、団結して、富山文化会館に着任しました。
 仕事が大変ななか、駆け付けるメンバーも数多くいました。
 先生が滞在された数日間、私たち富山の創価班は中央の創価班のもと、無事故を勝ち取るために、真面目に、黙々と戦っていきました。訓練を受け切っていきました。
 そうしたなかで、当時、県の創価班委員長だった私は、メンバーを代表して、先生に句をいただいたのです。
 「此の地にも 宝ありけり 創価班」
 私たち創価班を、「宝」と期待していただきました。富山の創価班の原点の「歴史」になりました。「魂」になりました。

勇気の一歩

2004年05月27日 | 折伏
折伏とは「真実を語る」こと。「南無妙法蓮華経」を広げる行動は全部「折伏」です。

 「折伏とは『真実を語る』ことです」「末法においては、法華経の真髄である『南無妙法蓮華経』の素晴らしさを語り、広げていく行動は、全部、『折伏』です」(『法華経の智慧』)
 日蓮大聖人の仏法の修行の基本である「信・行・学」の「行」には、「自行」と「化他」の二つがあります。このうち「化他」とは、他の人に仏法を教え導いていく化導=折伏・弘教の実践のことです。
 なぜ折伏するのか。それは、自身の幸福だけでなく、悩める友を救い「自他共の幸福」を実現し、平和な世界を築いていくためです。「南無妙法蓮華経」の大法を弘めていくのが「広宣流布」の実践です。
 そのために、一人の友の幸福を願い、御本尊の偉大さ、創価学会の素晴らしさを語り、聖教新聞を勧め、入会した感動を語り、セミナーに誘うなど、勇気を出して一歩を踏み出し、一言でも語っていくことが大切です。
 それらすべてが「折伏・弘教」の実践であり、そのまま自分の福徳となって自身の生命に刻まれ、幸福境涯を開いていくことになるのです。
 なお、「発心下種」(妙法を説いて相手が入会を決意した場合)でも、「聞法下種」(相手が法は聞いたが信心する気にはならなかった場合)でも、法を説いた功徳は同じです。
 戸田第2代会長は「御本尊を受けさせなくても仏様の尊さを賛嘆することが、折伏なのです」「御本尊様はありがたいということをいっただけで折伏になっているのです」(『戸田城聖全集』)と語っています。
 池田名誉会長も、青春時代から勇んで折伏に挑戦し、「若き日の日記」には、知人に出した折伏の手紙が全部送り返されてきたことや、昭和25年5月14日には「小学校の先生、Tさんを、折伏することが出来た」と、折伏が実った時の喜びが綴られています。
 どのような形であれ、仏法を伝えていく対話の努力が大切であり、それが「折伏」なのです。
 「折伏は、友情を深め、信頼を勝ち取っていくものでなくてはならない。
 表面的な語らいはあっても、真実の対話がない現代である。
 だが、折伏は、ともに、真実の充実した幸福の道を歩みゆこうとの、友への深い思いやりの触発の語らいである。
 人生の価値とは何か、何が正しく、何が悪なのかを、時に生活に即し、時に自らの体験のうえから語り合う、真心の仏法対話は、これ、人間主義の王道であり、それが折伏だ」(「随筆 新・人間革命」)


聞法下種の功徳

2004年05月27日 | 折伏
 戸田先生は、何人もの人が折伏してもなかなか入信しない人について、 “それだけ多くの人に「聞法下種」させて、多くの功徳を与えている人なんだ” と言っておられた。

会場提供者の家族に
◆証言(朝香毅靱さん=当時、文京支部)

 池田先生は、座談会の会場に着かれるとすぐ、会場を提供されている方のご家族にあいさつに行かれました。「ありがとうございます。大勢お邪魔してすみません」。そう言われて深々と頭を下げられました。
 このように語られたことを記憶しています。
 「会場を提供しているということは、居ながらにして折伏しているのと同じなのです。仏縁を結んでいるのです。折伏と同じ功徳を受けるのです」
 近所の方から、学会員であることでさまざま言われていた家族にとって、これほど嬉しい言葉はありませんでした。


包容しながら対話

2004年05月27日 | 折伏


 真心から法を説いても、大ていは悪口を言われる。侮辱されることもある。それでも、何もわからない子どもを親が慈しむように、包容しながら対話していく。
 菩薩です。地涌の菩薩にあらずんば、できるはずのない聖業です。(中略)戸田先生も「折伏のためにせらるる悪口は、心から感謝しなくてはならない」と言われていた。

反対の人は大恩人
◆証言(宮崎初恵さん=当時、文京支部)

 「いくら折伏しても、5年も6年も戸田先生を中傷し続けている人がいます」と、池田先生に報告した壮年の方がいました。
 先生は、入会しない人のことをこう言われました。
 「がんばって、がんばって、その人は反対しているのです。それだけ、こちらが福運をつけさせてもらっているのです。その人に、ベストを尽くしてあげてください。これ以上できない。そこまでベストを尽くして、後は時を待つ。入信する、しないじゃないんですよ」
 どんな人に対してもベストを尽くす。それが折伏であることを教えられたのです。

子を愛するように

2004年05月27日 | 折伏
 親が子どもを慈愛するように、正法を施すのが折伏です。
 決して、勢力拡大でも売名でもない。単なる理論闘争でもない。
 何もわからず、むずかる赤ん坊に、親がミルクをあげるような気持ちで、温かく、時には厳しく、時にはなだめ、導いていくのです。
 相手と同じ次元になって、感情的にけんかしたりしては、「如来の使い」でなくなってしまう。「忍辱(にんにく【忍耐】)の衣」を厚く着こまなければならない。

「私と一緒に幸せになろう」
◆証言(金子都峯子さん=当時、文京支部)

 文京支部にいた男子部員の弟さんは、結核を患っており、いつも青い顔をして、大学にも行けずに病院通いをしていました。
 その弟さんが兄に連れられ座談会に出てきました。いつもは途中で帰ってしまうのですが、この日は池田先生が中心者でした。
 先生は言われました。
 「どうして君はいつもはっきりしないのか。皆、君のことを心から心配しているよ。私だって若いころは結核でした。戸田先生も結核で片方の肺がやられているのに、飛行機に乗って全国を飛び回っている。私は結核を全然怖い病気だとは思いません。私はとっくに治しきっています。
 君も、私と一緒に信心をして、ともに幸せになっていこう。絶対に幸せになるんですよ」
 先生の話は、折伏というより、諭すようでした。そして、青年の肩を抱きかかえての話でした。
 「今まで、こんなに優しく、本気になって自分のことを心配してくれた人は一人もいなかった」と青年は言って、泣き出してしまいました。「やらせてください。一緒にやらせてください。お願いします」。青年の青白い頬は見る見る紅潮しました。周りのメンバーも思わずもらい泣きしてしまいました。

真心が通じるように

2004年05月27日 | 折伏
 折伏は「真心が通じますように」と祈っていくのです。
 そうしていけば、たとえその時はどういう結果であれ、「自分の幸せを、これほど真剣に思ってくれた」という信用が残る。感動が残る。それが大事です。

思いは相手に全て伝わる
◆証言(金子都峯子さん=当時、文京支部)

 友人の折伏ができずに悩んでいた婦人が、名誉会長に指導を受けた時のことです。
 その友人は夫の反対で入会できずにいました。そんなある日、その夫が交通事故に遭ってしまいました。さっそく婦人は見舞いに行きました。すると、友人から「もうあなたに会いたくない」と言われてしまったという経緯を先生に話しました。
 先生はおっしゃいました。「あなたの心に、もしかして、『それ見たことか』という思いがありませんか」。ずばり見透かされました。
 「その通りです」と応えると、先生は「それが分かればいいのです。相手に思いが全て伝わってしまうのです。自分です。相手ではありません。自分が題目をあげて祈っていく。折伏は慈悲です」と。
 以来、友人夫妻のことを懸命に祈りました。そしてついに折伏が実り、友人一家と温かい友情の花が咲いたのです。

「絶対に幸せになります」
◆証言(朝香毅靱さん=当時、文京支部)

 池田先生の折伏の現場で、私たちは折伏を学んだのです。先生はいつも髪をきれいに整え、ワイシャツにネクタイ、背広でいらっしゃいました。理路整然として紳士的、時にユーモアを交え、そして火を噴くがごとき、“確信”の一言―。
 「この信心をして幸せにならないわけはありません!」
 「すごい御本尊様なんです。ですから何でも叶うんです」
 「間違った宗教は不幸の原因です!正しい宗教は幸福の因です」
 「私たちは日本を救い、世界平和という大目的のために生きましょう」
 ある時、右翼の元活動家と名乗った壮年が、「あんたは若いのに、実に度胸がいいな。あんたに惚れた」。そう言って入会したことがありました。
 池田先生の折伏は温かかった。全人格で包み込まれるようでした。親兄弟以上に自分のことを思ってくれている。そう思わずにはいられませんでした。


真実を語ること

2004年05月27日 | 折伏
 なにか“強引”であることが折伏だと勘違いしているとすれば、それは、誤りです。
 折伏とは「真実を語る」ことです。法華経は真実を説いているので「折伏の教典」と呼ばれる。
 末法においては、法華経の真髄である「南無妙法蓮華経」の素晴らしさを語り、広げていく行動は、全部、「折伏」です。
 例えば、掃除をするのに、力強く掃除するのも、静かに掃除するのも、要は、きれいになればいいわけです。

人間だから題目を唱えられる
◆証言(金子都峯子さん=当時、文京支部)

 そこには、文京支部長代理の先生が座っていました。昭和28年5月のことでした。
 先生は私にこう言うのです。
 「いくら親孝行しても、人に信用されても、宗教に誤りがあると幸せにはなれません。福運が消えてしまう。福運が消えてしまっては幸せにはなれません」
 “よくわが家のことが分かるな”と思いました。父は戦前、運送屋を大きくやっていましたが、戦争が終わり、結核になって仕事も駄目になってしまったのです。
 私は心を開き、先生に一家の状況を話しました。当時のわが家は、夫は結核、私は貧血、息子は小児結核と、家中、病気だらけでした。
 また、結核で亡くなった兄のことも話しました。長い闘病生活を送っていた兄は「人間が生きていくための正しい宗教があるわけだから探してきてくれ」と私に言いました。バイブルや新興宗教の本を買って持っていきました。すると「これはおとき話だ。原因がなくて結果だけがある」と。
 それを聞いた先生は「生命は永遠なのです。ご冥福を祈ってください」と。そして、こうも言われました。「人間だから南無妙法蓮華経と唱えることができるのです。人の心も分かるのです。悩みも分かるのです」と。
 私は先生の透き通った目を見ていました。「あー、私は幸せになれる!」。目の前がパーッと明るくなり、入会しました。


慈悲の香りで包み込む

2004年05月27日 | 折伏
 大聖人は立正安国論で、客と対話する主人を「蘭室の友」と呼んでいます。蘭の部屋では、その香りが自然に衣服などに染みついていきます。同様に、対話は、慈悲の香りが相手を包み込むようでありたい。
 弘教は押しつけでもなければ、組織のためでもない。
 弘教は、相手の仏界を礼拝することだから、最高に相手を尊敬する行為なのです。

「友だちになりましょう」
◆証言(藤沢弘さん=当時、文京支部)

 文京支部に池田先生が入られる前の折伏は、「四箇の格言」と自分の体験で、相手をやっつけていたわけです。言うことを聞かないと「罰が出るよ」と、 “けんか”みたいにやっていました。
 しかし、先生は全く違っていました。普通の話をされるのです。世間の話というか、平和とか社会とかの話を通して信心の話をされるのです。
 ある座談会では、先生は信心の話をされないで、世間の話をされ、「友だちになりましょう」と言われたのです。その後、何度か、先生と話をされたその人は、しばらくして入会されました。先生の折伏は形式ばったものではありませんでした。

「話をよく聞くことです」
◆証言(宮崎初恵さん=当時、文京支部)

 折伏ができないで悩んでいる人に先生は、対話の仕方をこう語られました。
 「相手の話をよく聞くことです」
 その人の折伏は一方的に話し続けることを先生はよくご存じでした。
 「『実は・・・』と言い出したら本物です。それを言い出さないうちは、信用されていない証拠です」。家庭指導に行く幹部にも先生は同じことを言われました。
 「映画の話、世間の話をしていても、いつかはこの御本尊を持たせて幸せにしてあげたい。そういう思いでいれば、すべてが折伏です。そうでないのは単なる遊びです」と。

「あの人はどうしましたか」
◆証言(朝香毅靱さん=当時、文京支部)

 なかには入会を決意できない友人もいました。池田先生は、その2、3ヶ月後の座談会の時、こう言われるのです。「この前、来られた方はどうしましたか」。
 それを聞いた紹介者が友人宅に行きました。先生の言葉を伝えると、「私のことを覚えていたんですか」「あんな立派な方が自分のことを・・・」と言って、入会決意をしたのです。そういう方がたくさんいました。


優しく教えればいい

2004年05月27日 | 折伏
 折伏は、喧嘩をしにいくのではない。どこまでも慈愛です。
 戸田先生は言われた。
 「折伏を、素直に、どんどんしなさい。それから、人を憎んではならない。けんか口論はいけない。
 まじめに、やさしく教えればよい。その教える精神ができればよいのです。それで反対すれば、反対した本人がだめになる。
 やさしく教えるという気持ちです。恋愛みたいなものです」と。
 面白いこと、おっしゃるね、戸田先生は。恋愛なら、みんな一生懸命だろう。何枚も何枚も便箋を無駄にして、手紙を書いたり。今度の休みの日、どんな言葉で誘おうかなと、夜が明けるまで考えたり。それがうまくいって、結婚して後悔するようなことは、「折伏」にはないけれども。

「まず信心してみてください」
◆証言(山名泉さん=当時、文京支部)

 昭和30年、「札幌夏の陣」と呼ばれる地方折伏の時に、私は入会しました。知り合いに連れられて座談会に行くと、大勢の人が会場の外にまであふれていました。
 透き通った瞳の凛々しい青年が話をしていました。池田先生でした。先生は穏やかな声で語りました。
 「この部屋に入る時、暗かったら電気をつけるでしょう。“どうして明るくなるか分からないうちは電気をつけない”という人はいませんね。ダムから発電所や電柱を経て部屋に送電され、スイッチを押すと電気がつく、という勉強は、まず部屋を明るくしてからするといい。先決は電気をつけることです。今、悩みごとや病気で困っている人は、まず信心してみることです。その後にどうして解決するのか学べばいいのです」と。
 話は私の胸にストンと収まり、納得できました。
 終了後、「今の話を聞いて、納得できるという方は残ってください。そうでないと思う方はお帰りください」と先生はおっしゃいました。
 30人ほどが残りました。その一人ひとりに「どうですか。やってみますか」と聞かれ、私の番がきました。「ハイ、私は電気の探求は後にして、信仰してみます」― 私は入会の決意をしました。

「それが余計なんです」
◆証言(宮崎初恵=当時、文京支部)

 家族の折伏には、池田先生は、それはそれは慎重に、強引にではなく心配りをするように、と語られていました。
 「主人と子どもが信心しません」と言って指導を受けた婦人がいました。
 先生は「あなたは何を信じているんですか」と聞かれました。婦人はきょとんとして何も言うことができません。「悩みがあるから、乗り越えたいから、信心をされているんでしょう。『人生に必要を感じてやっています』。そう言うのが折伏なんです。ご主人や子どもさんに『あなたもやんなさい!』、これが余計なんです」

相手の考えを言ってもらう
◆証言(白井正作さん=当時、文京支部)

 文京支部長代理だった先生は、私たちと違ったことを折伏で話されたのではないんです。では、どこが違うか。私たちは「こんなことも知っているぞ」と、しゃべっているんです。こっちの知っていることをしゃべり、相手を打ち負かしてやろうと。
 先生は違います。相手を救っていくと。相手のことを尊重して、相手を納得させていくんです。
 かつて先生から、こういう指導を受けたことがあります。
 「折伏は、こちらが知っていることをしゃべっても駄目です。相手がどう考えているかを聞き、言ってもらうのが折伏になるのです。そして相手が言ったこと一つ一つを丁寧に破折していくのです」
 文京支部の故・寺島支部長が入会する場に居合わせました。皆、寺島さんへの折伏を敬遠していました。お金持ちで、怖い感じの人だったからです。私たちが折伏すると、「この若造が生意気言うな」と。
 ところが、先生はこの人を幸せにしようという一念で、こう言うのです。「いくらお金を持っていても、ビルを持っていても、本当の幸せにはなれません。それはあぶくみたいなものです。本当の幸せは、自分の命で感じるものです」
 寺島さんは「この青年は違うぞ」と、それから話をじっと聞かれ、入会したのです。