貞観法 和らぎ通信

和らぎ体操研究会のニュースなどを中心にして記して行きます。

玉磨き 4

2010-03-27 23:56:27 | 玉磨き
このようにして、このお店のご主人と刃物研ぎの話の遣り取りから、ああ、刃物を研ぎ続けるという単純な作業を繰り返すことは、きっと、私が小学生の頃に只々走り続けた結果、何とも言いようの無い感覚に浸ったのと同じようにと成るに違いが無いと確信するようにとなって、脇目から想像すると何やら恐ろしげな世界に導かれて行ってしまうのではないかと思えてしまうことではあるが、夜中にも拘わらずに刃物研ぎにと駆り立てられる気分は、こうした感覚的な気分にと浸りたいという身体的な欲求から起こっているのではないか、と想像を巡らした。

そうした意味からしたら、却って、物音も無く他人の目も無い夜の方が、そうした感覚の世界に入って行く上には適しているのかも知れない。何となく、私にもそうした行動をとる人達の気持ちも判らぬでもないような、そんな気がして来たのである。

さらにと、こうした思いを強く手伝わせるような状況が、その時にあった。

こちらの店内には、その時「槍鉋(やりがんな)」が展示販売されていたのだ。

「槍鉋」というのは、もともとは正倉院に保管されていたらしいもののようで、それを見た法隆寺の宮大工の西岡常一棟梁が奈良時代の木造建屋の部材の表面に残されていた加工痕の状況から、その使・用途を木材の加工のために用いたものであろうと判断し、これを復元して道具として再び使うようにとした物であることは、西岡棟梁の手がけていた薬師寺の金堂や西塔の再建する際の状況を追ったテレビのドキュメンタリー番組や、その著書など何冊か読んでいたので以前から承知はしていたのだが、まさか、こちらの店内で、その実物を見ることが出来るとは思ってもいなかった。

西岡棟梁には名言が沢山にあって、そのどれもが含蓄のあるものだが特に私が惹きつけられ印象に残っている姿は、とにもかくにも道具の手入れを念入りにすることが最重要なこととして後進の人たちに求めていたことである。極端に言ったら、この槍鉋をはじめひ平鉋や鑿といった刃物の研ぎの良し悪し以外は伝え教えることは無いといった考え方をされていたようにしか私には映っていない。

どのような裏づけが在って刃物研ぎが宮大工として従業する者にとって大事であるのか、棟梁自身がどう捉えていたのか勿論私に判るはずも無いことだが、もしかしたら、刃物を研ぐ動作を長時間に亘って行っていることによって、不思議な身体的感覚にと嵌ることと深く関わっているのではないかと想像することは出来るような気がするのである。

その旨もお店のご主人に対して話を振ってみたが、「うぅ~ん」とうなり声を上げ、暫くしてから「どうなんでしょうかねぇ~」と言ったきり後の言葉は出ては来なかった。

これは私の勝手な推察でしかないが、道具である刃物の切れ味を充分に引き出せるような研ぎが出来るには、おそらくのこと、身体の脱力が出来、刃物と砥石の接し方に力の偏りが無くならないと駄目であろうと思えるから、このような状態での研ぎの作業が出来るようにならなくてはならない筈であり、その為には何度も何度も繰り返し繰り返し反復練習をする必要があるだろう。

一旦身体に染み込ませられたら、それで完了ということでもなく、暫くやらずに居ればその感覚はまた自分の癖を帯びて逆戻りしてしまうこともあるだろう。

そして、こうした作業は単に道具の手入れを丹念に行って刃物の切れ味を良くしておくという事だけでなく、身体の状態や心持の状態をも健康健常にと維持させる働きも当然のことながらあるだろうし、さらに言えば、仕事が見えるようになり、仕事を識る様にも成れるのではなかろうかと考える。

そんな風に捉えてみると、「刃物研ぎ」は「求道」や「修行」の方法として最良の手立てではないだろうか、だからこそ、実際的な大工仕事の知識や手段を伝えることよりも、何にも増していの一番に西岡棟梁がお弟子さんたちに「刃物研ぎ」を強く勧めておられたのではないか、私はそんな風に解釈している。

続く
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玉磨き 3

2010-03-22 00:35:48 | 玉磨き
こうした疑問に対しての絶対的にこうだと断言できるだけの回答を私は答えとして持ち合わせている訳ではないが、「すべては息の仕方と体がとる姿勢、それに心持が関わっているだろう」と言える気はする。

一つだけはっきり言えることは、小学生の時に感じた感覚は、記録とか他者との競争とかが走る上で意識されたことは無かったということであり、ただ単純に走っていた結果に依ってもたらされたものであったということ。

そして、中学校のクラブ活動で行った練習は「早く走れるように」「持久力を培う為に」とかいった具体的な目的があってやられていたものであったということ。

しかし、今になって考えてみると何気ないことであるのだが、一方の「早く走るための走り」と、もう片方の「走りたいから走った」という、たったこれだけの違いが、走ることによって引き起こされた身体の感覚に、これだけの違いを生んでいたのだということに驚かされるのである。

息を吐き(脱力して)作業・運動が行えれば、息を詰めて何か事に当たるよりも「疲れ」を感じることは少なくて済む事は、誰でもが経験上承知していることであり、そのことを思い知らされる場面は誰にもあることであろう。

きっと、私の小学生の時の走りはこんな気楽な気分で以って走っていたと思う。

今まで経験したことの無いような事柄にと取組まねばならない時、新しい事・未知な事を自分のものにと取り込もうする際など、心持が緊張して思わず知らず「息を詰め」、「身体を固め」た状態で過ごした後で、心身に痛みや疲れを感じるようにとなってしまう。

クラブの仲間がいて、顧問の先生がいて、その管理下で走った走りというのは、私にとっては走ることによって緊張が生まれ、息が詰まり身体を硬くしてしまう作用を与え、気分は楽になるどころか苦を感じさせるもの以外ではなくなってしまっていたのでなかったか、そんな風に今思い返してみると思える。

このようなことがきっと土台になっているのであろう。よくものの本や人の話でも説かれているのを目にしたり耳にしたりする中で、「本来の自分」の力や心のあり方を引き出せるようにとするには「平常心」が大事だとか、「無念無想」とか「無私・無欲」であることが大切だと説かれてある。

これって、此処に記した「私の走り」によって感じられた事に照らしてみても、如何に身体の力を抜くか、言い換えれば、如何に効率よく「息を吐き出し」、気分を楽にして事を行うことではないかと思う。

話は飛ぶが、小江戸・川越の古い家並みの中に刃物を商う家がある。

この店の店内では何時でも店主さんがお客さんから依頼を受けてのことなのだろう刃物研ぎをしている。
その様子を店を訪れたお客さんは眺めることが出来るようにとなっていて、私はこのお店を訪ねる度にその作業をじっと見ながら結構な時間を過ごす。

ある時、あまり長時間見ていたせいもあったのであろう、そのご主人から
「お客さんも刃物研ぎがお好きなのですか」?
「はぁ?、刃物を研ぐのに必要でやるのでなくて好きだからでやる人が居るんですか」?
と返すと、
「いやぁ、沢山いますよ。中には夜中に寝床から起き出して刃物を研いでいるという方も大勢さん居られますから、お客さんもそんな方たちとご一緒かなぁと思ったもんですから・・・」。

と声をかけられたことがあり、「その話、面白い」と思った私は、暫くの間、そのご主人と刃物研ぎの会話を楽しんだことがある。

「刃物研ぎにハマッテいるって人たちって、何でハマッテしまって居るんですかねぇ」と聞いてみると、「私も毎日こうして刃物を研いでいますが、これって不思議なもんで妙に心持が落ち着いてくるんですよねぇ、そして、何時までも続けていて止めたくなくなるんですよね。皆さんも同じ様なことを言われますから、おそらく、そんな理由からで無いでしょうか」

こんな話の内容の遣り取りをしながら、私には合点の行くことがあった。
きっと、このご主人さんの言っている感覚って、もしかしたら私自身も何度か味わったことのある「あの感覚」と同じようなものではないのだろうか??。

そんな風にと思ったのだ。

続く
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玉磨き 2

2010-03-14 23:50:55 | 玉磨き
道場にと私が持ち込んだのは、この石の磨きを私が引き継いで仕上げてみてみたいと思い立ったからである。

荒砥で研いだ痕が小さな傷跡として残り、それこそ「玉も磨かずんば光りなし」の諺通り。重量は正確には量っても見てはいないが、おそらくのこと、持った感覚からして10kぐらいはあるのではないだろうか。

石の節理にあたる部分が線状に赤錆が浮き出たような状態で、ところどころには、銀のような鈍い光を持った小さな金属粒が石の中に見えるところもあって、石は一様な見た目を呈してはいないが、灰白色した玉質でねっとりとした感じがし、所々にヒスイ特有の銀杏色した部分もある。磨き上げれば見栄えのよい石になるだろう。磨き上がった結果を想像しつつ楽しみながら磨き出した。

磨いて石そのものを立派な見栄えのあるものにしようと思っていることは間違いがないのだが、もう一つ私がこの石を磨こうと思い立ったのには理由がある。

これまでにも、今回と同じようにして石磨きはして来たことがあるが、今回は今回でまた今迄とは違った想いで石磨きすることが出来たらと、そう思っている。

「切磋琢磨」という言葉があるが、この石磨きをすることによって今までの作業を通して感じて来た感覚以上に、自分の心身を健常健全な状況にと導いていく為の手立てとして、この石磨き作業によって功を奏すことが出来そうな、そんな感じがするものだから、そのことを実地に試してみたい気がしてのことである。

単純な動作を長時間に亘って行い続けることで、心身に感じ取れるようにとなる、ある種特別な感覚があることはよく知られることであり、私自身何度もそんな感覚に浸ったことは経験として持っているが、その最初の体験は小学生の頃、時間が出来ると訳もないのに校庭を一人放課後に走り続けていた時であった。

確か、小学生の頃そんな感覚にと成ったことが何度かあった。

そんな事もあって、特別に走るのが他の子供たちと比べて早い訳では無かったが、何時しか走ること自体が好きにと成っていたから、中学校に進むと、迷いも無く自ら陸上部に入部して長距離のランナーを目指したものであった。

しかし、希望したこととは裏腹に部活に参加して練習を沢山すると決まって筋肉痛が起こり、歩けなくなり、痛みが取れてまた元の様に走ることが出来れば問題は無いのだが、段々と痛みは取れなくなり、終いにはふくらはぎからアキレス腱にかけてが慢性的に痛くなり、走ることが怖くなってしまい、結局は退部するようにとなってしまった。

走った上に得られた小学生時分のあの感覚は何故に起こったのだろうか?

そして、その後では痛みばかりであの感覚を得ることが無くなってしまったのは何故だったのだろうか?


続く
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玉磨き

2010-03-13 23:31:34 | 玉磨き
珍竹林さんちの給湯システムの工事があって、数年間風呂水の中に沈められっ放しになっていた石が風呂桶の外にと工事の人の手によって出された。

「風呂の中に入っていた石は外に出しましたよ」と、工事の人が声がけしている場に、丁度のこと出くわしたのだ。

そう云えば、この石も暫くのこと姿を見てはいないよな。と思い、懐かしく感じ風呂場を覗き込むと、洗い場の床に転がされている。

思わず抱き上げて運び出し、そのまま道場まで・・・・。

この石。もう8年位前になるのだろうか?

初めて糸魚川へと出かけた際に姫川で珍竹林さんが、川原に遊びに見えた近所に住むらしいご夫婦さんとの会話がはずむ中、ふと目をやった足元の砂の中に埋もれていたものであり、紛れも無い「ヒスイ」である。

表面を荒めの砥石で珍竹林さんが自らの手で磨いたのだが、その後は其の儘、自宅の湯船の中に沈めたままにしていたのだ。

続きは後ほど

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かき混ぜる

2010-03-10 00:47:24 | 日記
月曜の午前の道場が終わってから川口へと出かけた。

3日ばかり前のこと珍竹林さんとこで堆肥を作るのに貰っている馬糞に、米糠を米30k入り用の紙袋に5袋を混ぜ合わせた。

術後の体調が十分に回復してない状態では無理な作業ではあるが、糠も用意されているし陽気は春に近づいて来て畑仕事が待っているのに、折角貰った馬糞を其の儘で、買い込んだ米糠も放っておけば油が滲み出てしまって仕様が無くなる。そう思って、私が代って遣ったのだが、3日経っているので、それをまたあらためて掻き混ぜてみた。

万鍬を堆肥に立てると白い靄のような湯気が立ち上る。あわせて、何ともいえぬ馬糞と米糠の発酵した匂いが辺りに発ち込める。

丁度、犬の散歩に出ていた妹さんが「遠くの方までこの匂いが流れているよ」と帰りがてら声をかけた。

そんなに悪臭にも感じはしないが、そう言われて遠い日のことを思い出した。

私は小学5年生の頃から自家の便所からの糞尿の汲み出しを、祖母と一緒に肥料桶に天秤棒を差し入れ担ぐ役目を負っていて、体力が付くようになった中学生の頃には一人で汲み出すようになっていた。

汲み出した「生」の糞尿は一旦屋敷内にあった「溜」に入れ置き、発酵させてから改めて畑にと担ぎ出して肥料として使ったものである。

庭先に在る「溜」の臭いは結構きつく閉口する。

それを苦にした言葉を吐くと、たちまち叱られ口調で祖母から「くせえと思ったらかんまぜろ。かんまぜれば蛆もわかねぇんだ」と言われたものであった。

但し、かき混ぜれば当然のこと臭いはなお増す。

それをまた苦にして訴えると、「そん時は臭くても早くに枯れて臭いはなくなるんだ、くせえと思ったらかんまぜろ」と幾度と無く言われ耳たこになるくらいであったよなぁ。

新しい生の状態で練れていない未熟なものを動かしかき混ぜ、そこに空気を取り込ませると熱が生み出されながら、祖母の言葉を借りれば枯れて行き、作物を育てるに力をもったものにとなる。

練って練ってかん混ぜて、その中に含まれている微生物の活性を高めて、生の状態から枯れた状態へと導かせて行く。
これが上手く行かなければ、悪臭だらけの腐敗が起きて害を振り撒く。虫も湧く。

考えてみれば全てに同じ事が起こる。
わが身も同じことだなぁ。とそんなことをつくづく思いながら馬糞と米糠に空気を絡めこむようにしてかき混ぜた。
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