言霊
「言挙げ」についても、また、「言祝ぎ」についても言えることは、私たちが「呼気」の乗せて吐き出す言葉によって、引き起こされる「事」の状況が変わるといった見方や考え方がある。ということを示していると捉えることが出来るのでしょう。
このことは「言霊」があるということであり、「言挙げ」・「言祝ぎ」とも「言霊」に寄せる私たち祖先の信仰が背景にあった上で成り立っていることであり、これを認めていることの証のように私には思えるのです。
ちなみにwikiに依れば以下のように記載されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E9%9C%8A
どうも私たちの父祖たちは、殊更に「言挙げ」をして自分を主張したり、意見を述べたりすることに躊躇いを持って暮らしてきたように思えます。
自分が吐いた言の葉によって、その行く末までも責任を持たなくてはいけないという思いもあったのでしょうし、ましてや、前にも記したように、それが自惚れから発せられた不用意なものであったり、他人に対しての悪口や中傷であったりした場合など、その付けが、やがては、それを吐いた本人に巡って来るものだと信じていたのでしょう。
その事を私の場合は、祖母からの諭しとして「余計っこ事は言うな。減らず口を言う間があったら、少しでも手を動かせ。黙り馬鹿は三年分かんね~」と、幾度となく聞かされたのであったと思います。
「口は災いの元」と言った事であるということを言いたかったのでありましょう。
それでいて、一方では「人様に向かって一つの仁義も切れね~ようでどうする」とよく叱られもしたものです。
こちらの場合は「必要な口の一つも、気を利かせ必要な言葉は吐けなくてはいけない」といった意味であったのだと思います。
きっと、少し前までの人たちのこうした言葉を吐くということに対しての考え方の背景には、「吐いた言葉によって引起される事柄が決定される」といった見方。突き詰めれば、「言葉(=事の端)には、その言葉の霊が宿り、その言霊に見合う事象が引起される」という言霊に寄せる信仰があったのであろうと察することが出来るように思えます。
ただ、私の中では、こうした言霊に寄せる古代の人々の考え方があったことは若い頃から承知はしていたものの、それはそれとして位置づかせていて、実際のところではこうした捉えられ方が現実味を帯びたものとして存在してはいませんでした。
三峰の「狛狼」を見てから後のこと、いろいろと思いを巡らす中に、ふと、もしかしたら本当に言葉に霊力というものがあるのかも知れない。と思うようにとなっていったのです。
そうだ、このこともヒトの身体でその事を試せるかも知れないと思いついたのです。
いつも私が取る常套手段である実験を行ってみたのです。
ヒトにはその人その人でツレやコリの出やすい体のポイントというものがあるものですが、最初にそのポイントとなる場所の状態を確認しておいてから、「あなたの体に痛みやコリが作られます」と声がけをして、同じポイントを押さえてみると飛び上がって痛がるようにと見事に変化します。
今度は反対に「あなたの体にある痛みや異常がみんな消えます」と言ってから、同じように同じ場所を同じようにして押さえ込んでみると、ものの見事にそこからはツレやコリが消え去っています。
中にはこんなことを書くと、「そんな馬鹿な」と思われる方がおられるかも知れませんが、実験する者と実験される者とがいたら、どなたでも簡単に行える実験です。誰がやっても同じような結果が得られる筈です。
今度は言葉を変えて、「あなたは馬鹿だね」と声がけしてみると体に異常がつくられ、「あなたはとても良い人です」と言うと異常が消えていくのです。何人も何人もに同じ実験を行いましたが、みんな同じような結果が出るのです。
被験者になってくれる人に対して、私が思うに馬鹿だとも思えない人であっても「馬鹿だ」と言えば、それを聞かされた人の上に引き起こされる体の変化は「コリ」が多少の違いはあっても必ず作られています。
必ずしも良い人だとも思えない人であったとしても、「良い人ですね」と言葉をかけると体の「コリ」は軽くとなるのです。
何度もこんな実験を繰り返してから、私は「言葉の持つ呪力」と言ったらいいのか「言霊」というものに対して信じるようにとなったのです。
ただ、こう信じられるようになった筈なのに、実際の自分が普段から、自分が吐き出す「言葉」に気をつけるようにしているのかと問われると、自信を持って「はい」と答えられないことを自戒しなくてはならなくなってしまうのですが・・・・