貞観法 和らぎ通信

和らぎ体操研究会のニュースなどを中心にして記して行きます。

「吐出」と「吸入」 その2

2009-02-27 01:05:47 | 息の緒

前の記事に関連して、やはり、「言葉」が「水」の質に与える作用の仕方について参考となろうかと考え、以下のリンクを貼っておきます。
http://ichiba.iroha.ws/2005/07/post_13.html
このページ下段にある 参考映像・「水の世界からの目覚め」をクリックしてみて下さい。

なお参考までに・・・、ここに登場している飯島浄水器というのは道場でお分けしている「水」の製造元で作られたものです。

さて、「水の結晶」のことはこれ位にして本題に戻ります。

「呼気」にと乗せられた「言葉」というのは、捉え方を少しばかり変えてみれば、それを発した側からの送信であって、当然のこと、その「言葉」を受け取る側も在る訳で、言うなれば「言葉」を介して送り手と受け手の絡みによって「事物(こと)」が成り立っていると理解することも出来るように私には思えるのです。(こうした見解も科学者に言わせれば違うということになるのかも知れませんが・・・)

古代に於いて、「言」と「事」とが一体のものとして捉えられていたと言われるのも、素直に頷けるように感じます。

「呼気」で息を吐き出したら、それに見合って、必ず、「吸気」で息を吸い入れなければ、私たちは生命を繋いでいけなくなるのは誰でもが知っていることであります。

換言すれば、「言葉」の作用も含め吐き出される「呼気」の持ち合わす性質によって、取り入れられる「吸気」の示す性質も決定付けられるのではないか?
私にはそんな風に考えられるのです。

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「吐出」と「吸入」 その1

2009-02-26 09:17:16 | 息の緒

先日のこと、当ブログの記事を読んで下さっておられる方より、『「阿吽」の記事から急に「言(こと)」に関わる内容にと変わってしまっているが、その繋がりについての説明があった方が良いのでは』と言ったご意見を頂きました。

成る程、指摘を受けて見れば、その通りであると私にも思えます。

遅らばせながら、その意としたところを記せば、「呼気」の時に声帯を震わせ、主に口腔と舌の形を変える事によって、私たちは「言葉」を発して自分の意志や感情を周りにと伝えているわけですが、その発信される「言の葉」が回りに与える影響について、昔の人たちはどのように捉えていたのであろうかといった視点から、「言(こと)」が使われた語の幾つかを拾い出して、その後について考えてみようとした思いから、「言挙げ」・「言祝ぎ」・「言霊」と表題をつけて記させてもらったのでした。

そして、前の記事にも書いたように、「言(こと)」と「事(こと)」とが上古においては同一に捉えられていたということを証明立てるように、吐いた言葉の内容によって身体が示す反応が違ってくる事実について、私自身、道場で行った実験結果から確認できたことも述べ、昔の人たちが信じていた「言葉の持つ力=言葉の呪力=言霊」があることを追認したのです。

ただ、こうした事が科学的に証明されるに馴染むようなものでもないだろうと思われますから、きっと、「科学者」と言われるような人たちから見たら「ニセ科学」と片付けられそうな気もします。

もう十年位前になるでしょうか、こちらの話は身体ではなく「水」でのものです。
今でも道場に見えてくれているY(妻)さんが一冊の本(水の結晶の画像)を持って来て私に見せてくれたことがありました。

本のタイトルは忘れてしまいましたが、ネット検索したら、以下のサイトを見つけました。記されていた(画像)内容は、ほぼ同じであったように記憶します。

http://www.ne.jp/asahi/aquarius/messenger/books_002.htm

公平を期すために、これに反対する意見もありましたので、こちらのサイトもリンクを貼っておきます。

http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fs/

 

 

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言霊

2009-02-18 23:49:27 | 息の緒

言霊

「言挙げ」についても、また、「言祝ぎ」についても言えることは、私たちが「呼気」の乗せて吐き出す言葉によって、引き起こされる「事」の状況が変わるといった見方や考え方がある。ということを示していると捉えることが出来るのでしょう。

このことは「言霊」があるということであり、「言挙げ」・「言祝ぎ」とも「言霊」に寄せる私たち祖先の信仰が背景にあった上で成り立っていることであり、これを認めていることの証のように私には思えるのです。

ちなみにwikiに依れば以下のように記載されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E9%9C%8A

どうも私たちの父祖たちは、殊更に「言挙げ」をして自分を主張したり、意見を述べたりすることに躊躇いを持って暮らしてきたように思えます。

自分が吐いた言の葉によって、その行く末までも責任を持たなくてはいけないという思いもあったのでしょうし、ましてや、前にも記したように、それが自惚れから発せられた不用意なものであったり、他人に対しての悪口や中傷であったりした場合など、その付けが、やがては、それを吐いた本人に巡って来るものだと信じていたのでしょう。

その事を私の場合は、祖母からの諭しとして「余計っこ事は言うな。減らず口を言う間があったら、少しでも手を動かせ。黙り馬鹿は三年分かんね~」と、幾度となく聞かされたのであったと思います。
「口は災いの元」と言った事であるということを言いたかったのでありましょう。

それでいて、一方では「人様に向かって一つの仁義も切れね~ようでどうする」とよく叱られもしたものです。

こちらの場合は「必要な口の一つも、気を利かせ必要な言葉は吐けなくてはいけない」といった意味であったのだと思います。

きっと、少し前までの人たちのこうした言葉を吐くということに対しての考え方の背景には、「吐いた言葉によって引起される事柄が決定される」といった見方。突き詰めれば、「言葉(=事の端)には、その言葉の霊が宿り、その言霊に見合う事象が引起される」という言霊に寄せる信仰があったのであろうと察することが出来るように思えます。

ただ、私の中では、こうした言霊に寄せる古代の人々の考え方があったことは若い頃から承知はしていたものの、それはそれとして位置づかせていて、実際のところではこうした捉えられ方が現実味を帯びたものとして存在してはいませんでした。

三峰の「狛狼」を見てから後のこと、いろいろと思いを巡らす中に、ふと、もしかしたら本当に言葉に霊力というものがあるのかも知れない。と思うようにとなっていったのです。

そうだ、このこともヒトの身体でその事を試せるかも知れないと思いついたのです。

いつも私が取る常套手段である実験を行ってみたのです。

ヒトにはその人その人でツレやコリの出やすい体のポイントというものがあるものですが、最初にそのポイントとなる場所の状態を確認しておいてから、「あなたの体に痛みやコリが作られます」と声がけをして、同じポイントを押さえてみると飛び上がって痛がるようにと見事に変化します。

今度は反対に「あなたの体にある痛みや異常がみんな消えます」と言ってから、同じように同じ場所を同じようにして押さえ込んでみると、ものの見事にそこからはツレやコリが消え去っています。

中にはこんなことを書くと、「そんな馬鹿な」と思われる方がおられるかも知れませんが、実験する者と実験される者とがいたら、どなたでも簡単に行える実験です。誰がやっても同じような結果が得られる筈です。

今度は言葉を変えて、「あなたは馬鹿だね」と声がけしてみると体に異常がつくられ、「あなたはとても良い人です」と言うと異常が消えていくのです。何人も何人もに同じ実験を行いましたが、みんな同じような結果が出るのです。
被験者になってくれる人に対して、私が思うに馬鹿だとも思えない人であっても「馬鹿だ」と言えば、それを聞かされた人の上に引き起こされる体の変化は「コリ」が多少の違いはあっても必ず作られています。
必ずしも良い人だとも思えない人であったとしても、「良い人ですね」と言葉をかけると体の「コリ」は軽くとなるのです。

何度もこんな実験を繰り返してから、私は「言葉の持つ呪力」と言ったらいいのか「言霊」というものに対して信じるようにとなったのです。

ただ、こう信じられるようになった筈なのに、実際の自分が普段から、自分が吐き出す「言葉」に気をつけるようにしているのかと問われると、自信を持って「はい」と答えられないことを自戒しなくてはならなくなってしまうのですが・・・・

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言祝ぎ

2009-02-06 23:19:49 | 息の緒

「言祝ぎ」

「祝言」という語が生きているのは、時代劇や古典落語の世界ぐらいでしょうか?
「祝言」という語が聞かれなくなって久しいものがあります。

子供の頃、周りの大人たちが話す言葉で、今のように「結婚」という言い方よりも「祝言」という言葉の方が耳なじみが良かったものでした。「どこそこの家じゃ、今日は祝言だとよ」と大人たちが話すのを聞くと、「おっ、引き出物のお祝いの打ち菓子が食えるのかなぁ」と期待をしものでした。

「言」と「事」とが一緒であるとする考え方からしたら、「祝言」は「結婚」のみならず、「祝事」全部をさしての語なのでしょうが、私が知っている「祝言」は殆ど「結婚」と同じであって、それ以外も含まれるといったことは、子供であったせいもあるかも知れませんが考えたことはありません。私の中では、「祝言」=「結婚」でありました。

「祝言」とは字義のとおりに解釈すれば、祝い言を述べるような出来事や場所すべてを本来は指すことであったのでしょう。

私が子供の頃には、今の結婚式場のような場所で式を行うことは殆ど稀で、大方は自宅での「祝言」が普通でしたし、そのうちの何軒かでの様子を思い出すと、必ず謡を唸るおじさんがいて「高砂や~この浦舟に帆を挙げて~」が歌われていた情景が浮かんできます。

謡の「高砂」は「祝言」であったのでありましょう。

「祝言」の語を反転すると「言祝ぎ(ことほぎ)」となり、一字で書き表すと「寿」となりますが、同じ言葉を吐くのでも「言挙げ」とは異なって、こちらは目出度く、そして有難い言葉であります。

以前にサンカ小説家・三角寛氏の作品の中に「寿」が登場する箇所が幾つもあり、これにはルビが「いのちながし」とあったことを記したことがありましたが、その絡みで言えば、40歳の「四十賀(五八賀)」。50歳の「五十賀」。60歳の「還暦」。70歳で「古希」。77歳で「喜寿」。以降、傘寿(80歳)。米寿(88歳)。卒寿(90歳)。白寿(99歳)。百寿(100歳)。茶寿(108歳)。珍寿(110歳以上の誕生日)。皇寿(111歳)。大還暦(120歳)。といった具合に長命であることを祝うということになります。

この様に「寿」の字が使われる場合には、「長命」を「言祝ぐ」ことの意味合いが持たれるようですが、「言祝ぎ」の純然とした意味からしたら、私が思いつく言葉は「おめでとうございます」しかありませんが、広く考えれば吉祥なる言葉すべてという事になるのでしょう。

結婚式が「祝言を挙げる」という言い方をされるのは、簡単に言ったら、吉祥な言葉を出すと言うことに尽きるのかも知れないと思うのですがどうなのでしょうか。親族や知友人たちから「祝いの言葉」をかけて貰うのも祝言でしょうし、何と言っても「祝言を挙げる」のは神前に対して「祝詞」を奏上する事を指しているのでしょうから、神様に対しての「お目出度い言葉を上げ奉る」ということとして理解していいのかも知れません。

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言挙げ

2009-02-04 13:14:36 | 息の緒


「言挙げ」

子供の頃の事、私の話を聞いてくれていた祖母から顔をしかめて叱られ注意を受けること度々とあったものでした。

それは話す内容が長く、くどかったり、他人の悪口であったり、私の少し自慢がかったものであったりすると、祖母は決まって、「あのなー、余計っ事は言うもんじゃねぇ。口を動かす間があったら手動かせ。お喋りが過ぎれば碌なことが起こんねーぞ、黙り馬鹿は3年分かんねーって言われてるくれーで、黙っていりゃー馬鹿であっても3年分かんねーんだよ。おめえみてーにぺらぺら喋っていりゃー、何の得になることもねーからそう思え」と諭し教えてくれたものでありました。

このような言葉や話にまつわっての諭しというもの親から子へ子から孫へと、今でも行われているものなのかどうか私にはよくは分かりませんが、少なくとも私の祖父母の世代までは厳然として存在していたと思われます。

こうした教えは、ずっとずっと古くから伝わってきた言葉に寄せる私たち先祖の捉え方があっての上のことだと、私は長じてから知ったのでした。

万葉集(巻13・3235)には「葦原の瑞穂の国は神ながら言挙げせぬ国・・云々」という有名な人麻呂の歌が遺されていて、しばしば「言霊」について語られる時には引用されますが、ここでいう「言挙げ」とは、「無暗に言葉に出してはならない」といった程の意味なのでしょう。また、wikiで「言挙げ」を検索すると以下のように記されています。 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E6%8C%99%E3%81%92

こうしたことから見て、「言挙げ」というのは言葉を発するということは同じであっても、吐き出されるその言葉の内容や、吐き出される時、その言葉を発する人の心理状態が問題とされるような状況で出た言葉を指していると私は捉えています。
また、言葉の持ち合わす力の限界を悟って、軽い言葉を吐くべからずといった戒めを込めた言い方であるようにも思えるのですが、「言挙げ」という語の実際の意味合いはどうなのでしょうか?

詳しい方が居られましたら、是非にもご教示をいただきたいものと思います。

さしずめ、子供時分に祖母から注意を受けた小言は、私の「言挙げ」に対してのものであったように思うのです。

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