貞観法 和らぎ通信

和らぎ体操研究会のニュースなどを中心にして記して行きます。

刀水のほとり 6

2021-10-13 12:29:51 | 刀水のほとり

境島村

上州島村は度重なる利根川の洪水によって集落は南北に二分されていて、利根川右岸の南側は埼玉県側に飛び地となっている。

20代・30代の頃、「落ち鮎」の時期になると烏川と利根川の合流する地点付近から右岸の高島裏の地点にかけての利根川右岸側で、この「落ち鮎」のコロガシ漁(錨形した幾つもの針を連ねた糸を川床に回転させながら流して、産卵するために集まった鮎を針にかけて捕獲する漁。)に戯れていたこともあって、とりわけ、ここ島村を挟んで上流の久々宇、下流の中瀬の辺り一帯にはよく出かけて行った事もあって私にとっては馴染み深い場所である。

刀水の右岸側(埼玉県側)の島村地域は、東西凡そ2.5K・南北一番広い所でも(堤防から)0.5Kしかない。

境平塚の上流に位置して、刀水に沿うように帯状に伸びた集落であるが、この狭い地域の中に幕末から明治にかけての時代、実に「多士済々」の方たちが生まれ出ている。


舟問屋の息子 島村伊三郎

前回、隣村の境平塚の舟問屋「福甚」の息子・福島泰蔵について記したが、ここ島村で舟問屋を営んでいた佐七の倅(長男)として寛政2年(1790年)に生まれたのが、後に博徒の親分となる「島村伊三郎こと町田伊三郎」である。

この辺り東上州には大前田栄五郎・国定忠治など現在にもその名の伝えられる博徒が大勢生み出されている。

島村伊三郎もその内の一人で、当時には「上州一裕福な親分」との評判であったとされ、その「縄張り」の中には日光例幣使街道の境宿(柴宿と木崎宿の間宿であったが、幕末・文久3年に宿場として格上げされた)は、六斎市での生糸の取引高は上州一であったと云われていた場所である。

さらに、利根川舟運の河港のあった平塚も中瀬も彼の縄張り内で賭場も開かれていたとされるが、二つの河岸共に利根川を上り下りする舟運の舟の荷積みを大型船から小型船へ、小型船から大型船へと積み替えをするための河港であったことから、人や物や金の行き来が盛んな豊かな所であった。

加えて、世良田の八坂神社や長楽寺といった社寺でも賭場が開かれたと云うから、これらの所から上がるテラ銭だけでもかなりの額の収益があったことは容易に想像がつく。

その島村伊三郎と縄張りと隣接して、境宿の西側には大前田栄五郎の息のかかった百々の紋次親分がいたが、年若くして病を抱え、一家の跡目をその子分であった国定忠治(長岡忠次郎)が引き継ぐことになる。

その忠治は自分より20歳年長で当時すでに大親分の貫禄の伊三郎を闇討ちし惨殺したのである。

「国定忠治」が主役の浪曲・講談・映画・読み物や上州民謡八木節などなど、これらの中で登場する伊三郎親分は「二足の草鞋」を履いた、お上の手先で民百姓を泣かす「悪役」で、忠治の子分の一人「三ツ木の文蔵」に賭場や酒屋で暴力をふるい痛めつけた仇敵のようにして描かれており、伊三郎を斬殺した原因はこれらの遺恨に因るものとされている。

が、実際のところは収益の多かったその縄張りに食指を動かされて、武闘派の忠治一家が伊三郎と敵対していた大前田栄五郎の意向なども受けて取った行動ではなかったかと私はそう思っている。

この事件が起きたのは、天保5年(1834年)7月伊三郎の行年は44歳。

忠治は24歳であったが、所謂「二足の草鞋」を履き、お上の御用を果たしていた土地の顔役であった伊三郎を駆け出し博徒の忠治が殺害したことから、八州取り締まり役からも目に付けられた忠治は大戸の関所を破り抜けて信州中野へと逃亡して、その名が関東一円に広まるキッカケになったとされる。

伊三郎の墓所は、島村の立作(りゅうさく)の共同墓地の一角に在り、その墓石には「蓮清淨花信士」の戒名が刻まれてある。

そしてもう一箇所、ここから南西方向へ一里ばかりの現・本庄市牧西の宝珠寺の境内の一角にも墓所が在るが、こちらは16歳の伊三郎が当地の兵助の子分になって博徒の道を歩き出した地であり、無宿人になった関係からか、生活の拠点は島村ではなしにここ牧西にあったようで、また、こちらには妾も居たと伝わっていることもある関係からか島村とは別にここにも墓地が設けられたのだろうか。

 

現在放映中の大河ドラマの主人公・渋沢栄一との絡みで云うと、伊三郎の生家や墓の所在地は、栄一の生家の北方約1キロの距離にあたり、伊三郎が忠治に斬殺された事件は栄一生誕の6年前であって、栄一の父・市郎右衛門と忠治とは生年が一年違いで文化6年・7年で同世代と云えるだろう。

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