「時間」を認知するために「太陽」がその指標となれば、当然のことに「空間」に対しての認識も生まれることになりましょう。「太陽」が昇る方角が「東」で、沈む方角が「西」。中天に太陽が昇った時にそれを望む方角が「南」、これの真反対が「北」といった具合にです。
「太陰暦」を用いて「月」を指標にしての「暦」を使っていたという時期よりも以前に生きた人たちにとって、「時間や空間」を意識化する上で「太陽」の果たしていた役割が、如何に大きく関わっていたかに改めて思い知らされるような気がしてきます。
そうした見方から、「太陽と身体」とを関連付けることの出来るのではないかと思える「体内磁石」・「北枕」・「東や西を感知する手立て」などの話を記してきました。
今日は暮れの21日。
明日は「冬至」です。
「一陽来復」の御札を授ける東京早稲田の「穴八幡神社」。この近場の私が知っている所では大宮の「黒塚山大黒院」。岩槻大戸の「第六天神社」など大勢の参拝人たちで混み合うことでしょう。
私達は自分の「年齢」を言う時に、あらためて考える間も無しに当たり前のようにして「○○歳」です、と答えていますが、考えてみればこれって「太陽の運行の一周期(科学的に言えば、地球が太陽の周りの軌道を一周回するために要す時間と言うことになるのでしょうが、ここではずっとこうした表現で過ぎてきてしまいました)」ですよね。
最近では余り聞かなくなった言葉に「寿命」という語が使われる表現がありますが、「もう寿命だから」・「寿命が長い」・「寿命が短い」・「寿命がある」・「寿命がない」・・・・等など。
ここでの「寿」も「とし」です。三角寛の「サンカ」を扱った著作の中であったかと記憶しますが、この文字に「いのちながし」といったルビが振られていたのを思い出します。
この「寿」については「息の緒」について述べる時にでも触れようかと考えていますが、「こと=琴=言=息」を「ほぎ=祝ぎ」といった意味の図式で成り立ったものと私は理解しています。
何回「とし=稔=寿=年」を経たかが、人間も含めその生物の「年齢」であり「寿命」の量(かさ)と言う事なのでしょう 。
その結び連なり続いていく様を「緒」に擬えて一つの言葉となされたのが、万葉の歌に詠み込まれている「年の緒」という語なのであろうと思います。
言い換えるなら、「長命」であることが「年の緒長く」ということにもなりましょうし、また、頭につく「あらたま」という枕詞も含めれば、年々歳々あらたま(更・改・革)って新しい命を授かって「再生」するといった意味合いをも合わせ持った言葉のようにも感じます。
私自身も来年には「齢60歳」の還暦です。
この「年の緒」にまつわる一連の記事を「太陽の運行上」のターニングポイントである、「冬至の日」を明日に控え一区切りとすることが出来たことを嬉しく思います。
読んでくださってありがとうございました。今後も宜しくお願いいたします。