「マジナイ」を調べてみて、私が得心の行かない点は何かと云えば、この語に通用されている漢字である「呪」・「蠱」は当然のことながら音読みで「まじ」と読まれることは無く、それぞれは「ジュ」・「コ」であって、これらの文字を言うなれば和訳する際に「マジ」と読むようにとなったとすると、そのもともとの「マジ」と云う和語(日本語)が何を指し、どのような意味を持っている語であるのかが解釈できなければ、この語の語源の由来とすることは出来ないのではないかと思えたからである。
そうした疑問をスッキリしてくれるような記述は辞書の中には見出せなかった。
学問的に照らした時に如何であるのかは判らないが、私は個人的に「マジナイ」の「まじ」は「交じる・混じる・雑じる」の「まじ」ではあるまいかと勝手にそう確信している。
そして、「マジ」の後に続く「ナイ」の語の方についてであるが、こちらは大辞林の「なう」の項に以下のように載せられている。
( 接尾 )
〔動詞四段(下二段)型活用〕
名詞・形容詞の語幹などに付いて、四段(時に下二段)活用の動詞をつくる。その行為をする意を表す。 「あき-・う(商う)」 「うべ-・う(諾う)」 「とも-・う(伴う)」 「あま-・う(甘なう)」
「マジナイ」の動詞形「まじなう」もこの範疇に入るのだろうが、こちらも私は独断と偏見とを以って、これを「縄を綯う」という用例のある「綯う」という行為から生まれた語ではなかったかと考えている。
つまり、「マジナイ」の語源は「交じり(混じり・雑じり)」+「綯い」であって、『交じらせ綯わせ合わす行為』に由来した言葉であるのではないかと考えている。
この解釈の仕方を以って、今一度、「呪」や「蠱」の文字が「マジ」と読まれるようにとなったのか考えて見た。
「呪」は人が膝を折り頭を額づきながら、神霊に向かって祈りの言葉を吐く様子を象形した文字であるが、これが我が国では、その姿態と神霊に対しての祈りの言葉は、この二者が「交わり」を持つこととして受け止められたからでなかったかと私には思える。
「蠱」は、容器に入れられた多種類の主に毒を持った昆虫や爬虫類などが互いに食い尽くしあい、より強い毒性「蠱毒(こどく)」を持ったものへと昇華したものを指しての文字のようで、そうした特性を持つものを「蠱物(まじもの)」と呼び、どうもそうした手立てを講じることを「蠱こむ(込む)」と云うようだから、こちらの場合も「交(混・雑)わらせる」と理解したことから、「まじ」と訓読みされるようになったのだと解釈しても良さそうな気がするのである。
そうした疑問をスッキリしてくれるような記述は辞書の中には見出せなかった。
学問的に照らした時に如何であるのかは判らないが、私は個人的に「マジナイ」の「まじ」は「交じる・混じる・雑じる」の「まじ」ではあるまいかと勝手にそう確信している。
そして、「マジ」の後に続く「ナイ」の語の方についてであるが、こちらは大辞林の「なう」の項に以下のように載せられている。
( 接尾 )
〔動詞四段(下二段)型活用〕
名詞・形容詞の語幹などに付いて、四段(時に下二段)活用の動詞をつくる。その行為をする意を表す。 「あき-・う(商う)」 「うべ-・う(諾う)」 「とも-・う(伴う)」 「あま-・う(甘なう)」
「マジナイ」の動詞形「まじなう」もこの範疇に入るのだろうが、こちらも私は独断と偏見とを以って、これを「縄を綯う」という用例のある「綯う」という行為から生まれた語ではなかったかと考えている。
つまり、「マジナイ」の語源は「交じり(混じり・雑じり)」+「綯い」であって、『交じらせ綯わせ合わす行為』に由来した言葉であるのではないかと考えている。
この解釈の仕方を以って、今一度、「呪」や「蠱」の文字が「マジ」と読まれるようにとなったのか考えて見た。
「呪」は人が膝を折り頭を額づきながら、神霊に向かって祈りの言葉を吐く様子を象形した文字であるが、これが我が国では、その姿態と神霊に対しての祈りの言葉は、この二者が「交わり」を持つこととして受け止められたからでなかったかと私には思える。
「蠱」は、容器に入れられた多種類の主に毒を持った昆虫や爬虫類などが互いに食い尽くしあい、より強い毒性「蠱毒(こどく)」を持ったものへと昇華したものを指しての文字のようで、そうした特性を持つものを「蠱物(まじもの)」と呼び、どうもそうした手立てを講じることを「蠱こむ(込む)」と云うようだから、こちらの場合も「交(混・雑)わらせる」と理解したことから、「まじ」と訓読みされるようになったのだと解釈しても良さそうな気がするのである。